第071話 妹の幸福

 「すまない……エーラ」


絞り出された、羽音のように細やかな声。

 抱きしめられるマイアはエーラの腕から離れて立ち上がると、指先で涙を拭い冷笑的シニカルな美を取り戻した。

 そして何かを決意したように、凛とした面持ちで一同を見据える。


「これから話すことは、心して聞いてほしい」

「……はい」


マイアは小さく頷くと一つ呼吸を整え、扉を振り返り庫外を一瞥した。


「最初は……恐怖という感情しか無かった」


発せられた声から只ならぬ雰囲気。背中に汗を滲ませながら、カズキは話に耳を傾けた。


「この世界に突如現れ、頼る者も知る者もなく、いつ〈テンシ〉に見つかり殺されるのかと、怯えて日々を送ることが堪らなく恐ろしかった」


遠くへ囁きかけるような静かで重たい声。体の奥まで響く感情に、カズキは心臓を真綿で締め付けられるかのようだった。


「そんな時だった、エーラが生まれたのは」


マイアの紅い眼が、真っ直ぐにエーラへ向けられた。


 そして彼女は、語り始める。



 ◇◇◇



 生まれた時、私は一人だった。


 何の記憶も手がかりも無く、ただ〈イロハネ〉というゲームの駒としての自分しか知らない、この世ならざる存在。


 〈王〉を殺した〈テンシ〉は願うがままの世界を創り出せる。だが〈王〉は〈アクマ〉の中から作為無く生まれる存在。


 即ち〈王〉を討ち世界を変えるには〈アクマ〉を殺すことが必至。


 およそ〈テンシ〉は何の呵責かしゃくを感じることもなく私を殺すだろう。

 なぜなら我々〈アクマ〉は、人間であることはおろか生物かも分からない世界の異物なのだから。

 

 不安だった。恐ろしかった。

〈テンシ〉に見つかり殺されるやもしれない。そほ恐怖が私を圧し潰した。


 喰らうことも寝ることも必要としない〈アクマ〉の私には、気を紛らわせることも何かに逃避することも出来なかった。


 幾度か自害も試みた。

 けれどその度、何かに拘束されたよう体が動かなくなった。まるで脳と体を別の何者かに支配されているかのように。


 そうして私は、ただ只管ひたすら孤独と今日に独り耐えていた。屋敷から一歩も出ず、独り屋敷の暗闇に隠れて。


 そんな時だった。

  屋敷の物置から気配がして、恐る恐る見てみればエーラが生まれていた。

 一目見た瞬間に私は感じた。この黒髪の少女も私と同じ〈アクマ〉なのだと。


 私は嬉しかった。心から安堵した。

 後から生まれたエーラのことを妹のように想った。

 

無論〈アクマ〉に血の繋がりなど無い。懇意にする義務もない。それを体現するように、エーラは日がな一日海を眺めているだけだった。

 感情に乏しく会話など碌に無かった。妹のように想うだけで、実際は何を話せば良いかも分からなかった。


 それでもエーラの声が、瞳が、私には堪らなく愛おしかった。

 気付けば掛け替えのない存在となった。 


 私はエーラのために生きると誓った。

 エーラの幸せを考えるようになった。


 意を結した私は外へ赴き、エーラが幸福に暮らせるすべを探した。


 その頃だった。私が奴と出会ったのは。


 人間が……特に男が声を掛けてきたことは何度かあった。だが奴の雰囲気は明らかに違っていた。


 奴は私に交渉を持ち掛けた。私はそれに応じた。応じるより他に手立てが無かった。


 奴の真意は分からなかったが、私は奴の命令に従い〈テンシ〉を探した。

 

 そして、彼奴あいつと出会った。



 ◇◇◇



 「輝く羽と纏う鎧。それが私に確信させた。私を〈アクマ〉と知ってなお、彼奴は私を殺そうとはしなかった。

 どころか物を恵み、多くの言葉と温もりを与えてくれた。信頼するのに時間は要らなかった」


遠い……幾年月も過去の記憶を辿るかのようにマイアは虚空を見つめた。その瞳に映るのはこの場に居る誰でもない。

 美しく潤むマイアの紅い瞳。だが何故だろう、その横顔にカズキは言い様のない不安を覚えた。宿す光は澄みきっているのに。


「だがそれでも、私にはこの世界で〈アクマ〉が幸福に生きる方法など思い浮かばなかった……その時だ。お前が現れ、一筋の光を見出したのは」


中空を見つめ寂し気に語るマイアは不意にカズキへ微笑みかけた。視線だけでなく心を奪われそうになるほど美しい。

 けれどその悪魔的な美笑びしょうが、何を意味するのかこの時のカズキにはまだ分からなかった。


「ナガセカズキ。どうかエーラを見捨てないでやってくれ。口は少々悪いが、心の優しい子だ」


そう言ってマイアは右手を差し出し握手を求めた。

 戸惑いつつカズキも蒼い手甲の右手を前に出す。

 生身の手と鎧の手が重なり合わされる。無論マイアの温もりは伝わらない。それでもカズキは恥ずかしさから頬を赤らめた。


 先程までの殺伐とした時間が嘘のように、穏やかで優しい時間がカズキを包んだ。

 だが次の瞬間、マイアは痙攣のように大きく体を震わせると口端から血を流した。


 そしてそのまま、カズキの目の前で倒れる。


 握り交わした銀色の指がカズキの蒼い手甲からすり抜けて、冷たい床の上にその身をした。


 白い背中には、三叉の短剣ナイフが突き立てられている。


「マイア……さん……?」


思考が追い付かずカズキは固まった。

 足元に倒れるマイアの体。

 流れ出る大量の鮮血。


 彼女の白い肌を、赤黒い血が侵していく。

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