第二章 14.灰の谷の千人斬り
あっという間に、包囲網の真っ只中。
白々とした煙がなんとなく冷たいイメージだったが、灰の谷はもんわりと暖かい、というか妙に蒸し暑い。
「……やっと来たわね」
声がして、包囲網の一部が左右に割れ、女が現れた。
予想通り、カーラ・アザミである。
こんな場所だというのに、舞踏会にでも行くかのような緋色のドレス姿。相変わらず非常識な女だ。
「アザミ将軍の娘か。私になんの用だ」
腕を組んで睥睨するフィルオード。
その前に、というふうに、カーラ・アザミが片手を上げつつ馬車に目を向ける。そしていきなり声を張った。
「いい加減、出てきてくださいな、ブレアの第二王女殿下」
途端に、背後の馬車でガタゴトと音がした。「いけません、殿下!」という女性の声が漏れ聞こえる。出ようとする王女と引き留めようとする侍女の姿が見えるようだ。
しばらくして、ようやく馬車の扉が開いた。
外に顔を覗かせたのは、栗色の髪の可愛らしい娘である。リボンやフリルのない、落ち着いた翠色の大人っぽいワンピースを着ているが、頬にそばかすが残る顔付きは、まだあどけない。おずおずとそのまま外へ出ようとする。
団長! 降車のお手伝いを!
促そうとすると、フィルオードは怪訝そうな顔で王女を見つめていた。ジェイクの視線に気付いて、「お前が介助しろ」と目顔で命じてくる。ジェイクは慌てて王女に手を差し伸べた。
憧れの聖剣様との初対面だというのに、王女の顔は真っ青で、喜色など微塵も窺えない。ほとんど半泣き状態だ。かすかに手も震えている。
まあ、怖いよね。
でも大丈夫だよ。聖剣様は無敵だからね。
励ますようにぐっと指に力を込めながら、ジェイクは王女をフィルオードの隣まで導いた。
「こ、こんにちは、カーラさん」
おどおどと挨拶をするイリナ王女。
「ご機嫌よう、イリナ殿下。先々月のブレアの夜会ぶりですわね」
対するカーラは安定の高慢ちき。
「今日はとても上等なお召し物ね。その翠は、フィルオード殿下の瞳の色でも意識されたのかしら」
値踏みする視線に、王女は俯いて赤くなった。
「あらあら」
ばさりと顔の前で扇を広げて、カーラがくすくすと笑う。灰の谷に、優雅な扇を持ち込む意味が分からない。
「第二王女殿下が聖剣様に憧れていらっしゃるという話は、本当だったのね。もしかしてイリア様は、〈灰の谷の千人斬り〉の話をご存じないのかしら?」
「あ、あれはブロアのでっち上げだと、聞いています」
「あら、それは失礼」
「……結局、なにがいいたいんだ?」
痺れを切らしたふうに、フィルオードが割って入った。
「イリナ殿下がどんなに憧れを抱こうと、結局は人伝えの英雄譚。私のほうが、本当の王弟殿下をよく知っている、というお話よ」
カーラがぺらぺらと返し、
「たった一人で、千人もの兵を倒す? 冗談きついわ」
作り話に決まっているじゃない、と小馬鹿にするふうに鼻で笑って、真っ赤な唇を捻り上げた。
「いまからそれを証明してあげるわ」
「……イリナ王女を」
フィルオードが短く命じた。
「退避いたします、王女殿下」
ジェイクは王女を促す。背中を押された王女は素直に従いつつも、後ろ髪を引かれるようにふり返り、
「あ、あの、フィルオード殿下は」
「団長なら大丈夫ですから」
「……でもっ」
「王女殿下が傍にいらっしゃると、全力で戦えませんので」
「そうよ、イリナ殿下は大人しく見ていなさい」
押し問答にカーラが割り込んだ。
「ご自分の憧れが、いかに妄想であるのか、すぐに解るから」
パチン、とカーラ・アザミが扇を閉じると同時に、煙の中からわらわらと、槍を手にした男たちが現れた。
灰色の軍服。ロルムの兵のようだが、本当に三百人くらいいる。
ジェイクは王女を連れて馬車の傍まで下がり、魔法陣を展開した。風の盾である。四方以外で唯一盾が行使できる人間だから、ジェイクは副団長なのである。
その間に、フィルオードはふわっと宙に浮かび上がり、荒地の奥まで移動した。
フィルオードを追いかけ、男たちが駆けていく。煙の中に一人で立つ聖剣を、円形の陣立てで取り囲む。
何重もの円陣なのに、兵と兵が重なることはない。全員が、矛先を一点に狙い定めている。この陣形を何度も練習してきたことが窺える、一糸乱れぬ動きだ。
「見なさい! ブレアの王女!」
その言葉を合図に、突撃! とばかりに、人垣が中心に向かって集約した。
「きゃあああ! 聖剣様!」
灰の谷に、イリナ王女の悲鳴が響いた。
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