1-27 守られるべき者(2)

 リラは無表情に自分の胸元を見た。その表情には少しの変化も無い。


 そして、無造作に自身に深く突き刺さる矢を引き抜いた。


 止める隙もなく行われたそれに、クリスティナは表情を凍り付かせた。

 アシュリーも似たような表情を浮かべている。


 しかしリラは、痛みに呻くでも表情を歪めるでも無い。

 真白なローブの胸元に、血液を水で薄めたような、桃色の染みが僅かに拡がった。


「……リラ?」


 アシュリーの問いかけに、リラは首を傾げた。

 矢を投げ捨てたその手を、開いて、閉じて、その目を自分を貫いた矢が飛んできた方へ向ける。

 陽に照らされる明るさの中で、金色の双眸が、暗闇で光る獣のように煌めいた。


「射手は誰かが、仕留めたようです」


 クリスティナが躊躇いながらも伝えると、リラは無感動に頷いた。


 人間なら、多分もう死んでいる。

 そんな怪我を負っているはずのリラは、なんでもない風にアシュリーを見た。


「問題ありません」


 そう告げて、リラは歩き出す。

 しかし二歩ばかりを進んだところで、その身体は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。


「リラ!」


 アシュリーは駆け寄ると、塀の影にリラの身体を引き摺った。無いよりましという程度の遮蔽物ではあるが致し方ない。


 神官服の胸元を寛げ傷を確認しようとしたアシュリーのその手を、リラの手が止めた。

 その瞼は平時と同じように開かれている。起き上がることはしない。ただ倒れたその姿だけが異質なことであるとでも言うように。


「問題ありません」


「倒れた奴が言うことか!」


 発する声すらも平時と何ら変わらない。

 その声に、アシュリーが大声は控えながらも怒鳴り返した。


「良いから傷を見せろ」


「何のために」


「放っておくか治療をするか墓穴を掘るか決めるためだ!」


「では、放っておいて問題ないかと」


 リラの返答に、アシュリーが不愉快そうに顔を顰めた。


「私は白徒はくとです。人間ではありません」


 リラを見下ろすアシュリーを、見上げる眼差しはいつもと同じ。

 そこには嘘も忖度も感じさせない凪いだ瞳がある。


「治療の必要はありません。墓穴も、必要ありません」


 アシュリーは、一旦大きく息を吐いた。


「……わかった」


「ただ少し、休息が必要なようです」


 リラはそう言うと、目を瞑った。


「それと、片が、ついたようです」


 最後にそう付け加えて、今度こそリラは口を噤んだ。

 寝息は聞こえない。呼吸による胸の動きも見えない。まるで死んでしまったかのような様子に不安になる。

 アシュリーが、リラのその口元に手を翳して息を吐いた。


「一応、息はしている」


 クリスティナとアシュリーが揃って安堵の息を吐いたタイミングで、門扉から人影が覗いた。


「お二人とも、無事なようですね」


 そう言いながら近付いてきたのは、レイモンド・エンディである。背に矢筒を背負い、手には弓を持っている。


「たまたま巻き込まれました。しかし、お役には立てたかと」


 そう言って、弓を示す。先ほど射手を仕留めたのはレイモンドだったらしい。

 そういえば、レイモンドの屋敷はここからそう離れていない。


「状況は」


「あちらは一応皆様御無事です。制圧済みと言えるかと。敵方の中に存命の者もおりますので縛り上げているところです」


 アシュリーの質問に、レイモンドが淀みなく答え、地面に転がっているリラを見た。


「そちらの方は?」


「あー……、一応無事だ」


 さすがに気にはなるだろうが、答えにくい質問である。アシュリーは至極面倒臭そうに答えた。

 そう言われてすんなりと納得できるものでもないだろう。レイモンドは訝し気に眉を顰め、次にクリスティナを見た。

 が、そんな目で見られても困る。


「気にしないで大丈夫です。問題ありません」


 クリスティナに言えることはそれだけだ。

 胸元に桃色の染みがある昏倒した異形の人外である。白徒はくととかどうとか、そんな説明を今ここでする気にもなれない。


 その答えで、とりあえず突っ込むだけ無駄だということは察したらしい。それ以上の追及をレイモンドは一旦止めた。


「わかりました。とりあえず当家へいらして下さい。馬を逃がしてしまいましたので。王子殿下には既に向かっていただいています」


 レイモンドの言葉に、アシュリーは鷹揚に頷いた。


「助かる」


「そちらの方も、運んで問題ありませんか?」


「いや、俺が運ぶ」


「かしこまりました」


 短いやり取りの後、アシュリーがリラを抱えて歩き出した。


 レイモンドは、ちょうど足元に落ちていた、ナディラが投げ捨てて行ったマントを拾い上げ、アシュリーの背を追いかけようとしていたクリスティナをじっと見てくる。


「帽子か何か、被っていましたか?」


「え」


 言われて頭に手をやると、いつの間にか被っていない。

 辺りを見回すが見当たらない。どこか茂みにでも紛れてしまったらしい。


 クリスティナの様子からそれを察したらしいレイモンドが近付いてきた。

 正面に立ち、ナディラのマントを広げる。


「失礼」


 丁寧な手つきでクリスティナにマントを羽織らせたレイモンドは、さらにフードを頭に被せるとさっさと踵を返した。


「その髪は目立ちますから」


 言っていることは至極まっとうなことで、マントを羽織らせる手付きも丁寧で、おかしなところは少しも無い。

 それなのに、少し物足りないと思ってしまうのは、ただの我儘だろうか。






 馬車の前には、縛り上げられ街路樹に纏めて括り付けられている三人の人間と、その纏めたロープをきつく縛っているナディラの姿があった。

 ナディラは多少の擦り傷や切り傷があるようだが、ほぼ無傷に見えた。

 縛られた三人の具合は分からないが、とりあえず命はあるのだと思う。頭から布を被せられぐったりと項垂れている。


 その近くには血痕と、倒れたまま動かくなった遺体が二人分、転がっていた。

 五人とも、見えている部分の肌は褐色、赤の皇国出身の者達なのだと思う。恐らく、菓子店近くの広場で芸を披露していた者達であろう。


 馬車に人影はなく、レイモンドの言っていた通りルイスの姿もない。

 ルイスを連れて、サイラスと多分ハリルも先行してレイモンドの屋敷に向かっているのだろう。


「ご苦労」


 ナディラはアシュリーを見かけると幾らか安堵した様子を見せた。アシュリーの労いの言葉に頷いて、近付いてくる。


「殿下は本当に、怪我はございませんか」


 いつの間にか、すぐ隣に立っていたレイモンドが、クリスティナをじっと見降ろしていた。

 見上げるその表情にいつもの甘やかさはなく、真剣であるように見える。


 その雰囲気に飲まれ、戸惑いがちに首を振るが、レイモンドはしつこく食い下がってきた。


「本当に? 擦り傷一つ? やせ我慢はしていませんか?」


「無傷です」


 一言そう返すと、レイモンドはしばらく無反応にクリスティナを見下ろした後、顔を背けて溜息を吐いた。


「そうですか」


 心配を、されていたらしい。多分、これはそういうことなのだと思う。


 今更ながら、そういえば顔を合わせるのはあの昼餉以来だな、などと思い出した。

 連鎖的に、気まずい態度を取ってしまったこととか、悩んでいたこととか、色々なことが思い出された。

 しかし不思議と、あれだけグズグズと考えていた全てのことが、どうでも良いことのように思われた。


「レイ」


 その声に、レイモンドがクリスティナを見た。少し、驚いたような顔をして。


「ありがとう」


 ごく自然に、笑えた気がする。

 何かを言いかけたレイモンドが、クリスティナから僅かに視線をずらし、目を見開いた。


 レイモンドの腕がクリスティナの肩を抱き込んで、その胸元に押し付けられる。

 身体を入れ替える様な動きがあった気がした。


 流れるような光景の中、レイモンドの体越しに、焦ったようにナディラが動くのが見える。見えたのは、懐から取り出した何かを投げようと腕を振るところまで。


 クリスティナを抱えるレイモンドの身体が震える様に大きく揺れた。


「ぐっ……」


 先程まで死体だったはずの一人が、苦悶の声を上げて倒れた。

 背にはナディラが投げたナイフが刺さっている。


「……怪我は」


 レイモンドの吐息交じりの声が、耳元で囁いた。

 クリスティナに回された両腕が、きつくなる。抱き締めるみたいに。


「レイ?」


「怪我は、ない……です……か」


 レイモンドの背中に回した手に、その指先に、何か温かい湿ったものが付いた。


 もたれる様に圧し掛かってくるレイモンドの身体の、その重さに耐えきれなくて尻餅をついた。


 レイモンドの腕が力なく垂れ下がり、その身体が、クリスティナの膝の上に崩れ落ちてくる。


 誰かが、何事かを叫んでいる気がする。でも、何も分からない。理解が追い付かない。

 レイモンドの背に、何故か、ナイフが刺さっているのが見えた。

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