第一章 22.もう、一秒だって待てない

 満月が雲に隠れ、また顔を出し、また隠れ。

 庭の草木が闇に沈み、白々と輝き、また闇に溶ける。


 その短くない間、難問を解くように、少女と狼は見つめ合っていた。


 何度目かに庭に光が満ちたとき、先に目を逸らしたのは少女のほう。

 俯きながら、ふう、とどこかへ飛びだす前のように深呼吸して、低く囁いた。


「名前……」

 胸に押し当てた少女の手が震えている。

「私の名前は……アリスティア」


 アリス、ティア?


「賢者の名前にあやかってね、お父さんが付けたの。まんまじゃなんだから、ひっくり返したんだって」


 


 いいつつ、少女が顔を上げる。言葉とは裏腹に、銀狼を見極めるようとするふうな、真剣な眼差しだ。


「狼さんの名前は……私が付けてあげよっか」


 なんてどう?


 戦慄く声で少女はそういって、泣きそうな顔できゅっと笑顔を作った。

 

 ああ、


 堪え切れず、ぶるぶるとフィルオードは銀狼の毛を打ち震わせた。


 見つけた。やっと、見つけた。


 凍りついていた感情が一気に溶けだし、ごうごうとフィルオードの中で渦を巻く。


 もう、一秒だって待てない。


 月が雲に隠れ、闇に包まれる一瞬を逃さず、フィルオードは狼の変化を解いた。

 遮二無二、手を伸ばし、少女を掻き抱く。


「……会いたかった」

 

 吐息交じりの異口同音の声が、闇に溶けた。

 木の梢がひと頻り風にざわめいて、沈黙する。

「紫紅茶月の恋歌」と呼ばれる秋の虫の音が、遠慮がちに草陰から立ち上り、静かに二人を包んだ。


 フィルオードは少女の耳元に唇を寄せた。

「小鳥の誕生日メッセージ、ありがとう」

「……うん」

「花瓶敷きも雷避けの日傘も君か」

「そう」

「茨の仕掛けは――」

「挨拶代わりよ。気に入ってくれた?」

「仰天した」

 くすっと腕の中で少女が笑う。

「私も、とっても驚いた。まさか狼が釣れるだなんて」

「獣のほうが、隠形効果が高いんだよ」

 見破った君にいっても説得力はないけれど。

 苦笑いしながら少女の目元に口付けると、腕の中で「ひゃっ」と可愛らしい声が響いた。


「君、歳はいくつ?」

「十歳になったところ」


 ……あと二、三年は現状維持が必要か。

 だが、この人は僕の女。

 他の誰にも渡さない。

 印を刻むように、フィルオードは少女の額に唇を押し当てる。


「ずっと捜していた」

「……探していた?」

「ああ。真珠色の髪の乙女を。……王に命じられたのは七年前。義姉上が第二王子のナルドを身籠ったときだ。以来、ずっと――」


 だが、ある時点から、密かに探し求めるのは、になった。

 単なる真珠色の髪の乙女ではなく、


 その事実は、腕の中にいる少女にすらまだいえない。


 本当に、ようやく、見つけたのだから。

 今度こそ、絶対、逃がさないのだから。


 秘めた思いをため息と共に吐きだして、フィルオードは苦笑した。


「しかしまさか、魔力をゼロにして、髪色を変えているなんてね」

「ふふ、上手くやったでしょ」

「ああ。見つからないわけだ」

「体が大きくなるまで、これで行こうと思ってる」

「……わかった。僕も王弟の姿で君の周りをうろついて、君を危うくしたくない。当分、狼の姿で会いにくる」

 兄に知られることを思えば、銀狼でいることなど、苦でもない。

「獣らしく、喋るのも極力控えるよ」


 再び月が雲間から顔を出したとき、夏の庭には銀狼を抱き締める少女の姿があるばかり。


 アリスは狼から離れると、寝間着の袖で目を拭った。

「ねえ狼さん。あなた凄く、魔力が強いよね?」


 くるりと表情を変えて、きらん、と瞳を輝かせる。

「ちょっと、あなたの魔力を分けて頂戴な? 狼さん」

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