第085話 雨が止むまで

 片桐かたぎりたゆねが去った保健室で、カズキは一人呆然とベッドカバーを見つめていた。

 どれくらい時間が経過しただろう。ガラッ、と景気よく扉が開かれた。

 

「うぃーす、生きてるかー」


気怠くも明るい立花たちばな泉美いずみの声が響いた。

 泉美いずみは無遠慮にカーテンを開くと、ベッドの上に腰を下ろした。珍しく口元に煙草を咥えていない。


「エルに煙草買いに行かせたのに全然戻ってこないから、先にこっち来た」

「そう……ゴメン泉美いずみぇ。店、休ませて」

「んー、別にー」


いつもと変わらぬ淡白な口調。泉美の真顔が怒りゆえのものなのかカズキには分らなかった。


「アンタ、王サマになったんだってね」

「……エルに聞いたの?」


「〈イロハネ〉とかいうのも全部ね」

「ごめん……」


「なんの『ごめん』だよ」

「いや、その……でもなんとかするよ。泉美いずみぇには迷惑かけないようにするから……って、もう充分迷惑かけてるか……」


 カズキは歪に乾いた笑みを浮かべた。

 泉美は大きな溜息をひとつ吐いて、震えるカズキの肩に唐突と腕を回して自分の胸に抱き寄せた。


「ちょっ……泉美姉ぇ、なにして――」

「我慢すんな」

「え……」


「アンタはまだ子供なんだ。大人びたことなんて言うな。気持ちなんて押し殺すな」


泉美は幼子おさなごをあやすように自分の頬を寄せてカズキの頭を優しく撫でた。

 甘い香りと大人びた煙草の匂いが鼻腔をくすぐり、伝わる温もりに心を梳き解されていく。


「辛いことがあれば泣けばいい。苦しいことがあれば叫べばいい。ムカツクことがあれば誰かにぶつければいい。周りの眼なんて気にするな。他人の顔色なんて窺うな」


強く、優しく、温かく、どこか懐かしい。頭の上に響く泉美の声がが体の中に流れ込んでくる。言葉の雫は、小さなカズキの器をすぐに満たした。


「う……ぅああああ……!」


器から溢れた想いは涙に変わり、泉美の細い体を力いっぱいに抱きしめ返して、白いブラウスに涙塗れの顔を押し付けた。


「なんでだよ……なんで俺ばっかり、こんな目に合わなくちゃいけないんだよ……! 

 お袋は居ないし、兄貴にも親父にも疎まれて……LTSに入って御堂みどうが……信頼できる友達が出来たと思ったのに!」


蓄積していた想いが噴火する。その全てを受け入れるかのように、泉美は優しく頭を撫でた。


「つらいよ……俺、つらいよ泉美姉ぇ!! もう死にたいくらい苦しいのに……けどそれも怖くて、これ以上俺にはもう……!

 俺が何したって言うんだよ! なんで俺がこんな目に……なんで俺ばっかり!」


想いに比例して力強いカズキの指先。泉美のブラウスはクシャクシャに撚れて、指爪が背中に突き立てられる。

 それでも泉美は眉一つ動かさず、その痛みさえも愛おしむようにカズキの髪を優しく撫でいた。


「アタシにアンタを守るような力は無い。アンタの代わりに〈王〉にもなってやれない。

 だけどカズ、これだけは覚えときな」


静かにカズキの身体を離して真っ赤に腫れた顔を正面に、泉美は切れ長の双眸そうぼうで見つめた。


「アンタの為なら、アタシは世界の全部を敵に回したって構わない」


「……泉美姉ぇ」


「アンタが望むのならアタシはアタシの全部を捨てたって構わない。

 アンタが心底信頼してる人間がどれだけ居るかは知らないけど、これだけは言える。

 アタシは長瀬カズキの味方だ」


無機質で色の無い声。だからこそカズキは疑わなかった。泉美の言葉が水流のように受け入れられる。


「なんで……俺なんかに……」

「それがアタシの願う〈セカイ〉だから」


泉美はもう一度カズキの頭を抱き寄せた。

 心の音を聞かせるかのように。温もりを伝えるように。自分の存在を確かめさせるように。


 「アタシは忘れてない。アンタがまだガキの頃にアタシにくれたものと言葉……アンタの優しさがあったからアタシは生きてこれた。アタシの生きる意味をくれた」


「俺が、泉美姉ぇに……?」


「アンタはまだ小さかったから覚えてないかもしれない。だけどアタシは確かに〈セカイ〉を貰った。だから今度はアタシがアンタにくれてやる。

 あのとき分けてくれたアンタの優しさが、アンタが分けてくれた小さな火が、ずっとアタシの篝火になってくれてたから」


そう言うと泉美はカズキから体を離して、目線の高さを揃えるよう前かがみになった。


「生まれてきてくれて、ありがとう」


白い歯を見せて泉美は笑ってみせた。

 慣れていないのか、頬が引き攣り酷くぎこちない。

 けれど不器用なその笑顔はカズキの心に深く刺さった。心のダムを決壊させるには充分なほど。

 そうして体の中に溜め込まれていた感情が爆発してカズキは一層と泣き叫んだ。


 廊下にまで響くカズキの啼泣ていきゅう。それを背中越しに聞きながら、エーラとエルグランディアは保健室に入らず壁に沿うよう並び立っていた。


「煙草、お渡ししなくても?」


『良いんです。坊ちゃま、今はエルに会いたくないでしょうから』


「なぜですか?」


『坊ちゃま、変なとこプライド高いっていうか意地っ張りなんで。弱音吐いてる姿なんて、泣き顔なんて本当は誰にも見せたくないんです』


「……そう、ですね」


『です。それにエルはAIVISアイヴィスですから。人間の性格とか感情は理解できても心とか気持ちとか、そういうのはよく分からないですし。だから泉美さんにお任せです』


そう言うとエルグランディアは微笑んだ。

 けれどその笑顔がエーラには貶し気に見えて、赤い瞳を逸らし俯いた。


「……申し訳ありません」


『なにがですか?』


「私が彼を〈王〉にしたことで『貴女が人間になる世界』は、恐らくもう……」


『なーんだ。そんなことですか』


「そんなこと、なのですか?」


『だってエル、本当はそんなのはどっちでもいいんです。ただ坊ちゃまが元気で笑顔でいてくれる世界なら、それだけで』


明るく微笑み答えると、それ以上何を語ることもなく二人は壁を背に立ち尽くした。


 カズキの泣き声が止むまで。


 ただひたすら、心に降る雨が止むまで。

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