第二章 19.会いたい、抱き締めたい、会いたい

「はあ……」

 シャーロン領に転移したフィルオードは、大きく息を吐いた。

「やっと来られた……」

 ここを訪れるのは、実に二カ月ぶり。


 ブロアの第二王女の来訪決定後、フィルオードのスケジュールは秒刻みになった。王女の警備のみならず、受け入れ準備すべての責任者として命じられたためである。

 早朝から深夜まで、打ち合わせに次ぐ打ち合わせ。晩餐会の料理メニューまでチェックしろといわれたときには、王の執務室を燃やしそうになった。

 王女一行が無事ロザリア王城に到着すれば業務終了かと思いきや、今度は王女の案内、護衛、エスコートを命ぜられ。

 断る、と副官に拒否すると、

「お断りするならご自分で」

 直接兄王に文句をいえば、

「いい加減に、諦めろ」

 にべもない。

 

 正直、兄がここまで露骨に縁談話を進めるとは思わなかった。

 無理矢理結婚させられそうになったら、彼女を連れて東の国にでも逃げるか。

 半ば本気で考えるほど、フィルオードは追い詰められている。

 

 ロルムの兵たちを伸したあの灰の谷で、上から見物しているフクマを見た。

 そのとき、煙の加減で、ちらりとあの人の姿が見えたような気がしたのだ。


 フクマが勝手に連れてきたのか?

 もしかして、なにかあったのか?


 気になって仕方がないのに、常に王女の傍に侍らされ、ちょっとの暇さえ捻りだせない。いつも誰かの目があって、雁字搦め。じりじりと、焦燥感が増すばかり。


 会いたい。

 顔が見たい。

 抱き締めたい。

 会いたい。


 早く『アリアの書』が見たいという王女の我儘で、二人きりという空白ができ、ようやく今日抜けだすことができた。

 ブレアの第二王女を放置するのは不味いのは解っていたが、もう我慢の限界だ。

 


 夏の庭に、少女の姿はなかった。

 部屋へ行ってみると、違和感があった。

 この暑いのに、窓と、鎧戸までがぴったりと閉じられ、真っ暗闇。

 手の平に光を灯し、室内を見まわしてはっとした。

 ベッドの上の寝具が、綺麗に畳まれている。

 いつも作りかけの魔法陣や商品が散らばっている机の上にも、なにもない。きれいに整頓されている。

 それどころか、埃が薄く積もっている。

 まるで、ここにはもう彼女がいないみたいに。

 ――いや、家族で旅行へ行っているだけかもしれないし。

 そう考えたとき、部屋の外に人の気配がして、がちゃりとドアノブがまわった。

 慌てて壁際に寄り、扉が開く前に、間一髪で隠形の魔法陣を展開する。

「……リル」

 開いた扉の向こうで、廊下を歩いてくる別の足音と、女の声がした。

「お嬢……りに……ないんだよ。聞いてないのかい?」

「え、そうなの?」

 女がドアノブに手をかけたまま足を止め、ふり返る気配。

 二人は薄暗い部屋を眺めながら、お喋りを始めた。


「あっちが気に入ったのかね」

「逆に、気に入られちゃったのかもよ? お嬢様、お顔は可愛らしいし」

「そうなったらなったで、奥様たちは喜ぶかもね。どうやったら黒毛娘を穏便に家から出せるか、頭を悩ませていたみたいだし」

「この際、年寄りでもいいって? いやだよう。五十は離れてるだろ」

「そういう趣味のヒヒ爺だって、いるじゃないか」

 うひひ、と下品な笑い声。


 誰の所へ、行ったって?


 かっとフィルオードの頭に血が上り、アリスの部屋を燃やしそうになる。

 だが女の声に、はっと我に返った。

「……なんか、この部屋、暑くないかい?」

「閉め切ってるからじゃないか?」

 換気するか、と女たちが部屋に入ってくる寸前、フィルオードは風の塔に転移した。

 自分の執務室に戻っても、まだ心臓が厭な音を立てている。


 ヒヒ爺って、なんだ?

 彼女が誰か他の男の元にいるというのか?


 救いを求めるように、フィルオードは卓上のランプに触れた。


 ランプは……点かなかった。


「……え?」

 もう一度、慎重に触れる。

 点かない。

 シェード全体を、両手でごしごし擦る。

 やはり点かない。

 

「……ティアっ」

 目の前が真っ赤に染まり、フィルオードの世界が、視界ごとぐにゃりと歪んだ。


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