さようなら一週間、そして新しい一日へ(その3)

 クレアは途方に暮れていた。

「このまま、この世界に留まるしかないのか」

 キノコ雲の残滓を歯噛みしながら眺めていた。

 ふと辺りを見回し、馬車に積んであった荷物のところまで、つかつかと歩んでいった。

 荷台に乗せていた“アルペギュオスの弓”と一本の矢を掴み取ると、矢を番(つが)え、“悪魔の雲”目掛けて、弦を目いっぱい引いた。

「何をしているんだい。いくらその弓でも、この距離ではあの雲まで届かないし、万が一届いたとしても、焼け石に水だよ」

 ネルバが呆れながらも、心配げな表情で声をかけた。


〈ビューン!〉


 ネルバの言葉に耳を貸さず、クレアは思い切り矢を射った。

 矢は軽やかに大空を舞い、元の世界で名人が射るときの初速、時速250キロを遥かに超えるスピードで突き進み、キノコ雲の中に吸い込まれるように、視界から消えた。

 だが、実際の矢はキノコ雲の遥か手前で落ちたに違いない。

「やけくそになったのかい? クレア、いやアルテミス……かな」

「無駄なことはわかってる。

 これは“私の世界”のことわざで、“一矢報いる”というやつだ」

 クレアは弓を射った姿勢を保ったまま、悪魔の雲を憎々しげに睨んでいた。


「アルテミス……」

 倒れていたエミリアが、薄目を開けてクレアの方に呼びかけた。

「もう諦めろ。そして、我々に力を貸せ」

「まだ言うか。

 私はお前たちに力を貸すことはない。

 神の力で人間を支配することに興味などない」

「そうではない。別に神の力を持って人間を支配せずともよいのだ。

 人間を正しい方向に導く、その手助けをしてほしいのだ」

 この言葉にクレアは瞬間、心が揺らいだ。

 確かに、“支配する”のではなく、正しい方向に“導く”のであれば、協力することは吝かではない。

 が、しかし、それは、結局“同じこと”ではないか。

 支配と啓蒙は何が違うというのだ。

「いや……。やっぱり辞めておこう。

 私には、お前たちを手助けするだけの“動機”がない」

「どうしてだ。あなたは、自分がアルテミスであることを思い出したのだろう。ならば、再び我々とともに進む意志だって取り戻しているのだろう?」

「私の……、いや、今の私は、神ではなく人間であり、そして、タマナハ・クレアという個人の体なのだ」

 クレアは、元の世界を捨て去って、この世界を手放しで選ぶほどの気概は持ち合わせていないと、改めて確信した。

「ふん、戦士として記憶は取り戻せても、心は“人間の少女”のままということか」

 エミリアが吐き捨てるように言った。


「タマナハ、クレア」

 自分の“名”を呼ぶ、別の声が聞こえた。スクルドの声だ。

「スクルド、無事か」

 クレアは、少し離れたところで介抱されているスクルドの姿を認めて駆け寄った。

「ああ、そろそろ時間のはずだが……。

 ゲートが開くのはここではなかったのか……」

「うむ。何らかのトラブルがあって、別の場所に開いてしまったらしい」

 スクルドは、上半身を起こして姉妹たちに声をかけた。

「肩を貸せ」

 そういうと、ふらふらした足取りで立ち上がり、両肩を支えているスコグルとヒルドに告げた。

「お前たちの“力”を私に寄越せ」

 肩を貸していた二人の乙女は、互いに顔を見合わせて、驚いた。

「え? それはどういうことです、スクルド」

「言った通りだ。お前たちの“力”を貰う」

 スクルドが弱々しい視線でクレアを見上げた。

「クレア、大丈夫だ。心配するな。

 これから私が、お前をゲートまで送り届ける」

「何を言ってるのだ、そんな傷付いた体で、どうするというのか」

 クレアはスクルドの言っている意味がわからなかった。

「さあ、二人とも、早く、力を寄越せ。

 クレアは少し離れていろ」

 スクルドの決心が固いと見たスコグルとヒルドは、意を決したように頷き合った。

「わかりました、スクルド。

 あなたは、一度言い出したら、聞きませんからね」

 スコグルとヒルドは、スクルドをいったん地面に座らせると、少し距離を取った。

 三人が正三角形の頂点を形作るような位置に付くと、スコグルとヒルドは両掌をスクルドに向けて翳した。

 静かに目を閉じて、何やら念じ始めたかのようなポーズを取った。

 しばらくすると、わずかに周りの空気が振動するような気配がして、二人の掌から、高濃度の生体エネルギーが照射され始めた。

 数秒後、スコグルとヒルドの二人は、エネルギー照射によって力尽きたのか、その場にバッタリと倒れた。

「おい、大丈夫か」

 クレアが心配になって声を掛けた。

 見ると、地面に突っ伏した二人とは反対に、スクルドが“精気”を取り戻して立ち上がっていた。

 エミリアに貫かれた胸の辺りの出血も今は治まっているように見えた。

「この二人のことは心配要らぬ。少し経てば回復するだろう。

 それより、一刻も猶予はない。行くぞ、クレア、私に掴まれ」

 スクルドはクレアの前までつかつかと歩みより、その身体を抱きかかえた。

「そんな掴まり方では途中で落ちてしまうぞ。ちゃんと私の首に手を回せ」

 クレアは、言われた通り、スクルドの首にしっかりと手を回したが、小さな子供が親に抱かれているような恰好で、照れ臭かった。

 アルテミスの記憶を取り戻したとはいえ、その“意識”はクレアそのものだ。

 間近で見るスクルドの顔は、角度によって色の変わるヘーゼルに近い瞳と、それを保護するような長い睫毛が目立っていた。

「大丈夫か、戦い疲れて熱でも出たか?

 頬が少し赤いぞ、クレア」

「何でもない。そっちこそ、大丈夫か」

 先ほどまで、倒れて介抱されていたとは思えない力強さを感じていたものの、すべてを任せるのは、やはり心配だ。

「スコグルとヒルドから“力”は十分に貰った。

 クレア程度の“重さ”なら十人抱えても平気だ。

 ネルヴァギウス、ゲートはどの辺です?」

「ああ、この塀の延長にある。堀に沿ってずっと辿っていけば、いいだけだ」

 ネルバが、塀が長城のように続いている丘の上の方を指さした。

 クレアは、最後にエミリアとマチルダの方へ振り向いた。

「悪く思うな。さらばだ」

「クレア様、お達者で」

 エミリアは顔を背け、マチルダだけが別れの言葉を述べた。


「行くぞ!」

 クレアを抱えて飛び上がったスクルドが顔を顰めた。

「スクルド、あまり無理をするな」

「心配は無用だ。ふふ、クレアは本当に心配性だな」

 エネルギーを与えられたとはいえ、まだ傷に響くのだろう。

 飛び立つことを覚えたばかりの雛のように、塀に沿って、2メートルほどの空中を、大空へ羽ばたくことができずに移動していくような飛び方だった。

 しかし、そのスピードは、人間や馬が走るよりも遥かに早かった。


「どうやら、置いて行かれてしまったね」

 ネルバは、残されていたエミリアとマチルダの元に歩み寄った。

「妖精族は呑気なものだな。

 神と人間との間で、面白がっているようにしかみえん」

 エミリアが愚痴った。

「その通りさ。僕らにとっては、この世界がどうなろうと、そんなことはどうでもいいからね。

 楽しければ、それで結構。おっと、あまり本音で話しても神族から叱られるだけだから、この辺にしておこう」

「我らも道化師だったということか」

「まあ、次の救世主に期待するしかないね」

「今後、アルテミス以上の救世主が現れるとは思えぬ」

「それは、“君たち”にとってだよね。

 他の神族、あるいは人族にとっては、もっと凄い救世主が現れる可能性だってあるさ。

 おっと、お喋りはここまでだ。僕も、もう行かなきゃ。

 “彼女たち”が果たして間に合うのか、見届けないとね。

 君らとはここで、とりあえず、バイバイということで……」

 ネルバはお道化たように一回転すると、宙の中に掻き消えた。


 長い塀に沿って、その輪郭をトレースするように、スクルドは飛び続けた。

 あとどれぐらいの距離があるのか、皆目見当が付かない。

 果たしてゲートはどこに開いたのか。

 塀の延長にあることは間違いないようだが、まだ肉眼で捕らえることができない。

 必要最低限の揚力を得るために、白い翼を上下に揺らしては、推進力を保つために、その翼を左右に広げつつ、緻密に織り込んだ紙飛行機のように、スクルドはひたすら飛んだ。

 クレアの体重が軽いといっても、人間一人を抱えて飛ぶには、やはり限界がある。

 “神的力”を得ているとはいえ、先ほどまで、重傷を負っていた身体だ。

 最低限に保っていた高さがだんだん落ちてきた。


〈ズズッ〉


 紙やすりで削ったような、嫌な音を立てて地面を引き摺ったのは、自分の体ではない。

 どうやらスクルドの体のようだ。

 足先が地面に触れたのか。

 思う間もなく、バランスが崩れた。

 着地に失敗した幅跳び選手のように、否、もっと悪い形で、二人は地面に転がった。


「すまん、クレア」

「もういい、ここまで来れれば十分だ。

 あとは一人で行く」

「いや、まだ距離がある。もう一度掴まれ」

「やっぱりその身体では、無茶だ」

 見ると、スクルドの胸の辺りから再び鮮血が滲み出していた。

「最後まで送らせてくれ。

 ここまで運んできた分を無駄にさせないでくれ」

「無駄なものか。

 もう十分だ。自分一人で行ってもし間に合わなかったなら、仕方がない。そこで諦めよう」

「何を言っている。諦めてはダメだ。諦めたら終わりだ」

 言うが早いか、スクルドはクレアの体を抱え上げ、再び、飛び上がっていた。

「おい、スクルド!」

 スクルドは、何も答えず、真っすぐ前に目を向けて飛ぶことだけに集中していた。

(時間が欲しい。さっきまではあれほど余っていたというのに、なぜ、こうも切羽詰まったことになるのだ)

 こうなったら、スクルドに任せるしかない。

「わかった。頼んだぞ、スクルド」

 二人が再び空を駆け始めたとき、果てしなく続くかと思われた地平線の向こうに、今しがた昇ったばかりの太陽が顔を出したときのような眩しい光が、ふいに差し込んだ。


「あれだ!」

 クレアが、思わず声を上げた。

 それは、間違いなく、この世界と元の世界を結ぶ“ゲート”だった。

「クレア様、早く!

 もうゲートが閉じ始めています!」

 ゲートの手前にエリスが立ち、叫びながら手を振っていた。

「クレア、急いで!」

 エリスの横には、先にテレポートしてきたネルバがいた。

 

「スピードを上げるぞ!」

 光の輪の中に突っ込んでいくかのように、最後の力を振り絞り、スクルドが加速した。

 

「行くぞ、イチ、ニイ、サン、それ!」


 サーカスの空中ブランコで、掴んだ相手を向こうのブランコへと放る技を決めるかのようなタイミングで、スクルドはクレアの体を離し、クレアは、飛び込み台からプールへダイブするように、光の中へとジャンプした。

 が、クレアの身体は目標よりもやや手前に落ちていく。


「クレア様!」

 先に光の輪の中に体半分だけ入っていたエリスが、クレアの体をキャッチするように両手を目いっぱいに伸ばした。

 わずかに片腕を掴んだエリスが、クレアの体を何とか光の中に引っ張り込んだ。

「間に合ったか」

 ネルバが安堵の声を上げた。

「では、ネルバ様」

「よろしくね、エリス」

 すでにフラフープ程度の大きさに縮んだ光の輪の中に、上半身だけ残していたエリスが入り込むと、風船の空気が抜けるように、光の輪は消えた。


 一方のスクルドは、光の輪を避けるようにカーブを描いて横に飛び、勢い余って荒れた地面の上を身体ごと滑っていった。崩れ落ちかけている塀の一部に全身が当たって動きが止まった。

「クレア、無事に帰れたか……」

 前方に倒れたスクルドは、消えゆく光の輪の方に顔を上げて微笑むと、安心したかのように目を閉じてがくりと頭を垂れた。


 やがて、遅れて追いついた“姉妹”たちが、スクルドの傍に集まった。

 スクルドに“気”を与えたスコグルとヒルドもフラフラになりながら一緒に付いてきた。

「スクルド!」

 姉妹たちの呼びかけに応える声は聞こえなかった。

 しばしの間、彼女たちは無言で立ち尽くしていた。

 荒涼とした大地の片隅で、静かに嗚咽する声だけが響いていた。


「この剣と弓は、当分の間、我々が預からせて貰います。

 よろしいでしょうか、ネルヴァギウス」

 スコグルがネルバに尋ねた。

「もちろん、いいよ。元々、僕のものじゃないしね」

 ワルキューレたちは、動かなくなったスクルドの身体を自分たちが身に着けていた白い布地を持ち寄って包み込んだ。

 スコグルは、スクルドが先の戦いで取り戻してくれた青いリボンを布地に巻いて縛った。

「我々の任務は終わった。これより帰還する」

 スコグルが皆を鼓舞するように、号令をかけた。

 四人のワルキューレが、スクルドの身体をそっと四方から支え上げると、残りの全員で西の彼方へ静かに飛び去っていった。


「しかし、皮肉なものだな。

 闘いで亡くなった者を運ぶ乙女が、運ばれる側になるとはね」

 彼女たちが空に消えゆくのを見届けたネルバは、名残を惜しむかのように、自らもゆっくりと宙に消えていった。


(了)

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