1-06 心の在処(2)
伯爵家の次男坊レイモンド・エンディと、王女クリスティナ・アジュールとの婚約は、侯爵が望み、国王が応えたことにより実現した。
クリスティナは、侯爵の功績を讃える、云わば褒章である。
幼少より幾度となく顔を合わせいつしか互いに想い合うようになった若い二人は、侯爵の粋な計らいにより晴れて婚約者同士と相成り、更なる愛を深め合っている、というのがよく知られている話である。
事実の上澄みのみを漉して濾過した言い方をすれば、事実と言えなくもない。
以前より火遊びを繰り返し、宮廷で浮名を浮かべまくっていた男が姫君に一途な愛を誓っている、などという言い方をすれば美談で通るだろう。
とにかく、王女と貴族青年の恋物語は、二人のその容姿も手伝い、特に王国の若い娘には憧れと羨望の対象だ。
「ご挨拶はされたのですか?」
クリスティナは、「お茶会」にその意識を戻した。
王国の若い娘が憧れるクリスティナは、そんな民衆の心とは裏腹に、内心に常に不安を抱いている。
優しい声音で、囁くように交わされる他愛ない会話が、余計に不安を煽る。
いつもそうだ。
しかし、クリスティナはそれには気付かなかったことにして、レイモンドの喉元に視線を固定して微笑んだ。
傍から見れば、見つめ合っているように見えるはず。
まだ大丈夫。まだ、笑える。
「いいえ、まだ」
今回の赤の皇太子の来訪自体は、国の中枢に近い者にとっては公然の秘密だ。
長兄のフィニアスは、十代の後半の殆どを遊学と称し王都の外と国外で過ごした。
赤の皇太子は、その遊学中に
当時の王太子の従者曰く、悪友。
歳が近いこともあり、大層意気投合し、遊学中の短い期間ではあったが互いに切磋琢磨、というより「子どもらしい悪戯」の限りを尽くしたという。
子どもらしい悪戯の詳細は教えてもらえなかったが。
今回の来訪については、赤の皇太子が所用で
「王太子殿下のご学友とか。今回の来訪もたまたま立ち寄ったのだそうですね」
「そのように聞いております」
本当は、青の王国と赤の皇国とで姻戚関係を結ばんとする件について、である。
具体的には王女であるクリスティナが赤の皇国に輿入れし、第二王子のルイスが赤の皇国から妃を娶る、という内容についてだ。
だが、クリスティナから伝えられることなど何もない。
レイモンドの方も、王女から引き出せる何かがあるなど大して期待はしていないだろう。
余計な手出しはするなという、客人相手の念のため程度の牽制と、ついでに赤の皇太子について何か聞けたなら僥倖、といった程度がこの「お茶会」の目的だろう。
お茶が冷めてきた。そろそろ切り上げても良いかもしれない。
「噂でしか知りませんが、とても魅力的な方だと。特に、年若い女性にとって」
会話を自然に切り上げる隙を伺いつつ、レイモンドが垂れ流す話に適当な相槌を打つ。
「そうですか」
赤の皇太子には、まだ対面していないが人となりはフィニアスから聞かされている。
兄曰く「イイやつ」。
決してレイモンド・エンディには与えられない評価だろう。
婚姻話についても聞かされたが、今一つ実感を伴っていない。
それに、もし話が決まってしまえば、クリスティナの気持ちなど関係はないだろう。
国としての決定に、クリスティナは従うのみだ。
ただ、真っ先に考えたのが、レイモンドはクリスティナを惜しんでくれるだろうか、ということだった自分が少し惨めに思える。
「クリス」
密やかに、囁かれたそれに、自分の名に、不覚にも鼓動が跳ねた。
何でもないふりをして視線を僅かに上げる。
クリスティナを呼ばうその男が、甘やかに微笑む。
「貴女はいつも、私に気のないふりをしますね」
ふり、というその言葉に、歯噛みする。
テーブルを挟んで存在する二人、そのテーブルを挟んだ距離は、実際の二人の距離だ。
レイモンドは戯れに、時折クリスティナの手を握り、触れ、甘い言葉を囁く。
でも、それだけだ。
「そうでしょうか」
いつか結婚する間柄であったとしても、決して恋人同士でない。
レイモンドは優しいふりをして、甘いふりをする。
そして、その実たくさんの、クリスティナ以外の女と関係があることを、クリスティナは知っている。
誰かに触れたその手で、クリスティナに触れて、誰かに甘い睦言を囁いたその口で、クリスティナの名を呼ぶ。
「ですから、私はいつも考えているのです。どうしたら、貴女を繋ぎ止めておけるのか、と」
婚約が決まった当時、ほんの少しだけ浮かれていた小娘のクリスティナに向けられたのは、知らない女からの細やかな悪意だった。
「彼の相手は大変でしょう?」
扇で隠した口元が描いていた弧を、クリスティナは忘れていない。
余裕のあるふりをして、ただ微笑んで見せたのは、せめてもの矜持だった。
「お戯れを」
その他大勢の女たちと同列、いや、それ以下に扱われて、それでもいつか二人は結婚して妻と夫になる。
そうしたら、その時になれば、そう願うのは、願ってしまうのは、クリスティナが馬鹿だからだ。
定められた婚約。
王女である女を得るという行為。
レイモンドが望むのは、あくまで王国の王女。
レイモンドは折に触れて確認をする。
クリスティナの心がどこにあるのか。
他に向いてはいないか。
王女の心の在りかを。
その心を他の誰かに、くれてやるな、と。
それが、どのような気持ちからくるものであったとしても。
そこに、ほんの僅かでも、レイモンド自身の想いがあったらいいのに。
愚かにも、そうであって欲しいと思う自分はなんて馬鹿で、浅ましいのか。
それでもクリスティナは、己に課せられた役をこなす。レイモンドの望むようにする。
「私は、貴方のものです」
少なくとも、今は。
いつかのように、クリスティナは余裕のあるふりをして、ちゃんと、微笑んで見せた。
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