第一章 26.狼と少女の蜜月
見つけてしまえば、もう「待て」はできない。
再会した一週間後の午後、フィルオードは再び銀狼の姿で、辺境の町に向かった。
例の一軒家の庭先に降り立てば、西日に照らされた庭の木陰に、黒髪の少女の姿があった。
木にもたれかかっているアリスは、胸元が細かいレース地の、洒落た木綿のワンピース。
大変可愛らしい出で立ちなのに、残念ながら手の平に載せているのは、手からはみ出しそうなくらい大きな蜘蛛である。
「あのね、ちょっとあなたの魔力を分けてくれない?」
狼相手のときとまったく同じ調子で、少女は蜘蛛に頼み込んでいた。
「ほら、このリボンに、ちょっと糸を吐いて……」
出したのは、人さし指ほどの短いリボンだ。
交渉は上手くいったらしく、するすると蜘蛛が移動し、リボンに糸を絡ませる。
そよ風ほどの魔力の揺らぎを、フィルオードは感じ取った。
思わず感嘆の唸り声を漏らす。しかし、その声は「黒毛!」という子供の声に搔き消された。
「おまえ、また一人でなにやってんだよ!」
柵の向こうから、少年が叫んだのだ。そばかすが目立つ、ひょろりとした少年だ。
少年はしつこくアリスを学問所に誘っていたが、相手にされていなかった。どうやら、何度も繰り返されている光景らしい。
しかし、いうに事欠いて「黒毛」とは。
しかも、「嫁き遅れる」だと?
シメる。子供だろうと、関係ない。
睨みつければ、殺気を感じたのか少年がぱっと柵から離れた。
……命拾いしたな、少年。
走り去る少年を見送っていると、ふう、とため息をついた少女と目が合った。
「……見てたの?」
苦笑するアリス。
度重なる誘いに辟易している様子に、
「……消すか?」
思わず呟いてしまったが、するりと無視された。
「それはそうと、ほら見て! いま出来たところ!」
ちょっとした怪我に効く小さな湿布よ、とアリスが嬉しそうにひらひらさせたのは、先程のリボンだ。
間近で見ると、十数種の魔法陣が、ぴたりと重ねて施されている。
蜘蛛の糸によって、ほどけぬように束ねられているようだが、蜘蛛の魔力の使いどころはそれだけか……?
フィルオードは魔術師としての血が騒いだが、アリスの関心は実用一辺倒。
「傷の上からこれを貼れば、かさぶたが出来ずに、綺麗に治る……はず」
さっそく試してみなくっちゃ、とリボンを狼の鼻先に押しつける。
次の瞬間、呼気ほどの微細なフィルオードの魔力が、リボンに吸われて溶けていった。
ぶわっと、狼の毛が逆立つ。
しかし、アリスは構わず腕まくりだ。
「よしっ!」
小枝を拾うと、自分の腕に押しつけ、傷をつけようとするので、慌ててフィルオードは前脚で阻止した。
銀狼の首を、横にふるふる。
「駄目だ。珠肌を傷つけるなんて」
「珠肌……」
止められたことに驚いた様子のアリスが、これくらい大したことないよと苦笑した。
「前に梟さんに頼んだときなんて、術の発動が上手くいかなくて炎上して、前髪が焦げちゃったこともある」
笑い事ではない。
「火傷はしなかったの?」
「うん」
「それはよかった……けど、自分で試すのはやめてほしい」
うーん、と唸りながら、アリスが諦めたふうに小枝を捨てる。
「仕方ないなあ。昨日、マーサが指を切っていたから、そっちで試してもらうか」
やれやれとフィルオードはアリスの黒髪に狼の鼻先を突っ込み、ため息をついた。
「……まったく。こんな小さなものばかり作って、なんのつもりだ」
「今度こそ、長生きするの」
「は?」
「百まで生きて、『アリアの書』を解くの」
この魔法陣は書を解くための鍵なのだと、アリスが細いリボンを揺らす。
確かに、王弟の婚約者ティアリスは、フィルオードが最後の頁に到達するまで、『アリアの書』を最後まで開くことができる唯一の人物で、『アリアの書』の研究者でもあったけれど。
「この小さな魔法陣が、書を解く鍵……?」
「この二、三年が勝負よ。八つまでお人形さんだったから、自由気ままで来たけれど。家族が放っておいてくれるのも、あと数年がいいとこだから」
決意表明のようにアリスが、ふんす! と鼻息を吐く。
「そうと決まったら、精進あるのみ!」
きらりん。
双眸を輝かせる。
……赤紫の瞳が光ったときは要注意。
「そろそろ戻らないと……」
じりっと後ずさる銀狼。
「おっと、逃げようったってそうはいかない」
不敵な笑みを浮かべながら、狼の首に腕をまわすアリス。
そんなふうに。
お昼間は、少女と狼でじゃれ合って。
時々は、夜に紛れて少女を抱き締めて。
それから二年近くも、フィルオードはアリスとの秘密の逢瀬を、大事に守り続けたのだった。
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