第33話 苦手なもの
安全バーが離れてから、最初に立ち上がったのは朝陽だった。
「さっきの写真、買って行こ!」
「待て待て。明らかにノーダメージではない人がいるだろ」
駆け出そうとした朝陽は、正吾の指摘に振り返った。小夜が晃太朗の腕に寄りかかっている。
「晃くん、酔っちゃったよぅ」
「言わんこっちゃない」
晃太朗は肩をすくめながらも、小夜の手首を握る。乗り物酔いに効くツボがあるらしい。
「俺らは休憩を入れたいので、白濱さん達は次のアトラクションに乗っておいてください。こちらはお気になさらずに」
「さすがにそれは」
正吾は難色を示した。せっかく一緒に回るのだ。自分達も休憩してから乗るべきだ。
「じゃ、さっきのやつワンモアトライっ!」
「休憩なしで連続?」
てっきり小夜に合わせて行動すると思っていた。朝陽の発言に驚いていると、本音が耳打ちされる。
「介抱イベントを邪魔しないの!」
また乙女ゲーム脳になっていた。風邪で寝込む彼を看病して、好感度を上げさせようというシナリオは鉄板だ。小夜に飲み物を買って来させたり、ふーふーさせたりしたいのだ。
「松田先輩、休憩するならオー・プリティ・ウーマンで! あそこのカフェは、シャンパングラスの苺ゼリーが有名なんです!」
「分かった。二回目が終わったら、そこで落ち合おう」
正吾の同意は得られていないが、提案されただけでも前進だ。朝陽に引っ張られながら、思いの強さを実感していた。先月のデートでも、朝陽は行動が早かった。
改札口に向かっていたとき、向かい側から女性がやってきた。左手には紙袋を下げ、右手にはカードを携えていた。
『生活費が苦しく、お金が必要です。お菓子を買ってくれませんか』
女子中学生が書くような、丸みのある文字だった。
「お菓子?」
首を傾げた正吾に、女性は小分けにされたお菓子を見せた。銀色のラッピング袋は正面が透明になっていて、中身のパッケージが確認できた。
値段を告げた女性に、正吾と朝陽は顔を見合わせた。五の後の言葉が聞き取れない。百という音が言いにくいようだ。
正吾は断るつもりだった。一個あたり百円なら、輸入店の方が安く買える。だが、朝陽は財布を出していた。五百円なのねと念を押され、女性は頷いた。
「イタリアのお菓子です」
「クッキー? それともゴーフルみたいなもの?」
どう見てもウエハースにしか見えないが、正吾は黙っていた。寒空の中、体力を消耗したくない。
「二つってことは千円よね」
得体の知れない人から二つも買うのか。ぎょっとした正吾だったが、女性は視線を落とす。
「すみません。最後の一個なんです」
「それなら仕方ないか……あ、最後の一つ買っちゃっていいよね? 美味しくいただきます」
敬語が伝わるか分からない。それでも女性は微笑んだ。朝陽の笑顔に釣られるように。
正吾の待ち受け画面は、朝陽の写真にしていた。仕事で罵られたとき、笑顔から元気をもらっていた。
落ちこぼれで、駄目な奴で。それでも、一緒に歩んでくれますか。この先の未来を。
心の中で幾度も囁いた言葉を、まだ朝陽に伝えていない。薬指に指輪を嵌めてあげるのは、自信が持てたときと決めていた。
「さっき買った写真、しょーごの顔だけガチガチだったの。せっかくなら、リベンジしたくない?」
「そうだな」
正吾は朝陽と小指を絡ませた。
「かはっ!」
朝陽は左手で心臓を抑えていた。持病の仮病が再発してしまったのか。
「撃たれた?」
「うん。マジで死んだ。嬉しさはじけすぎて、息してない」
「生きろ、イエローバード」
ダウンジャケットとミニスカートのコーディネートは、ユニファの人気キャラクターの色だった。正吾が朝陽の手を握りしめると、彼女は泣きそうな顔になっていた。
「しょーごが服のポイントを分かってくれてるとか、今日うち死ぬん?」
「大げさだ。いつも服のことは……」
褒めている気になっていたが、実際は口に出していなかったことを思い知る。
「すまない。自分はいつも、肝心なことを言えていない」
「深刻そうな顔はやめなって。さくっと宇宙の危機を救って、また英雄になろうよ!」
「そうだな」
正吾は、朝陽と手を繋いだまま駆け出した。
又あすこへ来たなといふ、寒い様な魅力が私を
暗い森を歩く「私」の感覚を、正吾は火星のオブジェを見ながら思い起こす。指先の感覚を失った無重力の世界でも、この手をずっと離さない。
■□■□
顔面蒼白とまではいかないが、二回目は体に応えた。宇宙のレートを高らかに言い続ける、スタッフの元気を見習いたい。
二枚目の写真を受け取ると、小夜の酔いが引いたとメールが来ていた。
「そろそろ合流するか」
「朝陽達も何か食べたいね」
英雄になった力の代償は大きく、十時前でも小腹が空いた。ハリウッドの街を闊歩し、二人を探す。
「ごめんなさい! 聞いていたよりも酔っちゃって!」
小夜はタルトタタンを四人分買っていた。ツヤのある表面は、チョコレートケーキのごとし。カラメルで煮詰めた林檎が食欲をそそった。
胃に賄賂を納めていると、小夜が今後のことを話す。
「大変申し訳ないのですが、次は移動速度が低いアトラクションがいいです」
「映像と乗り物が回る系は保留にして。サメちゃんはどう? ゆったりツアーボートに乗るだけだし」
朝陽は自身のアイデアのように言っているが、最初にその案を出したのは晃太朗だ。当の本人は、ほのぼのとした目で小夜を見つめている。怒る日は永遠に来るまい。
「サメちゃんなら、怖くないよね?」
そういう小夜の願望を、フラグが立つと言うのだ。
二十五分後、朝陽はあさっての方向を見つめていた。前には、推しがきゃっきゃうふふしているのに。軽快な船長のガイドで恐怖がほぐれた正吾は、朝陽の肩をつつく。
「朝陽、そっちはサメいない」
「あー。夏に映画見ちゃったから、怖さ倍増……的な? 口の赤いの怖いよ」
虚勢を張った罰だ。せめてもの情けで、両手を包み込んであげよう。涙目の朝陽が正吾を見上げたとき、銃声が響き渡る。
「今いい雰囲気だったじゃん?」
かっと振り返った朝陽は、正吾に迫るホオジロザメと目が合う。濡れた口元に絶叫し、正吾を抱き寄せた。
「あっ、朝陽さん? 自分は、ヒロインポジションじゃ、なあっ」
正吾は苦悶の表情を浮かべる。
駄目、だ。首が、絞ま……る……。
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