第一章 23.桃色の双丘(!)

「フィオって、もう立派な成狼よね?」


 下を向いて雄のシンボルを確かめようとするので、フィルオードは慌てて、前脚で少女の胸元を押し返した。

「あはは、ごめんごめん」

 アリスは軽い調子で謝るが、悪ふざけにもほどがある。

 仕返しに、べろりと耳を舐めてやった。

「うわっ!」

 アリスが耳を押さえ、後ずさる。顔を赤らめている様子が、獣に舐められた感じの反応ではなかったので、フィルオードは満足した。


「ちょ、ちょっとここで待っててくれる?」

 逃げるように、アリスが家屋のほうへ駆けていく。

 建物全体をフィルオードが見つめていると、二階の一番端の窓辺で人影が動いた。あそこがアリスの部屋らしい。


 アリスは、いくらもしないうちに戻ってきた。

「あのね、これなんだけど」

 にっこり笑って、狼の鼻先にドライフラワーの花輪を差しだす。


 道端や野っ原に生えていそうな草花で作られた、安上がりなリースだ。くすんだ花色と褪せた緑の組み合わせなのに、意外に美しい。

 いや、これは花輪に見せかけた、魔法陣の源か。

 穴に鼻を突っ込む勢いで花輪に顔を寄せれば、花びらや葉、茎や蔓に、独特な崩し文字――極々小さな文字が刻まれていることが見て取れた。


 花弁に書かれているのは、ローズアリアの古語だ。古代神、ラナを称える詩か。

 葉のほうには、ファーレンハイトの古代文字。これは、大地の女神の祝詞らしい。

 茎では、西国ドロテアの文字で、つらつらと女神を寿ぎ。

 蔓は、海の向こうのガイアス公国の言語で、月の女神を称え歌う。


 だが、まだ魔法陣は完成されていない。唱和のごとく女神への賛歌が諧調して初めて、魔法陣として展開するようだ。

 なんなんだ、この複雑怪奇な仕組みは……!


「気に入った?」

 狼らしくなく、前脚を額に当てるフィルオードを、アリスがおかしそうに笑った。

「実はこれ、花の館用に考えたものでね」

 ロザリア王国において、〈花の館〉とは娼館のことである。

「花を売っている女性って、そりゃ、前向きに体張ってる人もいると思うけれど、不本意ながらの人も多いと思うのよね。これは、そういう女性たちに向けたもので……」

 えっと、とアリスが微妙に頬を赤らめる。

「狼さん相手に、恥ずかしがってもしょうがないんだけど! 花の館に来る男の人って、ぎらぎらと昂っているわけでしょ。そういうときって、きっと魔力も一緒にダダ洩れていると思うわけ」


 要するに、個室のドアに掛けたこれに、コトに及ぶ前の滾る男の魔力を取り込んで、花の女性たちの代わりに、男の脳内に一夜の夢想の花を咲かせようというわけよ!


 一息にいって、はあ、とアリスは頬を押さえた。

「でも、私じゃ、仕上げの確認が出来なくて」

 花の館に乗り込んで、どうぞお試しくださいっていうわけにもいかないしと、至極真面目な調子で宣う。

 だからね、とアリスは改めて地面の上で、紙を伸ばした。

「ちょっとここに脚を当ててみてくれないかな。狼のフィオだったら、きっと春の夢を見るくらいで収まると思うから」

 フィルオードは半眼で少女を睨んだ。

「そんな、厭そうな顔しないでよ! いつもは、その辺の小鳥さんとか、植物たちから魔力を分けてもらってるんだけど、さすがにこの術を発動させるには、かなりの魔力が必要なの」

 お願い! とアリスが狼の首に抱き着く。

 はあ、と嘆息して、フィルオードは少女の体を押し戻した。

 不承不承、前脚を魔法陣におき、慎重に魔力を流す。

 陣が淡く光り、術が発動した。

 

 その瞬間、見えたのは、桃色の双丘で――


「わああ!」


 およそ狼らしくない声を上げ、フィルオードは脱兎のごとくその場から逃げだした。

 暗がりで転移の魔法陣を展開し、一足飛びに王城の自室に舞い戻る。


「な、なんなんだ、あれは……」


 変化を解いたフィルオードは、片手で胸を押さえつつ、はあはあと荒い息を漏らした。

 心臓がどくどくと暴れて、体が異様に熱い。逆に、額には冷や汗が流れている。顔も蒼ざめているに違いない。

 とにかく落ち着かねばと、深呼吸しながら目を閉じるも、瞼の裏にまたしても桃色の景色が浮かんで、再び悲鳴を上げて跳び上がる。

 ほうほうの体で寝室に駆け込み、うつ伏せにベッドに倒れ込んだ。

 枕に埋めた顔が、火を噴くかと思うほど、火照っている。


「くっ、くくく……」

 枕に突っ伏したまま、フィルオードは肩を揺らして笑い始めた。

「相変わらず、なんて規格外な」

 いくらおませな少女でも、女の花を護るために、複雑な魔法陣を編みだそうとするものか。

 そもそも、少女が娼館の女たちに思いを馳せること自体、おかしい。

「常識が、解っていない」

 いや、解っていても、気にしないのか。


「はあ。笑ったのは久しぶりだ……」

 

 目尻に溜まった涙をそのままに、フィルオードは仰向けに寝返りを打つ。


 十年ぶりに戻ってきた喜怒哀楽を噛みしめながら瞼を閉じれば、ひとしずく、涙が頬を伝った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る