第2章 明け烏の目覚め

第12話 優等生

 体育館を吹き抜ける風は、午後の日差しで温められていた。


「あっつ。五月になったばかりなのに、蝉が鳴きそう」 


 晃太朗は学ランのホックを外した。

 学年集会の後の服装頭髪検査は、いつも注意される。前髪が目にかかっているという理由は正当だ。だが、髪が細くて広がってしまう体質は治しようがない。

 そばで大きな溜息が重なる。


「日比谷先生に見てもらいたかった。あの先生、何だかんだで優しいじゃん」


 晃太朗は宮越和行みやこしかずゆきの言葉に頷いた。忘れがちな和行も、晃太朗とともに毎回指導されてきた。

 長い爪、校章または学年章のつけ忘れ、サッカー部のマネージャーからもらったミサンガ。抜き打ちではなくても、晃太朗と揃って再検査を宣告されていた。


「それな。俺も隣のクラスに混ざりたかったよ。反省文を出せば解放されるのに。鬼頭きとうは再検査に合格しないと、授業中ずっと指名するもんな。ほんと、よくない風習だと思うよ。ピアスとかタトゥーをしてないんだから、多目に見てほしい」


 床に座ると、靴の裏がきゅっと音を立てた。自由登校になるまで残り八ヶ月。服装検査が終わって走り回る男子は、中学を卒業したばかりの一年生と大差ない。ぼんやりと見ていると、学年主任がホイッスルを吹いて止めていた。


「一組を見習え! 単語帳を持ち込んで勉強しているだろうが。受験生の自覚が薄いぞ!」


 さざ波のように不満が押し寄せる。


「受験生の自覚を持てって言われても、来年のことは想像できないよ。中間テストのヤマすら張れないんだから」

「とか言って、また晃太朗が学年首位なんだろ。俺ら下々の気持ちに寄り添ってくれるのはいいけど、お前も赤点にヒヤヒヤしてくれないと割に合わないぞ」

「悪い。補習で部活に出られなくなるのは困るんだ」


 それは俺らも同じだって。検査から戻ってきたクラスメイトが口を揃えた。悲痛な声に晃太朗は笑みをこぼす。


「きゃー!」

「あたしのこと、絶対見たよね!」

「勘違いしないで。私の方をずっと見てくれたんだから」


 少し離れたところで談笑していたグループが、手を叩き合っている。


「出たよ。晃太朗の無自覚レーザービーム」

「羨ましいな。息をするだけでモテるなんて。僕も顔がよかったら、沖元さんに断られなかったんだろうなぁ」


 学級委員長の平井望ひらいのぞむに、皆が同情した。他校の校門まで出向き、告白する望は勇者だ。塾の授業の合間に話すことができただろうに、勉強をする場で浮つきたくないという意志を貫いた。


「しょうがないよ。付き合っている人がいるっていう断り方は、のぞむーがタイプじゃなかったからじゃない。同じ学校の人と付き合っているんなら、外部生が奪うのは限りなく不可能に近い。遠距離のときめきを優先すれば、学校中でひんしゅくを買うのは目に見えているしね」


 和行の指摘に、望は晃太朗の袖を引っ張った。


「いい加減、吹っ切れるよ。次の恋に進む! だから、僕にも無自覚レーザービームの恩恵を受けさせて!」

「自暴自棄になるな。こんな力があっても、好きな奴に振り向いてもらわないと意味ないだろ」

「全校集会じゃなくて残念だったねー」


 和行に肘でつつかれると、周りの目が好奇の色に変わった。


「どういうことか説明しろよ」

「一個下の幼なじみが、晃太朗の弱点なんだよ。普段の涼しい顔がデレデレになんの。豹変ぶりがマジで面白いから」

「和行、貴様!」


 口をふさぐには時既に遅し。格好の話のタネになった。


「幼なじみって、毎朝起こしに来てくれるの?」

「お兄ちゃん、いつまで寝ているの? 早く起きないと、いたずらしちゃうよ。……って、感じなのか? ライトノベルみたいに!」


 ラブコメの読みすぎ。目覚まし代わりの甘いアラームを鳴らすのは、お隣さんの場合だ。

 馬乗りになった小夜の顔を想像し、晃太朗の頬がひくついた。うちの幼なじみは、破廉恥なことをする子ではないと分かっているのに。そんな展開になったらいいなと期待してしまう。


「現実の幼なじみは違うよ。仮に、起こしに行くって言われても俺は断る。だらしないところを見られたくないからな」

「取り繕っているつもりだろうけど、本心と顔に齟齬があるよ」

「豹変ぶりってこう言うことか」


 そこ、変に納得するな。

 でも、俺が犠牲になったおかげで、望が元気になったのなら安いか。

 悠然と構える晃太朗に、クラスメイトは目と目で囁き合った。こんな奴のことを惚れるなんて、相当な物好きだぞと。



 ■□■□



 帰りのホームルームが終わった後で、担任の鬼頭が話しかけた。


「進路アンケ―トは出せそうですか? 締め切りは今日の放課後までですよ」


 そんなものは、忘却の彼方へ追いやっていた。

 青ざめた晃太朗に、鬼頭はおやおやと肩をすくめる。三十代にしては、じじむさい仕草だ。


「渡したのは二週間前ですよ。松田くんのことですから、なくしてはいないでしょう」


 晃太朗は沈黙した。引き出しの一番下にあると思い出したが、そのまま伝えることはできない。見せしめとして、角が折れたアンケートを黒板に張り出されかねない。


「すみません。どうしても、なりたい職業が思い浮かばなかったんです。それで、志望校も決まらなくて……」

「そうですか」


 鬼頭は晃太朗の頭に学級日誌を載せた。重くないはずだったが、石版を載せられたような感覚になる。


「悩んでいるなら早めにおっしゃい。高校生でも、ホウレンソウを重んじるべきです。一人で悩みを抱えなさんな」

「誠に申し訳ありませんでした」


 頭上の不穏な空気が消えた。


「鬼頭先生はどうして教師になろうと思われたのですか?」

「説教は終わっていませんが、まぁよいでしょう。私の話が松田くんの参考になるかもしれませんから」


 鬼頭は晃太朗の隣の席に座った。長くなりそうな話に身構える。


「私は成り行きで決めました。もともと教育学部を志望していた訳ではありません。大学で取得した資格の中で、採用された仕事がたまたま教師だっただけです」


 全然参考にならない。晃太朗の心情を読み取ったかのように、鬼頭は話を続けた。


「文学は就職した後で役に立たないと言われていますが、裏を返せば何者にでもなれます。答えの決まっていない問題に対して考える力は、生きる上で必要な力のうちの一つです。論理的な思考や、登場人物の気持ちを洞察する力も得られます。どの仕事に就いたとしても学び続ける姿勢は求められますが、子ども達と一緒に成長していけるのは教師ならではの魅力だと思います。松田くんも、将来なりたいものがなければ教師を目指してみたらどうですか? 途中で投げ出しても、学科にいづらくなることはありませんよ」


 人生設計で一度も加わらなかった言葉に、晃太朗の胸は高鳴った。興味のなかった世界は眩しく思える。だが、晃太朗の目は曇った。


「子どもは自分勝手な生き物ですよね。俺が言うのも何ですけど、教師は理不尽じゃないですか」


 忘れていた不満が噴出する。


「今日だって『黒板に書いている小テストの範囲が違う』って、鬼頭先生に掴みかかった人がいたでしょう。あいつのせいで、勉強する時間を五分も取られました。先週のテストでやった次のページだって、分かっているはずなのに。古語単語帳を開いて確認すればよかったんですよ。目で見た情報を鵜吞みにしたことを反省せず、先生のせいにして。鬼頭先生は、どうして言い返さなかったんですか?」

「私が書き間違えに気づかなかったことは事実ですから。口頭で話したページ数と、チョークの文字が合わないなんて、うっかりしていました。きみ達のクラスには迷惑をかけましたね。歳のせいにはしたくありませんが、アラフォーは若くないみたいです」


 あと二十年も経てば、認知機能の低下に悩んでしまうのか。進路の悩みがちっぽけに思えてきた。

 黙り込んだ晃太朗に、鬼頭はにこやかな顔をした。


「生徒から文句を言われる原因は、ほぼ責任転嫁です。誰だって、自分は悪くないと思いたい生き物ですから。理不尽なことを言われても、新米のときより傷つかなくなりました。いちいち引きずっていたら、精神が追い詰められてしまいます。受け流すに限りますよ」

「でも、鬼頭先生は悪くないじゃないですか」

「誰かが受け入れなければ不満が収まりません。憎しみの矛を手放すことは、決して弱いことではないのです」


 鬼頭の表情は晴れやかだった。


「禍福は糾える縄の如しと言います。教師としての人生は、悪いことばかりではありませんよ。松田くんのように擁護してくれる生徒がいることは、ありがたいことです」

「あ、ありがとうございます……」


 思いがけない言葉に、頬が赤くなっていそうだ。

 晃太朗は仕舞いっぱなしだった進路アンケートを出す。まっさらだった紙に、未来の輝きを載せた。

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