1-26 守られるべき者(1)

【side princess】


 クリスティナたちが剣戟を聴いたのは、今まさに屋敷を訪ねようと門扉をくぐり建物の入り口前まで来たところだった。


 屋敷の周りは高い塀に囲われており、外の様子は伺えない。そこそこの広さを持つ敷地は、門扉から玄関までの距離もある。

 正面に止めることを避け少し離れた位置に止めた馬車の方から、剣を打ち合う音と共に、甲高い笛の音が響く。


 音がしたと同時にどこからか飛び出してきた、いつもとは違う生成りのマントを被ったナディラが、アシュリーの前に立った。手には抜身の細剣を構えている。


 付近に異常は無い。

 一拍を置いて、ナディラがアシュリーを視線だけで伺った。


「行け」


 主人のそのたった一言、その声と同時に、ナディラは信じられない程の速度で駆けて行く。

 門扉ではなく塀に駆け寄ったナディラは、速度を一切緩めることなく懐から取り出した何かを用い、高い塀を駆け上がるようにして越えて行った。

 その後には、投げ捨てられたマントがゆっくりと落ちる。


 とりあえず、アシュリーとリラと共に、クリスティナは建物の影に身を置いた。

 いつでも抜けるよう剣の柄を握り込む。

 周囲に襲撃者らしき気配はない。


 玄関から住人が様子を伺いに出て来ないかと心配になるが、その時はその時である。今のところ、見える範囲の窓には全てカーテンがかけられており、中の様子は伺えない。

 出てくる様子は感じられないが、人の気配はあるように思う。


「……ハリルか」


 アシュリーの不満げな呟きは独り言だろう。油断なく辺りを伺いながらそう零した。普段に比べ、漂う気配はいくらか険しい。


 アシュリーは自分が狙われていると思っていたのだろう。皇太子として立っている以上、敵意には事欠かない。


 一応ハリルもナディラも皇族であるなら、狙われる可能性はある。生きて存在しているだけで誰かの害悪となるのが王族、皇族というものだ。

 皇族であること公にはしていないらしいが、秘匿された情報というものは、何故かどこかから漏れ出してしまう。

 アシュリーとて、ハリルが狙われる可能性をまったく考慮していなかったわけではないだろう。ただ、可能性は低いと考えていたのかもしれない。


 先程の剣戟は、気のせいではない。アシュリーとナディラの反応を見るに、笛の音は襲撃を知らせる合図。


 事実関係の明らかになっていない段階で迂闊な言動は控えるべきだが、もしかするとクリスティナとルイスは巻き込まれた、と言えるのではないだろうか。


 ルイスの安否が気になる。今すぐにでも駆けて行きたいが堪えなければならない。

 ルイスの傍にはサイラスがいる。サイラスがいればルイスは安全だろう。大丈夫、そう自分に言い聞かせる。


 ふと気付けば、アシュリーがどこか感心したような、物珍しいものを見るような目で、クリスティナを見下ろしていた。


「何か?」


「いや、貴女は飛び出して行かないか、と」


 アシュリーのその言葉に、クリスティナは顔を顰めた。

 はっきりと、不愉快が表情に出た。


 アシュリーは片手で口元を隠していて伺えないが、その目は注意深く、探るようにクリスティナを見下ろしている。


「失礼した。そういう顔もできるんだな」


 試したとでも言いたげな言葉に、腹立たしさが募った。


 クリスティナは剣を佩いている。

 躊躇なく抜く事ができるし、必要なら人を斬ることも厭わない。フィニアス程でなくても、それなりに腕は磨いてきた。


 でも、クリスティナは守られる側の人間である。いかに腕を磨こうとも、変えられない事実だ。

 守り手には、決してなれない。

 その程度は理解している。クリスティナの剣は、可能な限り飾りでなければならない。


「貴方も、同じでは?」


 取り繕うことを止めたクリスティナが無表情で問うと、アシュリーは一瞬虚をつかれたような顔をした。


 クリスティナを、取り澄ますか惑うかの人形のようにでも思っていたのだろうか。

 言い返されたぐらいで驚くということは。


「飛び出していきたいのは、貴方も同じでしょう」


 クリスティナもアシュリーも、王の子として生まれた。王家に生まれてしまったのだ。守られるべき者として。


 守られなければならない。

 権力の前で、命は決して平等ではない。王族の安全のため、差し出される命がある。

 それを理解して、許容しなければならない。それを理解して、ようやく剣を持つことを許されている。


 アシュリーとて同じだろう。ましてや彼が従えているのは血を分けた弟妹。

 その二人は進んで危険の中へ飛び込んで行くのだ。アシュリーのために。


 例え自分のために損なわれるものがあっても、それを恨んではならない。嘆いてはならない。

 よくやったと、褒め称えねばならない。


 アシュリーは、王足り得る人物だと、クリスティナは思う。

 清濁を併せ吞み、底の知れぬ度量の深さも感じる。多くの者達の上に立てる。王として、在ることが出来る人だ。


 でもきっと、一人の人間としての優しさも十分備えている。


「私を侮っていたことは許してあげます。だから、そんな顔は止めてください」


 その顔は、すぐにでも駆け付けたい、と言っている。

 この人の腰の剣もクリスティナと同じだ。ただの装飾でありながら、そうではない。


 クリスティナの言葉の途中で、アシュリーは目元を掌で覆って隠した。

 一瞬過った感情は、クリスティナの気のせい、そういうことにしておこう。


「まったく、嫌な姫様だな」


「お互い様でしょう」


 アシュリーは口元だけを歪めて笑った。

 そして、いつもフィニアスがやるように、クリスティナの頭をわしわしと乱暴に撫でた。


 乱れた帽子を押さえ睨み上げると、そこにあるのはもう、いつもの自信に満ち溢れた赤の皇太子の顔である。


 本当に、嫌な人だ。嫌な距離の詰め方をしてくる。


「しかし、この俺を差し置いて、ハリルを狙うとはどういう了見なんだ」


 そう言って、いつの間にか傍らにしゃがみこんでいたリラを見る。深呼吸して、切り替えたクリスティナもリラを見た。

 視線に気付いたリラが、顔を上げる。

 リラのその指は、何故か地面を這っている蚯蚓みみずをつついていた。


「狙われたいのですか?」


 緊迫感が欠如したリラの様子だが、アシュリーは気にならないらしい。ある程度同じ時間を過ごせば慣れるのだろうか。


「標的は絞られてた方がやりやすいだろ。リラ、戦況は分かるか」


 迷いのないアシュリーの問いを受けて、リラは先ほどナディラが走り去った方向に顔を向けた。

 ルイスの乗った馬車が止まっている方。

 壁に阻まれここからは見えないが、時折何かしらの物音は聴こえる。


「もうすぐ片が付きそうです」


 何が見えて、何が聴こえ、どう判断してリラがそう言っているのか分からないが、クリスティナには何も見えないし聴こえない。やっぱり少しだけ、リラが怖い。

 でもこの恐怖心は、きっと無知から来るものだ。


「貴方がたのご兄弟は無事のようです。私も行きますか?」


「いや、それだとこちらが手薄になる。万一があるだろ」


 言われたリラは、さほど興味がなさそうに再び地面に視線を移動させた。今度は蟻が気になるらしい。

 地面に触れている真っ白な神官服の裾が汚れているが、良いのだろうか。


 その、一瞬後である。


 しゃがみこんでいたリラが、嘘のような機敏さで動いた。


 立ち上がりざまに頭上を振り仰ぐと同時、右手がアシュリーのマントを乱暴に掴んでその身体を引き倒し、それとほぼ同時に左手が飛んできた矢を掴む。


「あ」


 リラの、場にそぐわない間の抜けた声が聞こえた。


 クリスティナは、剣の柄を掴んで半ばまで抜いたところ。アシュリーも、腰の剣を半ばまで抜きつつ、体勢を立て直そうとした。

 その目が、リラを見て大きく見開かれた。


 リラのその胸元に矢が一本、深々と突き刺さっている。

 矢を胸に受けたリラの身体が、ふらりと揺れた。


「リラ!」


 アシュリーは声を上げながらも、駆け寄ることはせずその場で剣を抜いた。その視線は頭上にある。

 クリスティナも腰の剣を抜き、矢を飛んできた方角を確認した。


 離れた位置の屋根の上、光る物が見える。恐らく矢尻、二射目が来る。


 飛び道具もなしに射手をどうにかすることはできない。クリスティナだけなら遮蔽物の陰に駆け込める。

 けれどその場合、リラが限りなく危険だ。

 アシュリーもその場から動くつもりはないらしい。


 覚悟を決めて、クリスティナは剣を強く握り直した。


 しかし、その時塀の向こうから飛んで行った矢が射手を捉えた。

 屋根から崩れ落ちる射手を見て、とりあえず詰めていた息を吐き出す。


 ほっとして、周囲を警戒しながら、リラを見た。


 胸に矢を受けたリラは、ふらりと身体を揺らしはしたけれど、それでも両の脚で立っていた。

 助かったかと思えたのは一瞬で、クリスティナは喉の奥で呻いた。


 その矢は左胸、間違いなくリラの心臓部に深く突き刺さっていた。

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