さよならと問う

羽間慧

第1章 残照の熱

第1話 距離感

 六限目の講義が終わった。

 次の講義室へ急ぐ人もいる。しかし、そのまま帰る人がほとんどだった。卒業を控えた四年生にもなれば、必修の単位はごくわずかだ。入学したてのころとは違う。授業料を惜しむ気持ちは薄れ、空きコマを最大まで減らした時間割を作らなくなった。


 竹野内たけのうち小夜さよも彼氏が履修しなければ、アルバイトの時間を増やしていた。できることなら大学に行く日を増やしたくないと思う。ゼミで卒業論文の進捗を確認する月曜日以外は、全休にするつもりだった。

 先行研究の探し方も、適切な引用も頭に叩き込んでいる。講義のない日に大学へ行かなくても、卒業論文は書ける。規定文字数はとっくに超え、終章の仕上げを残すのみだ。バックアップは取ってあるため、データが消える心配はない。減らしていたシフトをまた増やそうと考えていた。


 教授は、十月から卒業論文を書く時間に充てなさいと話していた。十月下旬になってもアルバイトを続ける小夜に、いい顔は見せない。小夜は心の中で、教授は三分の二すら満たしていない人に向けて注意を促していると言い聞かせていた。


 彼氏と付き合うためにはお金がいる。父から毎月もらう小遣いは、研究書を買う費用にしていた。勉強に妥協したくはない。そして、父の労働の対価を、彼氏におごるために使うのは気が引けた。テーマパークは入園料以外に食費もかかる。卒業旅行の資金を稼ぐため、目標の額に届くまではアルバイトをやめられなかった。


 彼氏と駅まで一緒に帰りさえすれば、今日のアルバイトを頑張れそうな気がした。憧れだった本屋のアルバイトは段ボールを運ぶ重労働で、本好きでなければ続かなかった。幸せを届けたいという思いだけなら、とっくに心が折れていた。


 提出物を渡し終えた小夜は、最前列の青年を見つめる。梅林うめばやし朔磨さくまは、出席票代わりのコメントペーパーと向き合っていた。講義の感想を一つだけ書けばいいものを、彼氏は最後の欄いっぱいまで埋めようとする。


 律儀だ。朔磨は肩の力を抜くことを知らない。研究より雑務に追われている教授が、コメントペーパーを熟読できるとは思えない。最終レポートで頑張ればいいのに。


 朔磨は小夜と視線が合うと、悲しげに俯いた。


「ごめんね、小夜。僕の書くスピードが遅いせいで」

「さっくんが謝ることないよ」


 小夜は焦る。程々にしなよと、たしなめることはしなかった。

 朔磨の誠実なところが一番好きだった。それに、朔磨を見ていれば、無性に髪を撫でたくなる。毛並みのよい動物を眺めている気分だ。茶色がかった黒髪は細く、手触りがよさそうだった。


「私は待つよ。バイトまで時間があるし。まだ、さっくんと一緒にいたいから」


 小夜は朔磨の隣に座った。


 たとえ同じ講義を取っていても、隣の席には座らない。それが付き合ったときに交わしたルールだ。小夜が折れる形で決まった。

 好きな人と隣の席になりたい。小学校も中学校のときも、そう願ってきた。朔磨がどうしてもと頼み込まなければ、小夜の意思は曲がらなかった。


 最初はもどかしかった。もしかしたら、罰ゲームで告白したのかもしれないと思った。小夜は恋愛ものの小説や映画が好きで、そういう展開をしばしば見てきた。自分も騙されている気がして、不安になるときもあった。


 今では、朔磨の提案に感謝している。

 たった九十分しか離れていないのに、そばにいられないことが苦しく思える。特別なことは何もしていないはずなのに、付き合いたての新鮮な気持ちにさせてくれる。


 朔磨は小夜の価値観を一変させてきた。朔磨と付き合うようになってから、小夜は贈り物をする楽しさを知った。物をあげるのは、記念日のみに限らない。講義終わりの空き教室で課題をする朔磨に、売店で買ってきたコーヒーとお菓子を差し入れした。レポートの邪魔にならないように、隣で本を読んだ。ページを繰る音を最小限に抑えて。ときどき、朔磨が呟く疑問に答えたり、スマートフォンで一緒に論文検索をしたりした。


 会話を楽しむことより、同じ時間を共有できること方が嬉しかった。言葉にしなくても、互いを好きな気持ちは伝わる。そばにいるだけで幸せだった。


 空白が残り二行を超えた。言葉が思い浮かばないのか、シャープペンシルは手に持ったまま動かなくなる。朔磨は腕時計の文字盤を見つめた。


「小夜、あと少ししたら行く?」

「まだ早いかな」


 じゃあと、朔磨はシャープペンシルを置いた。


「駅前のカフェに寄らない? 小夜の好きな、ほうじ茶ラテがあったよ。今年はホイップ多めだって。去年の写真より気持ち増量しているように見えたから、どうかな?」

「ほうじ茶っ!」


 小夜は身を乗り出した。幸せを補給してアルバイトに行けば、作業がはかどりそうだ。懐事情と天秤にかける。


「今日はやめとく。ほしいものがあるから、無駄遣いは控えないと」

「そっか」


 朔磨は、水に濡れたゴールデンレトリバーのように縮こまる。人目を気にせずに、ぎゅうっと抱き締めたくなった。


「せっかく誘ってくれたのに、ごめんね?」


 語尾をやや高めにして言ったのは、朔磨の罪悪感を減らしたいから。少しでも可愛い彼女に見せたいから。


「気にしないで。僕は大丈夫だから」


 朔磨は首を振り、微笑んだ。

 今日はここまででいいやと、コメントペーパーを提出しに行く。出来に満足しているようには見えなかった。


 自分の答え方が気に食わなかったのかもしれない。小夜は朔磨と階段を下りながら、一人で反省していた。


「待ちなさい!」


 教授の声に、小夜は階段を踏み外しそうになる。学生に小言しか話さない人だった。一つ結びにしたシルバーグレーの毛先が、刃のごとき鋭さを誇っている。優しい風合いのベージュスーツさえも、温かみを感じさせなかった。


「聞こえているでしょう? 呼ばれているのに無視をするなんて、社会人としての自覚が足りないのではないですか?」


 嫌味が鼓膜にまとわりつく。狙いを定めた学生に執着する様子は、床に張りついたチューインガムを彷彿とさせる。彼女の苛立ちが最高潮に達していれば、学生が謝罪するまで離れなかった。今日はそんな日らしい。最悪だ。彼氏といるときに。


 小夜はぎゅっと目をつぶったが、教授の手は違う人を掴む。ウェーブがかった髪は、パーマが切れてモサモサとしている。視界を遮断する前髪も、見苦しいことこの上ない。

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