第2話 ふたりの宇多原

退勤をタイムカードに押し、さっきまでの職場で買い物をする。

通用口を出ると朝日が体内時計を焼き切ろうとするかのように刺して来た。夜通し煌々と付いているスーパーの照明とも違う正しい明るさだ。


スーパーの客用出入り口の前を通ると突然、背後から肩を叩かれた。


「おはよ」

しまった。退勤で気が緩んでいた。どうする?心拍数が上がる、しかし呼吸は乱さない。冷静であれ、臨機応変であれ。修行で叩き込まれたニンジャの姿勢だ。


肩に置かれた手は小さく暖かい。この手を、俺は知っている。

「さすが、宇多原家の人間だな」

振り返ってそう言うと、大きな切れ上がった瞳がぎゅっと睨みつけてきた。マスクと前髪の間で、長い長いまつげに囲まれて朝日を乱反射させている。

「……悪かったよ。せっかくチケットを兄に売りつけに来たっていうのにな。」

「……10枚買わせるわよ。」

「いくらだっけ?」

「3000円でいい。本当は3800円だけど。」

4000円差し出した。フリーターでも兄としての矜持がある。


妹は役者をやっていて、チケットノルマを果たすため、バイト先の人や友だちにチケットを売りつけているのだが、はけが悪い時にははるばる兄のところまで来る。


シフトを話したことは一度も無いのに退勤時刻と動線を掌握する手腕。背後には常に気を配っている俺の体に容易に触れられるような気配の消し方。それなのに彼女はニンジャではない。15歳の成忍式の時に、ニンジャの道には進まないと宣言したのだ。

ニンジャの家に生まれた子どもは幼いうちから親や親戚による厳しい修行を受ける。学校に通う以外の時間はほとんど自宅か道場で稽古か座学である。そして15歳になると儀式が開かれ、一族に認められれば基礎忍術技能士の資格を得る。


進路としてはニンジャのエリートコースである忍者大学と忍術大学院か、忍術専門学校があり、いろいろ複雑な要件を満たせば、国の機関でニンジャとして働くことができる。


妹はニンジャの家である宇多原家に生まれたが、ニンジャにならないことを選んだ。

『私、ニンジャにはなりません。お父さんお母さん、沢山修行を授けてくれて、本当にありがとうございました。』


たった一人で自分の進路を決めた14歳の妹。

未だに自分の人生を決められずバイトをしている27歳の俺。

(俺は…)


「観に来てよ。」

チケットを財布に収めている俺の手元にチラシを差し出す。

「今度は、上野」

妹の顎が微かに上がる。感情を顔に出さない癖がついているもの同士、俺たちは相手のほんの僅かな体の動きから感情を読み取るのが常だ。

(今度は高円寺とか吉祥寺じゃないんだな)

「遠いなあ」

チラシを裏返しながら言ってみる。

「遠くないわよ、都内でしょ」

「ウタハラ、ノラ?芸名使ってるのか」

「知らなかったの?」

大きな瞳が再び睨みつけてくる。

「きいちゃん、もうちょっと私に関心持ってくれてもいいのに。たった2人のきょうだいじゃない?」

「『人形の家』のノラか。」

「そうだけど、あえて言及されるとなんか恥ずかしいからやめてよ」

ノラ。満たされて不自由でいるより、満たされずとも自由を選んだ女。

「いい名前だな」

「ふわーあ」

話を聞いているのかいないのかマスクの中であくびをしている。

「眠いわ、私も夜勤明けだから」

役者だけでは食っていけないので、妹はアルバイトを掛け持ちしている。グループホームのスタッフと、体操教室のアシスタント。

「電車だろ?」

「何言ってるの、チャリだよチャリ。」

今度は俺が言葉を失ってしまった。

「…グループホームの最寄りから何駅あると思ってるんだ」

「さあ。5駅くらい?」

「7駅だよ」

「特快なら5駅でしょう」

「特快ならそもそもここには止まらないだが、そういうことじゃないと思うんだよな」

「電車なんてまだるっこしいの。感染症とかも怖いし。」

「感染症で死ぬ前に熱中症か交通事故で死なないでくれよな」

死なないで。

「死なないで、なんてニンジャじゃないみたいね」

「死なないでほしいよ、俺は。みんなに。」

「そんなのそうだよ、それってあたりまえじゃん。みんな死にたくないから必死でマスクしてるわけだし。でもニンジャの家ってそういうのを言わせない空気?っていうか。そういうのがある。」

「それで、」

ニンジャになることを断ったのか。

「それだけじゃないけどね」

「それだけじゃない?」

「まあいいじゃんっ」

赤い古そうなママチャリのスタンドをけたたましい音と共に蹴り上げる。細い白い脛が蚊に刺されていた。

「ちゃんと食えよ、これ持ってっていいから。ここ、バイトでも従業員割引あるんだ。」

サドルにまたがった妹は遠慮なく保冷エコバッグを受け取った。中身を覗いて、「これいらない」と豚バラだけ俺に押し付けた。

「脂身にがて」

「好き嫌いするなって母さんに怒られるぞ」

赤い自転車は人々に逆行し、開館前の公民館の角を曲がって行った。甲州街道に出るのだろう。

豚バラは俺の好物だ。


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ニンジャ宇多原 @MichikoMilch

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