3 声の出せない鬼の子
そのまま固まっていると、ツノを生やした女の子は私の方にゆっくり近づいてきた。
「えっ……!? うぁ、あ……!」
私は恐怖のあまりうまく言葉が出せず、ゆっくりと距離を縮めてくる女の子を止めようとする声は全てを喉奥につっかえた。
逃げ出そうとしてもすくんだ足はそれを邪魔して、うまく足が出せなかった私はしりもちをついてしまった。
一歩、一歩とその子ははだしで土をふんで私の方へと近づいてくる。
開いた口には鋭いキバがあって、紅く染まった瞳は私の目を見つめている。
も、もしかして……このままじゃ、食べられちゃう!?
私の目の前までくると、その子はぴたり、と立ち止まった。
「や、やめて……!」
なにをされるかわからない怖さに、私は目をぎゅっと瞑ってしまった。
真っ暗な視界の中で感じたのは――優しく包まれて、頭をなでられる感触だった。
「……え?」
ふるふる震えていた私のからだを慰める様に、私はその子に抱きしめられていた。
なにが起きてるのかわからなくて、目をぱちくりさせる。
「な、なに? どういうこと?」
ぬけ出そうと手足をじたばたさせても、それに合わせて抱きつく力も強められてはなれられない。
私は離して、と伝えるようにその子の顔を見た。その瞬間、私はもう一度頭の中が真っ白になった。
「……あなた、泣いてるの?」
びっくりしちゃった。私の肩にうずめられた顔が、目の周りを赤くしてくしゃくしゃになっていたから。
「もしかして私、なんか痛いことしちゃった!?」
あわあわと取り乱していると、その子は力なく首を横に振った。
不安な気持ちをいなすように、さらに頭をなでられる。
不思議とそれは心地よくて、すぐに落ち着いてしまった。
「それじゃあ、どうして泣いてるの……?」
その子は汚れた着物の袖で荒々しく涙を拭くと、紅い瞳で私を見つめてきた。
その瞳は綺麗に澄んでいて、ずっと覗いていると、目の光の奥の奥に、吸い込まれそうになる。
夢中になっていると、二人とも黙っちゃった。
「ああっ、ごめん、まじまじと見ちゃって……」
その子はまた首を振る。大丈夫だよ、と言ってくれているのかな。
そういえば、先ほどからこの子は一言も声を発さない。
「ねぇ、あの、えっと……」
まだ頭が少しぐるぐるしているのか、うまく言葉が出て来ず目を逸らしてしまった私を見てその子は首を傾げる。
声を聞きたい、ってどう言えばいいんだろう。声を聞かせて、とそのまま言ってしまうのは少しおかしな気がする。
うーん、と数秒すっきりしない頭を捻った挙句、結局そのまま伝えてみることにした。
「あなたの、声を聞きたいな」
もう一度その子の目を向き直して、私は伝えた。
その声が女の子に届いた瞬間、女の子は驚いた顔をしたのち、ゆっくりと目を瞑った。
それは悲しそうで、苦しそうで、痛々しい気持ちがごちゃ混ぜになったような表情だった。
そんな様子を見て私の胸がちくり、と刺された気がした。
それと同時に、私は頭の中に一つの考えが浮かんできた。もしかして。
「……あなた、もしかしてしゃべれないの?」
こくり、とその子はうなずいた。
***
少し落ち着いて、だんだん今どうなってるかわかるようにになってきた。
最初はびっくりしたけど、抱きしめられてなでられて……普通はおかしなことなのに、なぜか安心してしまった。
なんだか感じたことあるような安心感で、どこかで感じたことあるような気がするんだけど……なんだったっけ。
それにしても、いきなり出てきたのがツノを生やした小さな女の子で、抱きついて泣き出して、しかもしゃべれないなんて……どうすればいいの?
「とりあえず、悪いことをするわけじゃないんだね」
その子を見つめて問いかける。
その子はこくりとうなずく。よかったぁ。
でもどうしよう。その子は今もまだ少し涙を浮かべている。
その子は大体小学三年生くらいの子に見える。こんな小さな子が泣いてるのを放ってはおけないし……でもしゃべられないんじゃどうすることもできないし……。
「……そうだ! あなた、文字は書ける?」
その子はこくりとうなずいた。
やった! 文字が書けるなら、お話しできるかもしれない。
私はランドセルから筆箱とノートを取り出して、鉛筆をその子に渡した。
「はい、どーぞ」
鉛筆を受け取ると、その子は目を見開いて鉛筆を見ている。
「……もしかして、使い方わからない、とか? そんなわけ――」
言いかけた瞬間、その子はまたこくりとうなずいた。
えぇー。この子、一体今までどうやって過ごしてきたんだろう……。
しょうがない、私はもう一本鉛筆を取り出して、ノートに線をにょろにょろと書いてみた。
「ほら、こうやって書くんだよ」
そのお手本を示した筆跡を見て、その子は目を輝かせて見つめている。
「どうぞ」
私がノートを差し出すと、その子は輝いた目のまま私を見つめて、その後、ノートを受け取って一生懸命なにかをそこに書き出した。
しばらくして書き終わったのか、私にノートを見せてきた。
「書けたの? どれどれ……えっ」
その文字……? なのかすらわからないそれは、にょろにょろとした線がいくつも重なって、全く読めなかった。
ところどころひらがなっぽいところはあるけれど、ほとんど読めない。
私のひいおばあちゃんが筆で書いた字を思い出した。だいたいこんな感じで、同じ日本語とは思えなかったんだ。
「む、難しい字を書くんだね、私には読めないや……」
苦笑いを浮かべた。伝わらなかったことに怒ったのか、その子は少しほっぺたをふくらませている。
「文字もダメかぁ……どうしたらいいんだろ」
こういうのをなんていったんだっけ、ばんじきゅうす?
頭を抱えていると、キーンコーンカーンコーン、とチャイムの音が聞こえてきた。
小学校の近くに中学校があるから、多分そこのチャイムだ。
「……あっ、いけない! そろそろ帰らなきゃ!」
そのチャイムの意味を理解すると、私は冷や汗が出るのを感じながら立ち上がった。その様子を見た女の子がビクッとした。
チャイムがなるとしたら、今は昼ごろだろう。
こんなに帰る時間が遅いと、多分お母さんは心配してしまっている。
「ごめんね、私もう行かなきゃ」
立ち上がって、帰ろうとすると、その子が袖を引っ張ってきた。
振り返ると、また泣き出しそうな潤んだ目で必死にこちらを見つめてきていて、びっくりした。
「ええっ、どうしたの!? もしかして、帰ってほしくないの?」
その子は二回も強くうなずいた。
でも、このまま一緒にいるわけにもいかないし、早く帰らないと、お母さんさらに心配しちゃう。
「ごめんね、それでも私、帰らないといけないんだ。明日もまたここに来るから、それまで待ってて?」
私はしゃがんでその子に目線を合わせて伝えた。
その子は渋々といった感じでこくりとうなずく。
なんだか成り行きで明日も来ることになっちゃったけど、まあいっか。
「あ、そうだ」
立ち上がってから、私は大事なことに気づいた。まだこの子に私の名前を名乗っていない。
この子は喋られないから私の名前を呼ぶことも、この子自身の名前を聞くこともできないけれど、お友達? になるなら名乗らなきゃいけないよね。
「私は琴葉っていうの。あなたの名前も、いつか聞かせてね」
その子はこくりとうなずいた。
その様子を確認すると、私は立ち上がって手を振って、その場を後にした。
***
桜の道を通っていつもの通学路に戻ると、もうランドセルを背負った子は一人もいなかった。
「ただいまー……」
私は家の玄関の扉の前で怒られる覚悟を決めたのち、目の前の扉を恐る恐る開けた。
「琴葉、遅かったじゃない。どこ行ってたの?」
玄関に出迎えてくれたお母さんは、意外にもそこまで怒っている様子はなかった。
「えっと……迷子になった子に道案内してたら遅れちゃって……」
嘘をついた。
だって、ツノ生えた女の子に会ったなんて信じてもらえないだろうし、まず寄り道しちゃったからそれで怒られちゃうと思ったから。
「そうなの? それならいいけど。お腹すいたでしょ。早く手洗ってきなさい。ご飯できてるわよ」
思うよりあっさり許されて少し申し訳ない気分になった。嘘ついてごめんなさい、お母さん。
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