1、王家の婚姻
1-01 王女の婚約者
【side princess】
大陸の北西に、大海と険しい山々とに囲まれている王国がある。
掲げる紋章は、勇壮さを示す銀翼の鷲と、奇蹟を願う青い薔薇。
大陸に二つある国の一つ、青の王国である。
現在の青の国王は、初代から数えて六十一代目。
その国王の元、王国は、建国から続くその歴史からは信じがたいほどの平和を享受していた。
特に六十年前に起こった悲劇、時の国王の急逝と、それに続く王位争い、そして運悪く重なった自然災害に端を発する飢饉で王国は荒れに荒れた。
只中で辛酸を舐めた者の中には未だ存命の者も少なからずいる。
民の多くが貧困に喘ぎ、困窮は民の上位に位置する貴族にまで及んだ。
少なくはない民が命を落とし、大樹の枝葉の如く存在していた王族は、その殆どが謎の死か謎ではない死を遂げた。
その混乱の中、ただ一人の王族となった年若い娘は民のために心を砕き、寄り添い、その辣腕により王国を蘇らせ、奇跡の女王となったのである。
女王の一人息子に受け継がれた王国は、今この瞬間も平和そのものであった。
◇◇◇
「クリスティナ殿下」
蜜の様に甘い声で呼ばれて、クリスティナは三歩を進んだ後にその歩みを止めた。
無視したい気持ちはあったが、それは稚拙な行為と受け取られるだろう。
この場はあまりにも人目が多い。
国王の居城でもある城、その外宮の大回廊は、職務中の文官が足早に行き交い、警備に当たる武官が目を光らせ、情報交換に余念のない人々の社交の場にもなっている。
クリスティナは、その姿を認め恭しく首を垂れる人々に鷹揚に、かつ淑女らしい控えめな微笑と共に時折目礼を返しながら侍女を伴い歩いていた。とても王女らしく。
身に纏うドレスは灰緑色。落ち着いた色味だが、流行を取り入れた多少可愛らしくもあるデザインである。
落ち着き過ぎることを避け、華美になり過ぎず、上品に綺麗にまとまっている。
ふんわりと広がったドレスの裾から覗く靴は揃いの意匠。
手袋と白金の髪を結い上げるリボンは黒いレース。
結い上げた髪を一筋だけ垂らし、控えめに化粧を施した顔は、誰もが美しいと評する王国の至宝である。
己の姿をそう評したクリスティナは、王女らしく、誇り高く、しかし控えめでかつ年相応の可憐さを併せ持つ微笑みで振り返った。
誰もが恋するような完璧な微笑みであると自負する、とっておきの顔で。
白金の睫毛に縁取られた紫紺の瞳、その神秘的と称される瞳に映ったのは、予想通りの男の姿。
振り返り、王女を呼び止めたその男の姿を視認し、更に恥じらう要素を追加した。
たまたま近い距離にいただけの文官がクリスティナのその表情に、照れるように顔を赤らめた。
一切の隙無く、完璧な振る舞いができた。
「ごきげんよう。エンディ殿」
「お会いできて光栄です。殿下」
一方で、可憐な王女から目礼以上の挨拶をされた男は、涼しい顔で近付いて来て、恭しくクリスティナの手を取った。
如何にもといった風情の貴公子は、黒い三つ揃えに白いシャツを合わせた一見簡素な装いである。
しかしその一見簡素な装いが、華やかな容姿を見事なバランスで引き立てている。
胸元に花を飾っている辺り、とても洒落ている。
そして簡素な装いに見える衣装も、よくよく見れば凝った意匠の仕立ての好いものを、一部の隙も無く着こなしていたりするわけで、どこからどのような目で見ても、センスも資財も美貌も兼ね備えた未来ある貴族の若者である。
黒いコートの裾と袖には灰緑色の糸で細かい刺繍が施され、ウエストコートは全面に同じ意匠の刺繍が入っている。
後ろに撫でつけた髪を括る天鵞絨のリボン、胸元に刺した薔薇の花が深い赤でその装いに彩を添えている。
その赤い色除けば、まるでクリスティナのドレスと揃いで誂えたように見える。
クリスティナ本人でさえ「あれ? 一緒に仕立てましたっけ?」と一瞬思う程度にはお揃いじみている。
しかし、そんな記憶は実在していない。
王女の装いを知るために、今度はどの侍女を誑し込んだのか。
そのセンスも資財も美貌も兼ね備えた未来ある貴族の若者、レイモンド・エンディは、侯爵家に所縁ある伯爵家の出であり、血筋すらも申し分なく、王女と揃いの衣装を着ても許される「婚約者」という立場でもある。
勝手にお揃いにされているだけで、クリスティナにとっては少しも本意ではないが。
レイモンドは、その整った相貌に蕩けるような甘い笑みを乗せた。
しかし取られた手、レースの手袋越しには、男の手も黒い革の手袋で覆われていてその熱は伝わっては来ない。
儀礼的に落とされた唇の感触も、少しも感じない。感じたり、しない。
「今日も美しいですね」
顔を上げたレイモンドの、その深い紺碧の瞳の色からさりげなく目を反らし、陽の色にも似た金の髪、その頭頂部に視線を固定する。
クリスティナにとっては言われ慣れた賛辞、だがその男の声で紡がれるそればかりは酷く甘く響く。
完璧な貴公子として立つレイモンドは愛おしい姫君のようにクリスティナを扱い、完璧な王女として立つクリスティナも微笑んで受け入れる。
少なくとも、余人からは初々しくもお互いを憎からず想っている男女の様にしか見えない。
充分に睦まじい様子を周囲には見せつけている。
クリスティナは、何故か一向に離されない指先に少しばかり力を入れてみるが、男の手は固定されたかのように離れなかった。
「エンディ殿?」
暗に手を放して欲しいと匂わせて見たが、レイモンドは一層笑みを深めるばかりである。
「レイ、と」
愛称で呼ぶことを要求しながら、レイモンドの親指が指先を撫でた。
物理的な熱を少しも感じないその仕草に、しかし何故か心臓が音を立てたような気がする。
そうやって虚言のような熱を伝えながら、貴女と私の仲ですから、と、どんな仲だと言いたくなるようなことを言うばかりで。
クリスティナが笑みだけの返答をすると、レイモンドは残念がる素振りすら見せずに引き下がった。
「午後のお茶に誘ったら、受けていただけますか?」
控えめでいて甘やかな誘いに、しかしクリスティナは溜息を押し殺し、困ったように微笑み、存在しない予定をでっちあげた。
「まあ。嬉しいお誘いですが、この後は予定が」
「それは残念」
本当に残念そうに見える顔をして、レイモンドは自らの胸元に飾っていた薔薇の花をその手に取った。
片手はクリスティナを捉えたまま。
クリスティナの視線を花に誘導するようにして、また笑う。
「今朝、庭で摘んできました。綺麗でしょう?」
「庭の花を愛でる趣味がおありとは、知りませんでした」
「たまには、愛しい方につれなくされて傷付いた心を花に慰めてもらうことも」
そんなことをうそぶいて、レイモンドは薔薇の花弁に唇を寄せた。
その光景が、あまりにも扇状的な気がして目眩を起こしそうだ。
その花を持つ手がクリスティナの後頭部に回される。
「差し上げても?」
今になってそんなことを言われても、薔薇の花はもうクリスティナの髪を飾っている。
突き返す術があるだろうか。
受け取るしかないではないか。天鵞絨の赤い花を。
「ありがとう、ございます」
隠し切れなくなった動揺がそこいらに溢れて、零れて、みっともなく散らばった。
レイモンドの指先が、剥き出しの耳を掠めて離れていく。
「お揃いみたいでしょう?」
レイモンドの纏う黒い服になされた灰緑色の刺繍。
クリスティナの纏う灰緑色のドレスと、レースとリボンの黒、そして赤い薔薇。
クリスティナはせめて、微笑みだけは絶やさなかった。
見る人によっては王女にあるまじき不格好な微笑みだったとしても。
満足そうに微笑んだレイモンドは、優雅な礼を残して去って行く。
その後ろ姿、金の髪をまとめる天鵞絨。
赤い薔薇が、甘く重く香る。
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