第一章 3.アリスティアリス
マイア商会の末娘アリスティアは、生まれてこの方一度も喋ったことがなかった。
「お顔は可愛らしいのに」
「子犬のほうが、まだ感情豊かだよ」
「母さんのお胎に声を忘れてきちゃったんだ」
周りのいうことは理解しているようだが、喜怒哀楽を見せず、ただいわれるままに、食べて寝て。あとは、独りで勝手に遊んでいる。
「アリスティアなんて、大層な名前を付けるからさ」
「なんだい、賢者様にあやかっただけじゃないか」
「あやかり方が可笑しいよ。名前をひっくり返すだなんて」
「だって、まんまじゃ、不敬かと思ってさ」
にしても困ったね、まあそのうち喋るだろうさと、両親と七つ年上の双子の兄は、まことに大らかにアリスを放置した。笑わない代わりに、泣きもせず駄々もこねない末っ子は、商売で忙しい家族にとって、手のかからない楽な娘でもあったのだ。
喋らないまま、アリスは八歳になった。
そしてある雨の日に、高熱を出した。
意識が戻ったのは、一週間後。
目覚めたアリスが、うめき声とはいえ、「うーん」といったので、傍についていたメイドのマーサは、驚いて主人夫婦を呼びに走った。
そして、期待半分で覗き込んだアリスの父親エルナンは、娘からきょとんと問いかけられたわけである。
「……どちら様?」
「あっはっはっは!」
「ひい、おかしい!」
遅れてやってきた双子――アリスの兄たちは、話を聞いて大笑いした。
「待望の、娘の第一声が、『どちら様』って!」
「しかも、次に聞いたのが、王様の名前?」
「違うよフレド、ここはどこの国? だよ」
笑い転げる二人に、アリスはむっと唇を尖らせたが、言い返しはしなかった。
確かに、出来損ないだと放逐もせず、育ててくれた親に対して、「どちら様?」はないだろうと自分でも思うので。
家族を呆れさせたのは不味かったが、しかし、現状は大体把握できた。
ここは、ロザリア王国。
隣接する公爵領を突っ切れば、徒歩でも三日で王都までたどりつける距離の、田舎なのに時折都会からの薫風が届くような、微妙な位置にあるシャーロン伯爵領。
限国王は、ゾイド陛下。御年三十五歳。
陛下のお歳から換算するに、ティアの最期から、ちょうど八年が経過している。ティアの死の直後に、アリスは誕生したらしい。
無事、時間を開けずに、ロザリア王国内に生まれ落ちたようだ。
しかも、上手い具合に、庶民階級。
家族を観察しながら、アリスは結論付ける。
服装を見る限り、貧しい感じはしない。そこそこ儲かっている商売人の家といったところか。
しかし、王都ではなく、シャーロン伯爵領とは。
フィルと身分的に隔てられることは承知の上だったが、距離的にこうも離れてしまうとは。
記憶の中の花のかんばせを思いだしつつ、アリスは苦笑い。
「……ちょっと、腕が落ちたかな」
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