第11話 空白を埋める

「高校のときの卒業式さ」

「うん」


 晃太朗の話に、小夜は耳を傾けた。


「俺、嘘ついてた。第二ボタンを渡す約束なんて、誰ともしてなかったよ」

「じゃあ、どうしてあげられないなんて強気で断れたんですか?」

「そんな強気だった? 俺の記憶だと、丁重にお断りしたつもりだったんだけど。小夜を傷つけちゃっていたら、ごめんね」


 柏手を打つように、晃太朗は両手を合わせた。


「傷つきましたよ。義理でもらおうとしてるなんて言われたら。好きな人の言葉だから、余計に傷つきましたよ」

「そうだよね。二回言われるくらい、俺はひどいことを……」


 俯きかけた晃太朗は、目をしばたたかせる。


「今、さりげなく好きって言ってくれた?」


 小夜が頬を掻くのは、嘘が言えないときだ。


「そっか、そっか。小夜はあのころから俺のことを意識してくれていたんだね。てっきり片思いだと思っていて、変な見栄を張っちゃったなぁ。でも、小夜が大胆な告白をしてくれて、俺はすごく嬉しいよ」


 遅れてきた羞恥心に、思わず顔を両手で覆った。

 晃太朗の視線を逸らしてから手を離すと、下着屋の看板が目に留まる。


「いいよ。見てくれば? 店が閉まらないうちに」


 明日の午前に講義がある。家に寄ってから大学に行けば間に合わない。冬場とは言え、翌日も同じ下着を着るのはどうかと思った。服は晃太朗に数着買ってもらっていたから助かった。


「松田先輩は買わなくていいんですか?」

「俺は用意周到だからな。軍手からワカメスープの素まで、何でも揃っているよ」


 ゴムの予備も。

 予期せぬ言葉に、小夜はぴゃっと声を上げた。


「じゃ、俺は近くのコンビニで朝食用のおにぎりを確保してくるから。何味がいい? それともパン派だった?」

「おかか。あと、もしあったら……ううん。何でもない」


 小夜は脱兎の如く店に逃げ込んだ。



 ■□■□



 晃太朗と合流し、確認のためにリュックサックの中身を見せてもらった。小夜の注文通りだ。ふと、二つ買っているシナモンロールに目が留まる。朔磨からシナモンの強いアップルパイは嫌いと言われたとき、小夜は自分の好物を胸の内に仕舞った。


「先輩、これって……」

「気にすんな。俺の気持ちだから。どうせ匂いがキツイとか言われて、食べてなかったんだろ」

「何で分かるの?」


 尋ねた後で、無用な質問だったと気づく。自分は昔から遠慮がちだった。晃太朗にとって幼なじみは大人しいイメージが強いのだろう。自分の意見を言えずに、流されてしまう子のイメージが。

 思考に翳りを帯びる小夜に、晃太朗はあっけらかんと言った。


「何となく。小夜は相手の気持ちに敏感だから」


 いいように解釈してくれて助かるはずなのに、胸の奥がむずむずする。

 晃太朗は素朴な疑問を口にした。


「親に連絡しないでいいのか?」


 急に外泊を決めたのだ。晃太朗の言うように、電話した方がいいかもしれない。小夜は母に電話をかける。

 友達と飲んでいたという設定で、外泊許可を取った。ラブホテルに行くから帰れない、なんて親に報告できる訳がない。

 いつもは温厚な母が声を荒げた。


『晃太朗くんとのデートは? お膳立てしてあげたのに。まさかあなた、すっぽかしたんじゃないでしょうね?』

「ちゃんと、ごちそうされたから! 高校の友達と遭遇して、別行動したの!」

『あらあら。晃太朗くんたら、案外冷たい子になってしまったのね。昔は一途に小夜だけを思ってくれたのに。おばさん悲しいわ』


 そばで晃太朗は青い顔をしていた。

 自分が招いた誤解は、後で解いてあげよう。小夜は晃太朗を元気づけるように、背中を叩く。

 フロントから部屋までの通路は、イランイランのアロマオイルで満たされていた。

 小夜はコートをハンガーにかける。背後の物音に震え上がったが、晃太朗のイヤーカフが机に置かれた音だった。


「血が出るとまずいから、爪切りで切っとくんだった」


 晃太朗は自身の爪を噛んだ。やすりの代わりのように、歯を横に動かす。

 

「爪が傷ついちゃうのに」

「そんな悲しそうにするなよ。何でも揃っているはずの荷物が矛盾してるって、ツッコむところなんだから」


 晃太朗はベッドに腰かけた。小夜も隣に座る。


「おまたせ。小夜」

「ずっと前から待ってた」


 朔磨と付き合ってしまった自分は、一途とは呼べない気がする。ただ、幼なじみに抱かれる日を夢見ていた事実は変わらない。

 ためらいながら交わしていたキスが、舌を絡ませるものへ変化する。小夜の吐息は荒くなっていった。


「ん」


 溢れる唾液を飲み込み、晃太郎とキスを続けようとした。だが、晃太郎は唇を離す。


「待って」

 

 晃太朗は小夜の口から舌を引き抜く。喉をこくりと鳴らし、息を整えた。


「小夜の唾液、結構粘り気あるから。俺のと混ざって息継ぎできない」

「リコーダーを吹いているとき、ハンカチの上でやってたんだった」


 気をつけなきゃ。キスで窒息死させてしまう。


「情けない姿を見せちまったな」


 かっこよくリードするつもりだったのにと、晃太朗は残念がる。

 

「ごめん」

「ゆっくりでいいから。な?」


 指に降り注ぐキスで感じることはない。それなのに、晃太朗は肌を触れ合う行為を無意味なものにしなかった。冷えた指先に与えられる温もりは、心地よかった。


「座る場所、ちょっと移動しよっか」


 ベッドの中央に小夜は横たわる。


「いい子」


 晃太朗は左手で小夜の頭を撫でると、タイトスカートのファスナーに手を伸ばす。小夜の腰は浮いていた。ショーツを脱がしやすいように。


「どうして」

「脱がさないよ。全部いきなりは」


 小夜の脚を開き、ショーツと肌の境目に口づけた。

 もどかしさに目が潤む。


「先輩、そろそろ触ってくれませんか?」

「どこを?」


 小夜は半身を起こし、ニットを脱ぐ。胸元を手で覆いたくなる衝動に駆られつつも、うつむいて耐えた。


「似合ってる。可愛いよ、はじらう小夜も」


 腰から上にかけて、晃太朗の手がなぞっていく。親指を谷間に当て、果実が潰れないように包む。手の隙間から、淡い水色の布地が覗く。


「ウエディングドレスのためのブラだな。花嫁が幸せになれるおまじないみたいだ」


 ホックが外される。朔磨はこんなに焦らすことはなかった。

 晃太朗の口から、へぇと呆れた声が漏れる。中心の突起を避けるように、周りの膨らみを責めたてた。


「俺とヤッてるのに、ほかの奴のこと考える余裕あるんだ?」


 ショーツ越しに撫でていた人差し指が侵入する。自身の唾液をまとわりつかせた指は、花弁の輪郭をなぞる。

 もっと深くなぞってほしい。晃太朗の形を覚えさせて。


「これ以上じらさないで。もの足りなくなってきたからぁ」

「ちゃんと名前を呼んでくれたら許す」

「先輩のいじわる」


 耳に息を吹きかけられ、小夜の顔は赤くなる。


「こーら、そんなに締めつけないの。……ったく。上の口は、いつ正直になってくれるんだろうな」


 朔磨に教え込まれた快楽を、晃太朗が上書きしてほしい。

 小夜は小さく呟いた。


「こぅ」

「全然聞こえないよ」


 声にならない助けを、何度だって応じてくれたのに。

 小夜はむくれる気持ちを抑え、言えずにいた名を囁いた。


「晃太朗……くん」


 晃太朗お兄ちゃん。

 甲高い自分の声がこだまする。失恋した日から、下の名前を呼ばないと決めていた。

 

 晃太朗がベルトを外す。横の壁を見れば、鏡の中の自分と目が合った。

 かつて一緒のお風呂に入ったときは、二枚貝の入水管と似ていた。朔磨のもので見慣れたとはいえ、変貌を遂げた性器に恐れを抱かずにはいられなかった。


「小夜。怖かったら俺の手を握って」


 申し訳なさそうな顔が近づく。

 

「晃太朗くん、怖くないけど握っていていい?」


 頬に口づけした小夜を、晃太朗は最奥まで抱きしめた。



 ■□■□



 唇を触れられた気がして、小夜はまぶたを開けた。


「おはよ。小夜」


 晃太朗のそばで寝ていることが、信じられない。


「夢じゃないよね」

  

 心の声が自然とこぼれていた。


「嬉しい。だって目の前に晃太朗がいるから」


 晃太朗の顔が赤く染まっていく。


「チェックアウトは十時までだけどさ。小夜は、二限に講義を取っているよね」

「そうなの。だから、朝はあまりゆっくりできない」

「いいんだ。小夜が大学に行っている間、俺が小夜の荷物を届けに行けるし。……小百合さんと智則さんの事情聴取を受けなきゃいけないし」


 小夜の両親は昼まで年次有給休暇を取っていた。


「私が一緒にいた方がいい?」

「講義をサボるなんて、小夜らしくないだろ。俺のことは心配ないよ。丸刈りになっていたら察して」

「えぇっ?」

「ごめん、今のは冗談」


 晃太朗はまじめな顔になる。


「お風呂を沸かしたから一緒に入ろう。それとも先にご飯にするか?」

「お風呂がいい。この会話、なんだか新婚さんみたい」


 同じ過ちはしない。せめて今日だけは、多少の浮かれは許されるはずだ。


「でも、その前に水を飲ませて」


 晃太朗はキャップをひねり、口をつけた。


「ずるい。私が先だったんだよ」


 晃太朗の胸に拳をこつんと当てる。


「んん」


 口にものを入れた状態で、自分の名を呼ばないでほしい。晃太朗が行儀を知らない小さな子どもに見え、撫でてあげたくなる。


「なあに?」


 母音の輪郭が残る隙間から、水が落ちてくる。

 口の端からこぼれた水を、晃太朗がすすった。


「ちゃんと飲めたね」


 口移しされるとは思わず、小夜は呻き声を上げた。目線を下に落とすと、白い枕に長い抜け毛がまとわりついていた。小夜は音を立てまいと床に払い落とす。


「虫でもいた?」

「髪の毛が気になって」


 どうせ白状するなら、ゴミ箱に捨てた方がよかった。晃太朗の表情をうかがう。


「潔癖症? 俺は別にいいけど」

「大量の抜け毛が気持ち悪くないの?」

「全然。某ホラー映画みたいに、顔が髪で隠れたとしても怖くないぞ」


 自信満々だった晃太朗は、眉をひそめた。


「それより、こんなに抜けちまって禿げないのか? お兄ちゃんは小夜の毛根が心配だよ」

「禿げないよ。美容院で量を軽くしてもらっても、すぐ元に戻るし」


 晃太朗は小夜の髪をそっと撫でた。

 体を洗ってくれるときも、優しい手つきだった。ドライヤーで髪を乾かす前に、晃太朗は囁いた。


「小夜。こっち向いて」


 晃太朗の両手が、小夜の頬を包む。冷たい感触に、小夜は肩を震わせた。


「保湿されろ」

「冷たいのやだぁ」


 問答無用で化粧水を塗り込まれた。解放されたと思いきや乳液も追加される。


「どうしたの、そのふくれっ面は。もしかしてキスされたかった?」

「何回でもしたいよ。晃太朗くんとなら」


 即答した小夜を晃太朗は抱きしめた。


「小夜さん。念のため確認なんですが。お付き合いする流れでいいんですよね?」

「晃太朗くんの方こそ、それ以外の選択肢を希望しているんですか?」


 二人は笑った。今度こそ思いがすれ違っていないから。



 ■□■□



 講義室を出た後、小夜はすぐに晃太朗にメッセージを送った。


「今から帰る。夜は電話してもいい?」

「夜まで待てないよ」


 廊下に晃太朗が佇んでいた。


「今日の分のデートを始めようか」


 小夜は晃太朗の手を握った。

 階段を下りていると、腕を組んだまま上ってくる二人連れがいた。小夜は名残惜しそうに手を離し、晃太朗の後ろを歩く。すれ違った後で、晃太朗は吐き捨てるように言った。


「一列で歩けや。小夜にぶつかるだろうが」


 どきどきした。


「晃くん、言葉遣いが悪いよ。来年から先生になるんでしょう? どこで生徒と鉢合わせするか分からないんだから、今からでも気を引き締めていこうよ」

「小夜の言う通りだな」


 晃太朗は小夜の頭を撫でた。


「おーい。うめばやしー!」


 頭上の渡り廊下に、朔磨がいた。


「竹野内さんが知らない野郎と歩いているんだけど、放っておいていいのか?」

「もう戻れない。戻る選択肢なんて、僕にはもうないんだ」

「頭がおかしくなったのか? しっかりしろよ」


 泣きそうな朔磨の顔に、小夜もつられて涙腺が緩む。

 復縁はこちらから願い下げだと思っていた。髪に触れて慰めたくなる。消えゆく後ろ姿に、鼓動が早くなった。


「ココアとレモネード、どっちがいい?」


 階段を下りた後で、晃太朗はリュックサックからペットボトルを取り出した。両方とも、昔好きだったものだ。今は飲む機会が減っている。悩んだ後で、先に見せたものに手を伸ばす。


「ココア」


 一口飲み、晃太朗が口をつけたレモネードを奪う。


「やっぱりこっちにする」


 爽やかで身を縮めるような酸味が口いっぱいにひろがった。小夜が笑顔を浮かべていると、晃太朗はむせた。


「どうしたの? 酸っぱかった?」

「間接キスは反則」

「今朝のお返しだよ」


 小夜はおどけた。


「晃太朗といると、ずっと遠くまで照らしてくれそう。黒洞々たる夜さえも、燦然さんぜんとさせるかも」


 晃太朗はくすりと笑った。


「『羅生門』と『刺青』か。習いたての言葉を使いたがる子どもみたいだな」


 小夜はレモネードをもう一口飲んだ。

 自分はこっちがいい。晃太朗が離さない限り、元の鞘に戻らない。

 胸の奥でくすぶる熱に気づかないふりをした。



〈第1章 残照の熱/了〉

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