第025話 二元色の夢

 『―――ま―――ちゃま―――坊ちゃま!!』

「……ん……んん」


虚ろ気なまぶたを擦りながらカズキは目を覚ました。

 朦朧もうろうとする思考。粘度の高い微温湯ぬるまゆに浸かっているかのような浮遊感。全身が汗で濡れている。にも関わらずひどく寒い。


『坊ちゃま! 大丈夫ですか!?』


頭の芯に響くエルグランディアの声に顔を顰めて、カズキは重い体を傾けた。


 ほの暗い部屋の中。呆ける視界にエルグランディアの姿が輪郭として映り込む。カーテンの隙間から、街灯の明かりだけが薄く差していた。


「エル……まだ夜」

『何を呑気なこと言ってるですか!! 坊ちゃま、さっきからずっとうなされてたんですよ!? 汗もびっしょりだし熱だって40度以上で!! なのに手は氷みたいに冷たいし!!』

「……そうか」


湯気のように頼りない意識。エルグランディアの声を言葉として認識できない。それでも彼女が当惑していることだけは分かる。カズキはそのままベッドを降りようとした。けれど。


「うぐっ…!! う……うげぇおぁっ…!!」


脳みそがグラリと揺す振られて、胃の中にあるものを全てぶちまけた。


『坊ちゃま!』

「はぁっ……はぁっ……悪りぃ、床汚した……」

『それどころじゃないです! 今すぐ病院に行きましょう!』

「や、やめろ……!」


部屋を出ようとするエルグランディアの腕を掴み、カズキは引き留めた。

 開いたドアから廊下の明かりが差し込んで、薄闇の中に立つカズキを照らし出す。

 瞬間、エルグランディアは翡翠色の眼を丸めた。彼女を掴むカズキの腕が、赤い発疹に覆われているからだ。


『坊ちゃま、その腕は!?』

「え……?」


言われてカズキも視線を落とした。

 焼かれたように赤く染まる腕。否、腕だけではない。よく見れば首や足の甲にも発症している。恐らく全身に広がっているのだろう。


『やっぱり今すぐ病院に行きましょう!! 泉美イズミさんを起こして車を出してもらいますから!!』

「嫌だ。病院は、行かない……」


血を浴びたように染まるカズキは、息も絶え絶え首を横に振った。


『なに言ってるんですか坊ちゃま!! そんな子供みたいな我が儘言ってる場合じゃないです!! エルは診察出来ないですし、お薬だって家には解熱剤と鎮痛剤くらいしか無いんですよ!!』

「それだけあればいい……飯食って、水飲んで……寝てりゃあ治る」

『バカなこと言わないで下さい! 命に係わる病気とか感染症だったらどうするんですか!! ちゃんとお医者様に診て頂かないと!!』

「頼む……泉美姉ぇには、これ以上迷惑かけたくないんだ……それに、医者なんか……」


発する言葉に覇気がない。掴む手指にも力が無い。その気になればエルグランディアでも簡単に振り解けるだろう。


「泉美姉ぇには、インフルエンザとか……夏風邪とか言って、適当にごまかしてくれ……大丈夫、3日で治すから……」

『でも――』

「頼む……エル」


 赤い身体を濡らす汗。

 覚束ない意識。

 焦点の定まらない眼。

 異常は明白。

 治療を受けるべき状態。それは容易に判断できる。

 けれどエルグランディアはカズキをベッドに寝かせて、優しく布団を掛けた。


『1日だけ坊ちゃまの言う通りにします。でも明日になっても治ってなかったら、エルは引きずってでも坊ちゃまを病院に連れていきますからね』

「ああ、それでいい……ありがと……エル……」


最後の力を振り絞るよう崩れた笑みを浮かべれば、カズキは静かに瞼を降ろした。


 高熱。激しい痛み。倦怠感。悪寒。纏わりつく眩暈と嘔気。それらがカズキの体力と気力を貪り、あっという間に懸濁の沼へと意識を引き込んだ。



 ◇◇◇



 現実と虚ろの狭間にカズキは夢を見た。明晰夢と呼ばれるものだろう。それが夢の中であることを夢の中のカズキは理解していた。


 そこは見渡す限り白と黒、二元色だけの世界。周りの建物や道路は見覚えがある。けれど生き物は一匹も居ない。

 

 雲ひとつ無い灰色の快晴に、熱の無い太陽が白く輝いている。


 冷たい世界の中心で、カズキは独り立ち尽くしていた。

 モノクロの世界に、唯一カズキだけが色彩を具えている。LTSの学生服も鮮明に再現されて。


 ふと右手を見れば、指先から紅く変色していく。現実の症状を再現しているかのようだ。


 血を思わせる〈赤〉はカズキの右手から腕を上り侵食を広げる。  

 白い制服の袖をまくれば、右腕は既に赤く染まりきって、いよいよ肩や首まで犯そうとする。


 カズキは平静に自分の異変を見つめていた。


 いつの間にかスカイライナーが傍らに座っている。カズキと同じく現実をコピーしたように色形は完全同一。蒼い装甲はこの世界で極めて目立つ。


 その時、何者かが現れた。

 顔は分からない。その姿は黒く塗り潰されている。まるで本体を離れた影が、ひとりでに歩いているかのよう。


 影はカズキの眼前に立った。


 赤く染まる手を伸ばすと、黒い影も対の手を差し出す。


 鏡のように二人の手が触れ合い、絡み合うよう結ばれて、二元色だった世界は燃え上がるように深紅へ姿を変える。


 そして夢は、途切れた。

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