第083話 白い鼠《マウス》
――
早い時期に進路を確定させ、より質の高い教育と実務経験を積ませることで、卒業時に即戦力となるエキスパートの排出を目論んでのこと。
とりわけ医療分野は高い専門性に加え、日進月歩に技術や情報が革新されていく。身につけるべき技能や知識も比例する。
故に大学や専門学校で座学と実技を培い研修を終えたところで、多くは即戦力となりえない。
医師が医学部を卒業してなお研修医として現場を学ぶ理由もここにある。
◇◇◇
「――だが君はエスカレータ式の学校を中学時点で卒業しLTSへ入学している。書類では[自主的な進路選択]とされているが、資料を見る限り品行方正で成績も悪くない生徒だった」
まるで針の
片桐たゆねは淡々と続けた。
「
疑念の眼差しがカズキに向けられる。
握り締めた拳を見つめる横顔は、怒りとも悔恨とも悲哀とも取れて見える。
「理由を聞いても?」
重苦しい空気が保健室に充満する中、それでも片桐たゆねは止まらない。
いよいよカズキは震える口を開いた。
「……先生を……殴りました」
青ざめながらカズキは答えた。ベッドカバーを掴む手が更に握り込まれて、体も小刻みに震え出す。
「それは、どうして?」
片桐たゆねは努めて冷静に尋ね返した。
過度に荒ぶる呼吸にカズキは歯を喰いしばる。
「……その日、マウスの解剖実習があったんです」
そうして腹の奥底に封じていた記憶の闇を、声へと変えて曝け出した。
片桐たゆねは「ふむ」と腕組みして姿勢を正す。
カズキは、静かに語り始めた。
◇◇◇
分かっていた。頭では理解していた。
そのつもりだった。
だけど俺にはどうしても殺せなかった。
わざわざ一人一匹。たった一度の実習のために命を奪うことに意味を見い出せなかった。
当時は中学生だ。専門校に通っているとはいえ、将来その職に就くかなんて分からない。少なくとも俺は自分が医者になるだなんて思えなかった。
だけど、そんなこと誰にも相談できなかった。
クラスの連中は解剖を楽しみにしていたから。
特に男子は「早くネズ公をバラバラにして遊びたい」と言って笑っていた。
この空間が、異常だと思った。
それから少しずつ、俺は周りと距離を取るようになった。孤立するのは馴染むより容易だった。
そんな俺を心配してくれたのか、担任の先生が声を掛けてくれた。優しい笑顔の男前な先生だった。
生徒相談室で俺は心の内を吐露した。
先生は真剣に俺の話を聞いてくれた。
だけど『必要なことだから』『実習を受けないと退学になるから』というのが答えたった。
予想通りだった。だけど期待もしていた。だから俺は希望を失って、以前より一層、周りと壁を作るようになりました。
それから2週間ほどして、俺はまた担任の先生に呼ばれた。
『僕がなんとかしてやるから、出席はしておけ』
そう言ってくれた。
俺は嬉しかった。実習がどうこうよりも、本気で俺のことを考えてくれたことが。俺の話を真摯に受け止めてくれたことが。
感動で涙が出てきた。先生に何度も『ありがとうございます』と頭を下げた。
先生は爽やかな笑顔で『任せておけ』と俺の肩を力強く叩いてくれた。
でも、それは嘘だった。
いざ解剖実習の日になると、眼鏡を掛けた禿頭の実習担当は『そんな話は知らない』と突っ撥ねた。
何も考えられなくなった。頭が沸騰したように煮え立って、視界がぐるぐると揺れた。
気付けば俺は実験室でマウスを受け取っていた。
白衣を纏った俺の手の上で愛らしく動き回る白鼠に、俺は手が震えた。
周りの連中は『可愛い』『可哀そう』『早く殺したい』と思い思いを口にしていた。
でも全員、嬉々として笑っていた。
怖かった。とてつもなく。俺は震えながら、ただじっと掌で動くマウスを見つめていた。
生きている命の温もり。小さな鼓動。それを充分に感じさせて、実習の先生は白い箱の中にもう一度マウスを集めた。
先生は眼鏡の下にある目に不気味な笑みを浮かべて付属のガス管を開けた。
箱の蓋を開けると、何十匹という白マウスは全て横たわっていた。
呆然と震える俺を他所に、皆は嬉々とした様子でマウスの死体を手に取り座席についた。
先生に呼ばれて俺も死体を受け取った。
さっきまで生きて元気に動き回っていた命が今は俺の掌で冷たく横たわっている。
思考が完全に途切れて、言われるまま俺は自分の班の実験台に着いた。
周りが楽しそうに笑う中で、俺はただじっと背中を丸めていた。
そんな俺の肩が強く叩かれた。振り返ると実習の先生が後ろに立って笑っていた。
『ほれ、そいつがさっきまでお前の手の中で動いてたんや。お前が殺したんや。ちゅーかそんな小っこいネズミでメソメソしてんなや。
高等部でモルモットやら猫やらを解剖することになったら、どんな顔すんねんやお前。はよ見てみたいわー。はっはっは――』
気付くと俺は……拳を振り上げていた。
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