エピローグ
親父が誰かに謝っている姿を初めて見た。それは高木ひまりに向けられた謝罪だったけれども、内容は俺に向けてのものだった。
今、目の前にいる親父は、気まずそうに頭を掻いて、目を合わせようとしない。
何が『十年間、本当にすまなかった』だ。いいや、違う。もっと別の言い方があるだろう。
言いたいことは色々ある。言いたい文句も色々ある。聞きたいことも色々ある。しかしそれらは全て、今言うことではない。
言葉を限りなく慎重に選んだ。
「……本当に、申し訳ございませんでした」
自分でもおかしいと思った。でももう十年くらいまともに会話をしてなかったのだ。一度口から出た言葉は引っ込むことはないのだから、仕方ない。
すると、親父は視線を俺に向けて、少しの間見つめ合う。そして、吹き出して笑った。
「なんだそれ」
笑う親父の姿を見て、こんな人間だったのかと知る。
笑いが収まったあと、親父は服の皴を叩いて伸ばしてから、頭を下げて謝った。
「十年間、本当にすまなかった」
互いに何が悪かったとか、ああすればよかったとか、色々考えてはいたけれど、一切口に出すことはなかった。それでも、心が通じたから、今俺は笑っているのだろう。
あの時、衝動に任せて殺さなくて、本当に良かった。
俺は親父を許さない。
彼は俺を見捨てた。育てなかった。親を放棄した。たった一人の他人として生きていくことを選択した。
だから俺は親父を許さない。
でも、それは俺からの視点だけで見た結果でしかない。親父の立場に立ってみれば、世界は違って見えるのだろう。
その顔の皺は、その白髪は、そのしゃがれた声は、何かをずっとすり減らし続けたことを暗に示している。
会話すらなかったから、気づけなかった。
何度も言う。俺は親父を許さない。
でも、だからこそ、対話が必要なのだ。
対話から、少しでも知る必要がある。
高木ひまりが突然現れて、俺の殺人を未遂にしてくれた。彼女の行動の理由は全く理解できないけれど、その行動には感謝している。
『話し合えば、必ずやり直せますから』
彼女の言葉が頭に響く。
かたや二十歳の無職、かたや五十四歳の無職。なんて酷い組み合わせだろう。
でも話し合ってからなら、不思議と、親父とならやり直せる気がした。
お互い様だから。
本当に、本当に、俺たちは馬鹿野郎だ。
*
家に戻ると、左肩の出血を見た母親が、「どうしたの!」と急いで消毒をして、包帯を巻いてくれた。
何があったかと訊かれたので、「少し昔の反省会をしてきた」と言うと、意味が分からないと一蹴された。しかし深くは訊いてこなかった。きっと、話したくないことだと思われたのだろう。もしくはついにおかしくなったと思われたに違いない。
包帯を巻いて、テーブルに座る。
暖かかったチキンやピザは全て冷えてしまっていたが、家を出た時と量は変わっていなかった。みんなはひまりを待っていてくれたのだ。
傷が浅いものだと分かると、暖めなおすことはなく、まるで何事もなかったかのようにクリスマスパーティーは再開した。
そしてテーブルの上の料理が全て片付いて、クリスマスケーキを食べる。あの日床に投げ捨てたケーキは、こんなにも美味しいものだったのかと驚いた。
今頃、秋村翔太は親父と話し合いを終えて、ケーキでも食べている頃だろうか。
別に仲直りをさせたかったわけではない。
親になって、親を知った。
親父のように、たばこや酒に逃げたくなるのも分かる。でも彼には支えてくれる人がいなかった。子供を育てなければならないと思い、子供に甘えることをしなかった。
結果、ああいった歪な関係が産まれたのだろう。
今は齋藤ひまりだ。秋村翔太とはほとんど関係のない人物だ。彼は殺人をしなかったことで、自分とは異なる道を歩み始めている。完全なる別人だ。
しかし彼が人殺しをしなかったとはいえ、自分の罪が消えるわけではない。確かにこの手で、首を包丁で切ったのだ。
罪に家族。背負うものが沢山だと、ひまりは笑った。
重たすぎる。しかし家族となら、共有してもいいのではないか。そう思う。
「ねぇ、少し大切な話をしていい?」
「大切な話?」灯花が訊いた。
「そう。私の話」
母親と内山さんが頷くと、灯花も真似をするように頷いた。
いざ話すとなると、物凄く緊張する。話さなければいけないことは沢山あるし、できるだけ悲しませないようにもしたい。そして何より、生前のことを包み隠さず言わなければならない。 それはあまりにも衝撃的な内容で、自分でもあまり言いたくないことだ。
なんて言って始めようか。自分が人殺しとか、秋村家を壊したとか、前世は無職だったとか、自殺して生まれ変わったとか、始まりはいくらでも考えられる。
でも、家族に言うと考えた時、それに相応しい始まりがあることに気が付いた。
咳払いをして、深く息を吸ってから言う。
「――私には、大切な人がいたの」
一人で背負うには、重たすぎた。でも、四人でなら、いいや、六人で分け合えるなら、前を向いていける。
話し終えたとき、ようやくこの家族の一員になれた気がした。
*
ひまりは夢を見た。
そこは見慣れた景色で、しかしどこか違うようにも見える。
慣れたように児童公園のベンチに座って星空を見上げたとき、どこが違うかに気づいた。
隣には誰もおらず、腕の中にも誰も抱きかかえられていない。
しかし相も変わらず星空は、嬉しいことがあった人の上にも、悲しいことがあった人の上にも、等しく輝きの世界を作り出している。
ひまりは心の底から、その景色を綺麗だと思う。
そうしてしばらく眺めていると、少し西の空に夏の大三角を発見した。
ベガ、アルタイル、デネブ。
どれがどの名称にあたるかを知っていた。
しかし夢らしく、脈絡もなく突如として、世界は真っ暗になっていく。
次に世界が明るくなったとき、夏の大三角はアルタイルを残して消えていた。
アルタイルは家族同然の星が消え、周囲から浮き、寂しそうに見える。
しかしひまりは、そこにあるはずのないデネブとベガの残像を辿り、指で三角を作った。それは空まで昇り、星空に三角の軌跡が作られていく。
夜空に星はたった一つしかない。
しかし三角は作ることができる。
たった一つの星を、消えた二つの星が支え合うように三角が形成される。
そんな風に二人が見守っていてくれるなら、これから先の人生が一人ぼっちでも、まぁ怖くないと思えた。
やがて空は白み始め、朝日が昇る。
町は暖かな光に照らされていく。
夜明け。
私の知らない世界が始まった。
長い長い、夜だった。
まるで永遠の夜のように思えた。
でも、真っ暗な夜闇が世界を包んだなら、いつかは絶対に朝日が昇る。明けない夜はないのだから。
そして太陽は空に昇り、町は動き始める。
生まれ変わって、あさが来た 目爛コリー @saikinene
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