第035話 エーラ

 まるで心を隠すかのように、俯くエーラは膝の中に顔を押し当てる。

ぬるい風がカズキの頬を撫でると、微かに甘い香りが鼻を抜けた。

 その香りが共感覚のようにカズキの記憶を刺激する。


「あっ」


短い声を漏らしてカズキは思い出したように制服のポケットをまさぐった。

 取り出したのは、昼休みにエルグランディアから貰ったチョコレート菓子。

 赤いパッケージが特徴的なウェハース型のチョコレート菓子をひとつ、塞ぐ少女の前に差し出した。

 力無くもたげた紅い視線が、駄菓子とカズキに交互向けられた。


「これは?」

「チョコレート。これ好きでさ、昔から食べてた」

「食料ですか。先にも申しましたが〈アクマ〉に食事の必要はありません。ほんの数分前のことも御記憶に無いとは、貴方の頭はよほど卑俗な妄想で満ちているのですね。それとも私のような〈アクマ〉の言葉など、耳に届かないという皮肉ですか」

「いいから、騙されたと思って食べてみろよ。食えないことはないんだろ?」


再び差し出された菓子を少女は横目に見た。けれど膝を抱いたまま頑なに受け取ろうとしない。


 詮方せんかたないといった様子で、カズキは手本を見せるように包装を破いた。


 連なる山のような形状。中央の割線に沿って力を入れる。いびつに割れた二つの山。そのうち少しだけ大きい方を少女に差し出した。


 不格好に分けられたチョコレート菓子を突きつけられて、少女は恐る恐ると端をつまんだ。


 待ちきれんばかりに、カズキは片割れを口に放り込んでみせた。

 ザクザクと響く咀嚼音が小気味よい。

 チョコレートの刺激的な甘さと優しい香りが、口の中に小さな幸福感で満たすかのよう。


 疲れが吹き飛ぶような甘みに、自然とカズキの顔に笑みが溢れた。

 見よう見真似とばかりに少女もチョコレートの端をチビリと齧った。

 途端、紅く大きな女の瞳が二回りほど大きく見開かれる。


「すごい……」


思わず漏れ出た心の声。風に掻き消される程の声量だったが、カズキは聞き逃さなかった。


 自分の指ほどしかない小さなチョコレート菓子。惜しむように少女は齧るも、甘い幸福はすぐに無くなった。

 指先に付いたチョコレートさえ舐める姿は、愛らしくも何処どこ淫靡いんびに見えた。

 きれいに指を舐め終え、少女は「ほぅ」とため息を吐いた。頬をほんのり桜色に染めて虚空見つめる姿は、まるで淡い恋心を抱く乙女のよう。


「美味いだろ」


白い歯を見せてカズキは笑った。

 少女は赤面しながら「んんっ」と小さな咳払いで取り繕う。


「嫌い…… ではないです」


赤面しながら気丈に振る舞う少女の横顔に、カズキは思わず「ぷっ」と吹き出した。


 嬉しかった。


 高価でも希少でもない駄菓子。

 それでも小さな幸せを分け与えられたことが。

 少女の豊かな一面を見れたことが。

 カズキには、堪らなく幸せだった。


 カズキは同じチョコレート菓子を取り出し、今度は包装を開けずに差し出した。


「今日はもう、これだけ」


躊躇ためらいつつも少女は菓子を受け取った。けれどパッケージは開けようとしない。手の中にあるそれを見つめると、突然キッと鋭くカズキを睨みつけた。


「これは施しのおつもりですか?」


「は?」とカズキは訝しげに目を丸めた。


「施しでなければ、憐れみや同情ですか? ならばハッキリ言わせて頂きますが、私はそんなつもりで心中を語ったのではありません。憐憫りんびんなど――」

「なんだそれ」


少女の言葉を断ち切るようにカズキは言い放った。

だがそこに怒気は無い。

 スカイライナーが『グル』と短く啼いて、カズキを見上げた。


「同情とか憐みとか、そんな難しい言葉俺は使ったこともねーよ。ただ暗い顔で俯いてるより、楽しく笑ってほしいだけだ」


真っ直ぐに、瞬きもせずにカズキは少女の紅い瞳を見つめた。

 ルビーのような瞳に険しい表情のカズキが映る。

 少女は視線を逸らして項垂れると、駄菓子を握る手に力を込めた。


「なぜ、私などに……」

「……なんとなく」


いつのまにか互いに視線を背ける二人。静けさが、狭い庭を通り抜ける。


 カズキは嘘をついた。


 意図したものではない。胸の中に在る複雑な感情を、言葉に変えることが今はまだ出来なかった。

 ただ少なくとも、その感情は「好き」や「嫌い」という原色的なものでない。それだけは確かなことだった。


 『グルゥ』


押し黙るカズキの腕に鼻先を押し当て、スカイライナーが小さく鳴いた。


「そろそろ帰るか」


蒼い頭を撫でながらカズキがおもむろに立ち上がった、その瞬間。


「エーラ」


空耳かと疑った。

 振り向かえると少女は背を向いていた。ショートヘアから覗く耳が、夕焼けと同じ色をしている。


「私の名です。貴方がたのように立派な姓も屋号もありません……ただの、エーラです」

「……良い名前だな」

「そう、ですか」


二人は決して視線を交えない。

 けれどカズキは十分だった。

 ただこの瞬間が、堪らなく愛おしかった。


『グルッ!』

「ああ悪い。いま行く」


急かすようなスカイライナーの一声に、立ち惚けるカズキはようやくくと歩き出した。


「また……っ!」


ピタリと、踏み出されるカズキの足が止まった。

まるでエーラの声に絡め捕られたかのように。


「また……来てくださいますか?」

「いいのか?」

「待ってます……お菓子」

「……りょーかい」


もう一度足を踏み出せば出して、振り返る事もなくカズキはスカイライナーと共に立ち去った。


 夕暮れの風が、少しだけカズキの胸を冷やした。

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