1-24 皇女と甘い菓子(2)

「失礼な事とは?」


 ルイスの応えに、ハリルがぐっと言葉に詰まる。


「……以前、その、昼に」


「ええ、もちろんそれは覚えておりますよ」


 忘れていない。一言一句違えずに覚えているという自信がある。


「あれの、どの辺りのお話のことでしょうか?」


 しょんぼりと肩を落としたハリルは、ルイスが怒っているとでも思ったのかもしれない。

 別に怒ってはいない。

 自尊心は多少傷付いたのかもしれないが、無視できる程度だ。


 恐らく、赤の皇太子か双子の弟かに怒られたか諭されでもしたのだろう。

 しかしあれがハリルの正直な気持ちなのであれば、謝られたところでどうしようもない。むしろ諭されたがゆえに謝られているとしたなら、失礼の上塗りである。


「謝罪は受け入れましょう。しかし、私は別に怒っていませんので、気にされなくて結構です」


 気にしなくていい。ルイスも、気にしない。

 気にしてもしなくても、望まなくても、愛などなくても、ハリルは第二王子妃になる。


 それに、ルイスもひとつ、反応を誤った部分がある。


 優しく微笑んでやれば、ハリルは明らかに安堵した様子を見せた。

 馬鹿な娘だ。

 あの言葉を撤回して寵愛を請うのか、もしそう問うたら、ハリルはどんな顔をするだろうか。


 しかしそうはせず、ルイスはハリルに甘い菓子を勧め、ハリルは戸惑いがちに素手の指でバターケーキをそっとつまみ上げた。


「ありがたく、頂戴いたします」


 持っている物はただの焼き菓子で、しかしそれにそぐわない丁寧さでハリルは恭しく頭を下げ、ルイスは用意されていたお茶を飲みながら、なんとなくそれを眺めた。


 ハリルがケーキを口に運ぶ。

 一口齧って、味わって、そして、ほんの少し、ハリルの目元が緩んだ。そんな気がした。

 本当に少しだけ、錯覚かと見紛う程の僅かな変化、だがそれは、ルイスが初めて見る、ハリルのプラスに転じた感情の変化である。


 ハリルの表情と言えばその殆どが無表情で、そうでなければ動揺して、泣きそうな顔。そんな顔しか見ていない。

 笑うとかわいい、そんなアシュリーの言葉が何故か思い出された。


 ハリルがあっさりと一切れを食べ終えたところで、自分がハリルを注視していたことに気付いた。カップを持つ手が止まっている。

 なんとなく目が離せない気がした、のかもしれない。他意は無い。


 僅かに顔を上げたハリルもまた、ルイスに見られていたという事実に気づいたらしく、静かに慌てている。所在無さげに視線を泳がせ、身を縮こませたハリルに、なんとなく申し訳ない気持ちになった。


「もう一切れください」


 別に照れ隠しというわけでは断じて無い。

 ルイスの要求に、ハリルは恭しくバターケーキをもう一切れルイスの手に乗せた。


 ハリルのその手は、武器を取るにしては小さくて頼りない。

 身体の線は見えないが、ローブから覗く腕も細いように思える。

 もう少し、食べさせた方が良い気がする。嬉しそうに、食べるし。いや、そんな気がするだけかもしれないが。


「貴女も」


 そう付け加えると、ハリルは従順に頷いた。


「はい」


 僅かだが嬉しそうに見えたのは、気のせいかもしれない。

 でも、そうではないかもしれない。






 ハリルが馬車から出て行って直ぐに、菓子店から一行が戻ってきた。

 戻ったクリスティナも、先程と同じくやはり様子がおかしくて、アシュリーの方はやはり楽しげである。


 そのアシュリーは、馬車に乗り込む手前でふと足を止めて広場の方を見た。

 広場では、旅芸人がまだ音楽を奏でている。人形劇は終わったらしく音楽だけだ。

 その時になってルイスは、旅芸人の幾人かが褐色の肌をしていることに気付いた。耳慣れない音楽は、赤の皇国由来のものだったのかもしれない。


 アシュリーは直ぐに正面に向き直り、店に入る前と同じくクリスティナの正面に座った。

 程なくして馬車が再びゆっくりと動き出す。


「すまんな」


 アシュリーが呟いたそれは、クリスティナとルイスに向けられたものだろう。






 件の研究書、その著者の住まいは貴族の屋敷が並ぶ区画に在った。

 そもそも研究というものはある程度資金が必要である。

 例えば貴族の家系で長子以降に生まれた者が何らかの研究に心血を注いでいる、というのはよくあるパターンだ。この場合は貴族の屋敷に居を構えていることが多い。


 もしくはその志を支持する貴族がパトロンとして資金援助している場合もある。

 パトロンが商人の場合もあるだろうが、商売人というのは金にシビアである。志を支持する程度で金を出すことは考えにくい。


 件の研究者、ニコラス・ガルはどうやら伯爵家に連なる者らしい。とはいえ本人に爵位及び継承権はなく、噂によると両親亡き後譲り受けた王都の屋敷で遺産を食い潰している状態、とのことだ。

 爵位を有する兄がいるという話なので、多少の援助もあるのかもしれない。


 貴族の屋敷が並ぶ区画は基本閑静であるが、この辺りはとりわけ静かで人の気配が無い。

 そのガルの屋敷の近く、門扉からは少し離れた通りで、クリスティナとアシュリー、そしてリラは馬車を降りた。

 見慣れぬ大きな馬車が屋敷の前に止まれば、不必要な警戒心を抱かせるかもしれない。


 目的は、どういった経緯で内宮の図書室に研究書が入り込んだのか、様子を伺った上でのあくまで穏便な聞き取りである。

 面白がっている節のあるアシュリーと、ただ興味があるらしいリラは、何かしら研究者と言葉を交わしたいのだろう。

 立場その他諸々を弁えていてくれれば特に問題は無い。問題があれば同行したクリスティナがどうにかするはずだ。


 騎士の扮装をしたクリスティナが先頭を歩き、頭からフードを被ったアシュリーとリラがそれに続く。

 騎士に連れられた研究者という体を狙ってのことだが、辺りに人気が無いことが幸いした。やはりアシュリーとリラの格好が無駄に怪しい。


 アシュリーの堂々とした様が、フードを被った程度では誤魔化せていない、というのもある。

 顔を隠したい研究者というより、身分を詐称する皇族、または武人がいいところだ。


 クリスティナが佩く剣は、扮装目的とはいえそれなりの実用性も持ち合わせている。

 アシュリーも腰に剣を佩いてはいるが、華やかな装飾具にも見えるあれはどの程度実用性を期待できるのだろうか。実用目的があったとしても皇太子が剣を抜くという事態は、かなり切迫した事態であるが。

 あくまで最終手段だ。あの皇太子は、あれでいてそれなりに思慮深さを備えているように思える。


 ふと、やや離れた位置の建物の陰に、生成りの布の塊が見えた。

 すぐに引っ込んだがあれはハリルだろうか。ナディラかもしれないが、どちらにせよ主人であるアシュリー同様に怪しい。


 ナディラはもちろんだが、怪我の後遺症を負っているというハリルも、今現在は護衛としてそこにいる。そうしている以上、ある程度は役に立つのだろう。


 城を出る前のやり取りを思い返す。

 こんな二国の主要人物が集まって出かけるならば、一個小隊の護衛ぐらいは付けてもらわねば、と主張したルイスを前にして、フィニアスは何故かリラを見た。

 「適当に護衛もしてくれるか」と、雑極まりない事を口にしたフィニアスに、リラは少しだけ考える素振りを見せてから頷いた。


 フィニアスとさらにアシュリーが言うには、「リラさえいれば何の問題も無い」との事である。

 白徒として、何らかの能力を有しているということなのかもしれない。


 実際のところ、リラの働きに期待しても本当に問題ないのか、ルイスとしては懐疑的である。

 フィニアスとアシュリーがあれだけ言うからには期待しても問題ないのだろうが、ルイスの中の常識が邪魔をしている。


「ルイス殿下」


 その時、馬車の外から掛けられた聞き覚えのある声に、ルイスは思わず渋面をつくった。

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