1-31 王女の望み(1)

【side princess】


 ふとクリスティナが目を覚ますと、辺りが薄暗くかった。座ったまま寝てしまったらしい。

 辺りを見回すと、見慣れた自分の部屋ではない。

 クリスティナの座る椅子は、ベッドの脇に添えてある。そのベッドに横たわっている人物を認めたクリスティナは、はっとして立ち上がった。


 いつの間にか掛けられていたブランケットがずり落ちる。それに構わずベッドに近付くと、クリスティナは、そこで目を瞑っているレイモンドの顔に手を翳した。

 僅かにかかる息に安堵する。大丈夫、ちゃんと生きている。


 レイモンドは丸一日目を覚ましていない。

 医師は命に別状はないと言っていた。それなのに、目を覚まさない。レイモンドの執事は、日頃の疲れもあるのだろう、と言っていた。


 それらを理解したつもりでも、悪い想像ばかりしてしまう。

 あの時、背に回した指先に触れた、血の感触がまだ残っている。


 レイモンドの屋敷、その私室に足を踏み入れたのは初めてである。でも今は、そんな事はどうでもよかった。


 いつもきっちりと整えられていた金髪が、枕に落ちている。

 同じ色の睫毛に縁取られた紺碧の瞳が、今は見えない。

 ブランケットの上に投げ出された指は、手袋で覆われていない。

 いつも取り澄ました様子の、そんなレイモンドしかクリスティナは知らない。こんな無防備なレイモンドは知らない。


 気が付けば、クリスティナはベッドの脇に座り込んでいた。

 目を瞑れば、あの時のことばかり思い出す。自分を庇ったレイモンドの、揺れる身体と、指先を濡らす血液。


 名を呼んで欲しい。こちらを見て欲しい。


 目を開いたそこには、理想を裏切る現実が横たわっている。

 目を覚まさない、目の前にあるそのレイモンドの手が動かない。シーツにもたれたクリスティナに、触れる者がいない。名を呼んで、笑って欲しい。


「そんな調子では姫の方が先に参ってしまうぞ」


 かけられた声に驚いて、肩を大きく揺らしてしまった。後ろめたさなどないはずなのに、レイモンドの指先に触れようとしていた手を握り込む。


 いつの間にか部屋の中にアシュリーが立っていた。アシュリーが持ってきた灯によって、部屋がほんのりと明るくなっている。


 傍らに立ったアシュリーが、クリスティナを見下ろしている。茫洋と見上げるクリスティナを見て、アシュリーは溜息をついた。


「酷い顔だな」


 苦笑して伸ばされた手が、クリスティナの頬を拭った。いつの間にか涙が流れていたらしい。

 すぐ近く、クリスティナと同じように床に腰を下ろしたアシュリーが、クリスティナを抱き寄せた。

 顔を胸元に押し付けられて、慌てて抵抗するが、びくともしない。


「いいから。そういう時は全部出し切った方がいい。誓っておかしなことはしない。兄の代わりだ。甘えておけ」


 その言葉は、面白がる風でもなんでもない。

 抵抗を止めたクリスティナは、されるがまま、背中を撫でられた。服に香を焚きしめているらしく、どこか不思議で甘い香りがする。


「命に別状はないと医者が言ってたろう。そんなに心配せずともじきに目を覚ます」


 頭上から聞こえるその声は、クリスティナに言い聞かせるように穏やかなものだ。


 分かっている。大丈夫だと、皆が口を揃えた。

 分かっているのだ。それなのに、不安で仕方ない。押し潰されそうな不安が何よりも大きくて、身動きができない。


「……っ」


 その時、僅かな呻き声を聞いた気がして、クリスティナはアシュリーから自分の身体を引き剝がした。勢い込んでベッドのレイモンドを覗き込むと、苦し気に歪めた顔、薄く開いた瞼の間から、紺碧の瞳が見えた。


「レイ!」


 クリスティナの呼び掛けに、目の焦点が合う。ぼんやりと彷徨った視線が、クリスティナを認めた瞬間、大きく見開かれた。


「なん、クっ……っつ!」


 がばりと身体を起こしたと同時に、レイモンドが痛みに呻いた。


「レイ!」


 慌てて背中に沿わそうとした手を、クリスティナはぎりぎりで留めた。傷は背中だ。行き場を失った手を空中で握って、下ろした。


「……すごく痛い」


 背中を丸めてそう零したレイモンドは、呟くようにこぼして、ベッドのサイドの水差しを指さした。


「水を……」


 レイモンドの要望に、クリスティナは大きく頷いた。ベッドサイドの水差しから、添えてあったグラスに水を注ぐ。

 そうしている間に、レイモンドの凄く不本意そうな声が聞こえてきた。


「……何故、皇太子殿下がここに」


 いつの間にか、先程までクリスティナが座って寝ていた椅子にアシュリーが深く腰掛けている。脚を組み、肘をついた姿は部屋の主かと疑う程非常に堂々としている。


「見舞いだ見舞い。決まってるだろ」


「……それは、ご丁寧に」


 クリスティナからグラスを受け取ったレイモンドは、日頃ではあまり見せないやや雑な反応をして、水を飲み干した。


「私は、どれくらい寝ていましたか」


「丸一日」


 クリスティナの答えに、レイモンドは額を手で覆う。冷静さを取り戻すように一呼吸置いた後に挙げた顔、その表情はいつも通り、取り澄ました慇懃さによって覆い隠されていた。


「その分だと問題なさそうだな」


 一連のレイモンドの動作を眺めたアシュリーはそう言って立ち上がると、クリスティナを見た。


「私は城に戻る。姫もそろそろ戻った方がいいんじゃないか?」


 言われて、クリスティナはレイモンドを見た。

 多少顔色は悪いが、意識ははっきりしている。医師の見立て通りならもう問題は無いだろう。


 動揺して混乱しているうちにここで一晩を過ごしてしまった。あまり褒められた行為とは言えない上に、今朝から今日一日はアシュリーも付き合わせてしまったようだ。そろそろというより、本当は一刻も早く城へ戻るべきだろう。


 それに、このままここに居ても、クリスティナに出来ることはない。


「私も戻ります」


 そう宣言したところで、レイモンドの手がふんわりとクリスティナの腕を掴んだ。

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