1-30 別れの挨拶(3)
翌朝になって、ブラウン伯爵家に起こった恐ろしい出来事、その噂話は瞬く間に広がり宮廷を席巻した。
ただ、ほぼ全ての事後処理は王太子の手により既に首尾良く終えられており、エイリア・ブラウン嬢とその父母は既に収監され、主だった使用人や親類縁者は見張り付きの謹慎、と云う名の軟禁状態にある。
罪状が決まるまで、何人たりとも会うことは許されない。
事態の処理に当たった第一騎士団には、王と王太子、二人の連名による厳しい箝口令が敷かれていた。
新たな火種を探しても無駄な状態である。
面白おかしく騒ぎ立てるにせよ、噂にそれ以上の面白みが追加されることはないはずだ。
発端となった渦中の第二王子、ルイスと話がしたい者達は多くいるだろうが、ルイスはとりあえず数日は表に出ないつもりでいる。
まあ、普通に仕事をしていれば執務室に籠るのはいつも通りだ。
籠る前に、ルイスは内宮の図書室へと向かっていた。サイラスは荷物を抱えているため、車椅子を押しているのは昨日から多忙を極めているフィニアスである。
できればこんなことより少しでも休んで欲しかったが「必要な事だし、お前もちゃんと知っておけ」と真剣に言われれば否とは言えない。
フィニアスとルイスが共に図書室へとやって来ると、目当ての人物はごく普通に読書に勤しんでいた。
「リラ」
フィニアスの声に顔を上げたリラは、しばらく茫洋と視線を彷徨わせた後、フィニアスとルイスを順番に見た。
金の双眸に白い直毛、白い神官服と同じぐらい白い肌には青い血管が浮いている。いつも通りの姿である。
胸に矢を受けたというリラは、気を失ったままレイモンドの屋敷へと運び込まれた。その頃にはもう矢は抜かれ、服の上から確認できるような外傷らしき外傷もなく、意識がないだけだった。
人外のリラを下手に医者に診せるわけにもいかず、とりあえずそっとしておくだけにして、ルイス達の帰城と共に城に運ばれた。
意識が戻ったのは今朝になってからだ。
目を覚ましてからは普段通り過ごしていたらしい。
朝食を食べた後、図書室に篭っている。どういう身体の造りになっているのか、とにかく今はなんでもない様子である。
リラは書架の前で、手に持った革の装丁の本を開いていた。机の上には読み終えたものなのか、大量の本が積み上がっている。
「一緒に昼でもどうだ。あんまり落ち着いて話もできてないしな」
フィニアスは親しげにそう言いながら、既に空いている机に腰かけようとしている。
リラはじっとフィニアスを見た。まったく感情の読めない視線である。開いていた本を閉じると、リラは無表情で頷いた。
「私も、話したいことがあります」
サイラスによって素早く本の山は片付けられ、食事の準備がされた。
テーブルには大量のパンと、茹で玉子、蒸し鶏のサラダとフルーツの盛り合わせが並べられた。パンは文字通り大量に、五人分ぐらいありそうだ。
テーブルに着いたリラは、ただ無表情にパンだけを黙々と食べ続けている。
「さて、リラ。具合はどうだ」
口いっぱいに詰め込んだパンを咀嚼しながら、リラはフィニアスを見た。
ともすれば儚げにも見える容貌だが、その食欲は儚げとは縁遠い様子である。
「問題ありません」
パンを飲み込んだリラは、淡々とそう答えた。
「矢を受けただろ」
「穴は既に塞がっています」
傷ではなく穴、という表現に、何やら薄ら寒いものを感じたが、ルイスはただ同席しているだけ。
自分の中でそう再確認して、サラダの葉野菜にフォークを刺した。
「そうか。だがな、そもそもなんで矢を受けたんだ?」
フィニアスの問いに、リラは首を傾げた。
ルイスも、内心で首を傾げた。
「矢を受けるのもそうだが、矢が刺さったぐらいで倒れるような可愛げなんて、お前達
言われたリラは、ゆっくりと瞬きをした。
「可愛げ」
「いや、気になるのはそこなのか」
ルイスは、これまでの諸々の会話、聞いた話、そういったものから人外であるということを呑み込もうとしていたに過ぎない。
しかし兄は、どうやらそうではないらしい。
このフィニアスとルイスとの差。それは経験で埋められるものだろうか。
フィニアスは溜息を吐いた。
「別に責めてるわけじゃないし、お前が何か企んでるとか、そういう事を考えてるわけじゃない。リラ、俺はお前を心配してるんだ。友よ、どこか具合が悪いとか、そういう事ではないのか」
リラは再び瞬きをした。不思議なものを見る様に、フィニアスを見ている。
フィニアスも真剣な顔をして、リラを見ていた。
心臓を射貫かれて、それでも生きている。
人間とは違う視点でものを見ている。
そんな得体の知れない人外を何のてらいも無く「友」と呼ぶ。
フィニアスのそれは、心からそう思ってのものだろう。フィニアスは、そういう人間だ。
リラは、手に持っていた食べかけのパンを皿の上に置いた。
「私はこれまでの全てを記憶していますが、特に、貴方が
リラは無表情に、思い出らしきものを語り出した。内容にそぐわない淡々とした語り口で。
「貴方と共にあることで、私はパンの味を知り、ワインの味を知りました」
皿の上に乗せられたたくさんのパンは、もしかしたらリラの好物なのだろうか。
「私は神の眷属、神の手足、その指先に過ぎない」
リラは、その人外の瞳、獣のような金の双眸でフィニアスを見ている。
それが、どこか温かいものであるように感じられた。その眼差しは、きっとフィニアスだけに向けられるものなのだろう。
「そんな私に僅かながら感情が芽生えたのは、私を友と呼ぶ貴方の存在あっての事です。この気持ちを、貴方がたは名残惜しいと呼ぶのでしょうか」
「リラ、それでは俺の質問に応えていない」
フィニアスの真剣な指摘を受けて、リラはほんの僅かに口元を歪めた。
「心配には及びません。私はもうかえります」
そう告げて、リラは窓の外に目を向けた。
大きな鳥が翼を広げている。空高く、青い空を横切るその姿に、リラは僅かに目を眇めた。
「その前に、色々と見ることができました。赤の皇国にも行ってみたかったけれど、十分です。明日にはここを出ます。これで、別れです」
静かに立ち上がったリラは、音もなく歩みフィニアスの前に立った。
まるで脳裏に焼き付けるようにじっくりと、その目はフィニアスを見下ろしている。
「海には近付かず、白の神殿にも近付かないでください」
その言葉は唐突だった。
「海には近付かず、白の神殿にも近付かないでください。絶対に」
しかしリラはまるで忠告であるかのように、訝しげに眉を顰めるフィニアスに、同じ言葉を繰り返した。言い聞かせるかのように。
見下ろされているフィニアスにも、真意は分からなかったらしい。だが、リラの纏う雰囲気は、それを問うことを許してはいない。
「何を」
「フィニアス・アジュール」
リラが誰かの名を呼ぶのを、ルイスはその時初めて聞いた。
フィニアスの頭に、リラの両の手が添えられる。
それはまるで、神聖な儀式の様に見えた。
祝福を与えるかの如く厳かに、フィニアスの額にリラはそっと口付けた。
「どうか元気で……友よ」
リラはそうして、口の両端を不器用に釣り上げた。
されるがままにされていたフィニアスが目を見開く。
その表情から察するに、それは珍しい事、あるいは、初めて見るものだったのかもしれない。
フィニアスに向けられたその表情はとても不格好な、しかし間違いなく、笑顔だった。
そうしてそれが、別れの挨拶となった。
翌朝には、リラの姿はどこいもなかった。誰に告げることもなくただ一人、リラは姿を消していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます