ギターはおかず
しぎ
ギターはおかず
「あっ……」
「お隣さんですか?」
「あっはい。引っ越してきた
「私、1号室の
――大学に進学して上京し、一人暮らしをすることになった。
キャンパスと最寄り駅を挟んで反対側、近くは無いが歩ける範囲にある二階建てアパート。一階に大家さんの部屋があり、二階に部屋が五つ横並び。そこの2号室は、玄関と部屋と台所とトイレと風呂があるだけの簡素な作り。木造だが壁もあまり薄い感じは無く、男の学生が一人で住むのに不満は無い。
昨日一通りの荷物を運び入れ、今日は街を歩いておくか、どこにどんな店があるか見ておかないと……と部屋を出たら、隣のドアから出てきた女の人と目が合った。
身長は自分よりわずかに低いぐらいだから160cmというところか。細身の身体に青いパーカーを羽織り、下は動きやすそうなジーンズだ。丸い顔に白い肌、顔の雰囲気は高校の女先輩と変わらない。フレームの細い眼鏡から覗く視線は、俺を品定めしているかのように上から下に動く。背中に背負っていて、セミロングの茶髪を挟み込んでいる大きな黒い物体は……ギターケース?
「すみません、急いでるので」
そう言うと彼女――氷川さんは、外階段を降りて足早に道路へ出ていってしまった。
……綺麗な人だったなあ、それが第一印象だった。
俺もアパートを出て、駅の方、キャンパスの周りを見て回る。三月の昼過ぎ、柔らかな陽射しと、適度な風が心地いい。
駅前は大きなビルが一つあるものの、あとは全体的にごちゃっとしていて、今後お世話になりそうなラーメン屋やファミレスが並んでいる。地元も一応「市」を名乗ってはいたが、やはり郊外とはいえ首都圏は栄えっぷりが段違いだ、そんなことを考えつつ、店の位置をできるだけ覚えていく。
スーパーで一通り食材を買ってアパートに戻ったときには、既に日が暮れていた。
電子レンジで弁当を温めながら、冷蔵庫の中を満たしていく。それが終わったら、米を米びつに移す。
ある程度仕送りがあるとはいえ、基本的に金銭の余裕は多くない。駅前の小中学生向け塾で教師の手伝いをする……バイトの目処も立ってはいるが、節約するに越したことはない。そして、学生の節約と言えばやはり自炊だろう。大学合格後はそれなりに料理の練習もした。フライパンも炊飯器もリサイクルショップで買った古いものだが、まあ最悪食べられるものができれば問題はない。
温まった弁当をちゃぶ台に移す。……そうか、これからは基本的に食事は一人で食べるものになるのか。
床に座ると、見えるのは弁当。両脇に白い壁紙があり、実家から持ってきたパソコンやらゲーム機やらが雑多に置いてある。そして正面に窓があって、向かいの家の壁と屋根。……こう書くとちょっと虚しいな。いや、一人暮らしする以上分かってはいたのだけども。
まあこれも慣れだろう。今まで実家暮らしだった頃は両親がいた。それがいなくなった。それだけだ。
バタン
左側の壁の向こうから小さく音が聞こえた。
この壁は薄くは無いが特段分厚いわけでもない。だから隣人の生活音が漏れることもある、と大家さんから説明はされていた。
最も、右隣の3号室は雨漏りがするとかで、今は住人を入れていないのだという。だから、何か音が聞こえるなら左隣の1号室から……氷川さんの部屋からだ。
きっと帰ってきたのだろう。……仕事かな?
時計を見ると夜七時。……でも氷川さん、出るとき私服だったよな。今日は平日だし、何か違う用事なのかもしれない。
テレテレテレテレテレテレテレテレ
その音が聴こえてきたのは、俺が風呂を上がってゲームでもするか、とゲーム機をテレビ兼モニターに繋ごうとしたときだった。
間違いなく、ギターの響きだ。友達に軽音部のやつがいたから何となくわかる。何やら音階のような、シンプルなメロディがずっと繰り返されていく。
弾いているのは、壁の向こうの氷川さんだろう。壁を通して伝わる音はちょうど聞き取りやすい音量になり、弦の響きがよく分かる。
ジャーン!
メロディが止まり、今度はアンプを通したであろう、エレキギターの音色が流れてくる。いくつもの和音が重なって流れてくる。何かの曲なのだろうか。俺は特段J-POPとかに詳しくはないが、流行りの曲だったりするのか。
まあでも、聴いてて悪い気はしない。決してうるさくはないし、むしろ心地良いBGMというところだ。
テレテレテレテレ
……休み無く続いていたギターが止まる。結局、これをBGMにひたすら対戦ゲームに講じていた。
そう言えば、今日はマッチングした対戦相手にイライラすること無かったな、と気づく。もしかして、氷川さんのギターが心地よかったからだろうか。……もう日付を越えている。この一戦だけやったら寝よう……
次の日も、同じぐらいの時間帯にギターの音が聴こえた。
次の日は聴こえなかった。
その次の日、俺はようやく氷川さんの人となりを知ることができた。
そのいきさつはというと、買い物を終えて日没ぐらいに帰ってきた俺の目の前で、氷川さんが1号室のドアから出てきたのだ。
「あっ、羽村さん、こんばんは……」
……のだが、明らかに足元がおぼつかない。白い肌は真っ赤になっていて、眼鏡の向こうの瞳はなんだか止まっていない。
「おっとっと」
「氷川さん、大丈夫ですか……?」
錆びつき始めている廊下の手すりを両手で握る氷川さん。もし二階の高さから落ちたら、怪我なしとはいくまい。
「平気平気、ただの二日酔いだから……」
そう言われると、ほんのりと酒の匂いが漂ってくる。
「でも危ないですよ、階段降りられます?」
「慣れてるから平気よ」
そう言って氷川さんは俺の制止を振り切って外階段を降りていき――
――最後の一段を踏み外し、盛大に地面で尻餅をついた。
「いててて……」
「やっぱり危ないじゃないですか」
「氷川さん? 羽村さんの言う通りですよ。あなた、二日酔いは初めてじゃないでしょう」
後ろから声がかかる。大家さんだ。
「でも、夕飯買いに行かないと……」
「良いよ良いよ。ちょうど私もコンビニまで行くところだったから、買ってきてあげる。羽村さん、それまで氷川さんをよろしく」
大家さんは六十代の女性だ。元気な足腰で、道路へ出ていって消える。
「……ごめんなさい、迷惑かけて」
「別に良いですよ、暇だし」
俺と氷川さんは外階段に腰掛ける。並ぶと二人の距離はあまり無い。
「……そうですか? それもそうだけど、ギターの音うるさくないです? ここ、防音っぽいの全然無いので……」
「いやいや、全然大丈夫ですよ! むしろ丁度いいです」
何なら、聴こえたほうが良い。
「そういえば、この前背負ってたのって、ギターケースですよね」
「あ、はい。私、ライブハウスで働いてるんです。駅前の」
駅前……そういえばあったな。キャンパスのある側の出口の、細い道の入り口の雑居ビルの中。LIVE HOUSEの文字がデコレーティングされていた。
「へえ……じゃあギターは、そこで弾くんですか?」
「はい。客のいない時間に機材を借りて練習したりとか、メンバーが足りないバンドのヘルプで弾くこともあります」
「じゃあこの前もそれで?」
「えっと……三日前ですよね。あの日はまた違って、スタジオ録りの仕事でした。ドラマのBGMですね」
「ドラマ?」
「ドラマ以外も、映画とかアニメとかゲームとかで用いる音楽の録音にギタリストとして参加する、ってことをやってます。最も、私の腕前じゃあそんな有名作品の仕事はまだもらえないんですけど」
「そんな仕事が……」
「一応、スタジオ録りの仕事とライブハウスの給料で暮らしていけてるから、私もプロってことになるんですかね」
すごいな。俺には預かり知らぬ世界だが、氷川さんは――見た目若そうなのに――立派に自分の仕事を持って暮らしている。正直、市役所勤務の父親よりも面白そうな仕事だ。
「それって、何年ぐらい続けてるんですか?」
「高二のときにバイトで始めて、卒業してそのまま就職したから……五年目目ですね。あっ、今21です。……羽村さんは、もしかして大学生?」
「そうです。明日入学式です」
「やっぱり。音楽は好き? もしよかったら、ライブハウス来てみてください。学割もあるので」
氷川さんはまだまだ赤い顔で俺に尋ねる。茶髪がわずかに揺れる。眼鏡の奥の視線はまだ真っ直ぐ定まっていないが、俺を見ようとしているのはわかる。
「えっと……考えときます。それと……ギターの練習は、俺に気にせずやってください。むしろ、俺のゲームの音とかうるさかったら、遠慮なく言ってください」
「大丈夫です。騒がしいのは慣れてるので」
氷川さんは、綺麗な笑顔を浮かべた。
翌日から、俺の大学生活が始まった。
入学式。教科書の購入。履修講義の選択。そしてサークル選び。
とりあえず、同じ学科の中で知り合いを作ることはできた。友達付き合いはそこまで苦手ではないと自負しているが、知り合いのいない環境というのはどうしても緊張してしまう。
「まあ友達は多いに越したことないからね。講義休んでも内容を聞けたり、試験やレポートの過去問を共有できる」
サークルの勧誘をしてきた名も知らぬ先輩が言っていた。サボりまくるつもりはないが、勉強が楽になるのは重要だろう。
「そうそう、この時期はいろんなサークルの新歓に行きまくると良いぞ。どこも新入生を取るために先輩がご飯を奢ってくれる」
「あんまり興味ないサークルでもですか?」
「全然大丈夫。新入生に嫌がられたくないから無理に入れって言うこともない。どんどん食い逃げする気で行っていいぞ。先輩側もそれは覚悟してるから」
――なんだか複雑な気分になるが、食費が浮くのは大助かりだ。結局、そこから三日連続で新歓のお世話になることになってしまった。
「これから出版サークルの説明会行くんだけど、羽村どうする?」
「いや、俺は帰るわ。天文研究会の新歓、天気悪いから流れちまったんだ」
知り合いと別れ、一人アパートへの帰路につく。
入学式から一週間。サークルの候補はとりあえず天文研究会に決まった。もとより星を眺めるのは好きだった。地元と比べて首都圏は星の光が見えにくいが、天文研究会に置いてあった大掛かりな望遠鏡を使えばかなり綺麗な夜空を見れるのではないだろうか。
今日はその望遠鏡を使った新歓観察会の予定だったのだが、天気はどん曇りで、今にも雨が降り出しそうだ。明日に延期となるのは、まあ仕方ない。
アパートに着いたのは午後五時。今頃は新歓の予定だったので、夕飯のことは考えていなかった。とりあえず米を炊こう。
「――やべえ」
炊飯器のスイッチを入れた後、冷蔵庫を開けて、思わず声が漏れた。……空っぽだ。
最初にスーパーで買い込んだ食料、いつの間にか使い切ってしまっていたようだ。朝出るときに確認しておけば良かった。いや、今日は新歓の予定だから確認しそびれたのか。どちらにしろ、コンビニで適当に何か買おう……
ゴロゴロゴロゴロ
……駄目だ。外から不穏な音が聞こえる。雷雲まで出てきたのか。
スマホの天気予報によると、このあたりに雷注意報が出ている。雨も気づいたら降り始めている。正直、外へ出る気力がない。
……もう一度冷蔵庫を開ける。やむなし、今日はこれだけで耐えよう、と瓶の半分ぐらい残った鮭フレークを取り出した。
ちゃぶ台の上に並んでいるのは、茶碗に盛られたご飯。瓶詰めの鮭フレーク。コップに入った麦茶。……それだけ。
冷蔵庫の中身を確認せず、食料を買いそびれるミス。これは一人暮らしの洗礼なのか。何とか鮭フレークが残っていただけでも奇跡と思おう。さすがにご飯だけだったら飽きる。
正面の窓の外からは、弱い雨音がずっと聞こえ、それが寂しさを増幅させている気がする。塞ぐようにカーテンを閉めると音が静まり、その沈黙の中にちゃぶ台が浮かび上がるかのようだ。
今日のこの日を心に念じて、もうこんな寂しい事故は起こらないようにしよう。そう思いながら静かに手を合わせて――
テレテレテレテレテレテレテレテレ
静けさを断ち切って、ギターのメロディが聴こえてきた。
氷川さんのギター。聴こえてくるのは、三日ぶりになるのか。新歓で夜遅くの帰宅になることが続いたせいか、聴けていなかった。
俺の夕飯のタイミングに重なったのはたまたまだと思うが、俺の気持ちを落ち着かせるかのような優しい音色。細かい音の動きがだんだん高くなっていくさまは、階段を上がっていくかのよう。
耳の中でそれを反芻しながら、鮭フレークをご飯に振りかけ、箸で口に運ぶ。塩味の強い鮭フレークが、喉を乾かす。
テレレレレレレレレレ
メロディラインが一気に下がって、また上がる。それに連れて、俺も麦茶を飲み、またご飯を食べる。なんだか、リズミカルに箸が動く。
――なんだこれ。俺は、ギターを聴きながら飯を食べてるのか。しかも、それで飯が進むという事実。あっという間にご飯が半分ほど減っている。
ジャンジャンジャンジャン……
ギターの音色が変わる。今度はいかにもバンドサウンドという趣の、アンプを通したロックな音色だ。
俺のテンションも上がっていくのを感じる。まるでRPGのHP回復アイテムかのように、気持ちが高まっていくのがわかる。
再びご飯に箸を入れる。味は変わっていないはずなのに、より塩味が増し、ご飯が進む。
テンポが変わるに連れて、俺の食べるスピードも変わる。なんだか楽しい。
しかしこれは……何なんだ?
俺は、氷川さんのギターをおかずに、鮭フレークご飯を食ってるのか?
……うん。そうなのだろう。
気づけば、茶碗は空になっていた。そして、ギターも止まっていた。
――これ、これからもやろうかなあ。おかず無しで白米を食うというのはあまりやらなかったが、上手く行けばおかず代の節約になるんじゃないのか。いや、氷川さんに申し訳ないけど。
――翌朝。
「あっ、おはようございます」
「……おはようございます」
家を出ようとしたら、1号室から出てきた氷川さんと顔が合った。
ギターケースを背負ったその姿は、変わらず綺麗だ。
「すみません、昨日アンプが壊れちゃって、音量調節が効かなくなってたんですけど、うるさくなかったです?」
「いえ……むしろ、ありがとうございます」
「?」
氷川さんの顔が一瞬曲がる。俺は、顔が赤くなってるのをさとられないように、外階段を降りていった。
ギターはおかず しぎ @sayoino
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