エピローグ

タマナハ・クレア 最後の3分間

「お疲れ様でした。またのお越しをお待ち申し上げます」


 受付嬢にそう言われて、玉那覇クレアは、建物の外へ出た。

 閉ざされた空間にしばらく身を置いていたせいか、日差しは目に眩しく、軽い眩暈を感じてどこかで休みたかった。


「あれ? おかしいな……」


 出て来たばかりの建物を振り返ってみて、この中で自分が今まで何を見てきたのか、全く思い出せないでいた。

 父親や母親の手を引っ張りながらはしゃぐ子供たちでごった返した建物の入り口のドアの上には「コドモミュージアム」という文字のディスプレイが、ポップな書体で踊っている。

 なぜ、自分はこんなところに入ったのだろう。


 〈企画展・さあ、キミも世界を救う旅に出よう!〉


 立て看板に書かれた文字の下には、紫と黄色のチェッカー柄のへんてこなデザインのキャラクターがウインクしながら、スキップするようなポーズで描かれている。

 クレアは、そのキャラクターのことなんてこれっぽちも知らないはずだが、なぜか、懐かしさを感じる。

「いやいや、そんなはずはないわ。

 こんな変なキャラなんて、絶対御免よ」

 ふと、ガラス越しに今出て来た受付の方を見ると、受付嬢がクレアと目が合ったのに気づいて、笑いかけていた。

 たぶん、営業スマイルなんだろうが、この受付嬢にも、全く見覚えがないのに、妙な親近感を持っている自分に気づいて変な気分がした。


(おかしいわ。どこかに頭でもぶつけて、記憶喪失にでもなったのかしら)


 クレアは思わず、自分の頭に手をやってみたが、頭を打ったような形跡はない。

 ふと、自分の服を見回して、薄汚れていることに気づいた。


「何よ、これ? 砂ぼこり? なんでこんなに汚れているの?」


 胸の辺りを見ると、左側に“変な形”のブローチがぶら下がっているのに気づいた。

 銀色のブローチだが、半円形のようないびつな形だ。

 よくよく見ると、バラの花が半分に切り取られたようなデザインに見えなくもない。


「こんなの買った覚えはないし、コドモミュージアムで貰ったのかしら?」


 胸から外して、そのまま帰り道にあるどこかのゴミ箱にでも捨ててしまおうかと思ったが、そう考えた途端、頭の片隅に罪悪感のようなものが過った。

「まあ、捨てるのもなんだし……。とりあえず取っておくか」

 半分欠けたようなデザインは、いまいちだし、再び胸に付けるのは躊躇われて、ポシェットの中に仕舞い込んだ。


 *


 いったい自分はどうしたというのか。

 確か、“今日”は、大学で午前中にヨシムラ先生の授業を受けてて、何かにはっと気づいて、なぜかキャンパスを飛び出して、コドモミュージアムに向かったような……

 ダメだ。記憶がところどころ飛んでしまっている。

 スマホのカレンダーを見ると、何か変だ。


「あれ? 今日は“日曜日”じゃないの!

 ヨシムラ先生の授業は、月曜日のはずだし……」


 自分はコドモミュージアムの中で一週間も過ごしたというのか?

 クレアは頭が混乱した。

 とりあえず、家へ帰って、ゆっくりと休みたい。

 シャワーを浴びて、自分のベッドでゆっくり眠りたい。

 それだけだ。

 そして、ミルクをたっぷりと注いだ紅茶を飲みたい。

 そして……

 久しぶりに、バイオリンを弾きたい。

「え? なんで?」

 大学に入って以来、これまでバイオリンを弾きたいと思ったことなど、あまりないのに。

「なんでだろう」

 キャンパスの入り口を横目で見ながら、人の少ない校舎の方を見て、確かに今日は日曜日だと、確信しつつ、駅へ向かう道をとぼとぼ歩きながら、クレアは独り言を言った。


 “ビオロン”


 ふと、頭の中に妙な単語が浮かんだ。

「ビオロンってなんだっけ?」

 工学用語だったか、それとも、電子系?

 クレアは、スマホでビオロンと検索してはっとした。

「フランス語で、バイオリンのことなんだ……」

 でも、自分には、これまでそんな知識はなかった。

 歩きながら、スマホを弄っていると、駅の入り口が間近に迫っていた。

「ま、いいか……」

 スマホをポシェットの中にしまうと、改札を目指して歩みを進めた。

 久々のバイオリンで何を弾こうか、

 ちょっと考えて、すぐに浮かんだ曲があった。

「タイスの瞑想曲。 

 ドビュッシーの月の光も悪くない。

 あと、バイオリン曲としては、ちょっと変わっているけど、ショパンのノクターンなんかも」

 でも、なぜ?

 考えても答えは出ない。

 弾きたくなったから弾くだけ。

 それでいいと、今は思う。

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タマナハ・クレアの一週間 未来乃メタル(みらいの・めたる) @kujirapenguin

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