狼が夏を語ろうと、渋谷の夜が溶けようと、

もちもちおさる

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「この中に人狼がいます!」

 サークルの飲み会で正面に座っている男の子が突然そう言って、ああなんかこれ、あたしとの空気にもう耐えらんないんだろうなと肌で感じていた。周りのみんなは数年前に流行りすぎた人狼ゲームに少し飽き飽きしていたけれど、いやこういう少し飽きたぐらいのレクリエーションがほどよく楽しいのだ、ここはそういう場なのだとわかっているような顔をして、各々のスマホを取り出した。アプリがあれば誰でも狼になれる時代だ。占い師にも、猟師にも。あたしは狼にも死体にも、何にもなりたくなかったので、お手洗い行ってくるねと席を立った。まぁまぁ飲んでしまったし。居酒屋の冷房が効きすぎで、こうしてあたしたちを無駄に凍えさせている間にも地球温暖化は全速力で駆けていくのだと思うレベルだったし。そういやあの言い出しっぺの子、名前何だっけ。


「ちーちゃん、どうしよう。おれ、人狼なんだ」

 お手洗いを済ませたところで鉢合わせたのは、後輩の太郎くん(特定されたくないとのことなので仮名)。まだ一年生で、無理に飲まされてないか気にかけていたら、いつの間にか愛称で呼ばれるようになってしまった。彼はあたしの隣に座っていたのだが、疲れて抜け出してきてしまったのだろうか。太郎くんは目尻をきゅっと下げ、捨て犬のように哀れな声を出した。

「どうしよう、ばれたら捕まっちゃうよ」

 は? と思った。ついでに声に出していた。さっさと人狼ゲームに戻ればいいのに、と言いかけたところで、太郎くんは言った。

「なんで、なんでばれたのかわからないけど、みんな、この中に人狼がいるってわかってるみたいなんだ、おれがそうだってことには気づいてないみたいだけど……」

 そらそうだ。意味わからんけど、それが人狼ゲームなのだと思って、でもなんだか話が噛み合ってない気がする。

「占い師だから、人狼が誰かわかるって言う子もいるし、猟師だから、みんなをおれから護れるって人もいるんだ。おれ、今までそんなの全然気づかなくて、みんながみんなを疑いあってて、誰を追放するか、とか、誰が怪しいか、とか……」

 もしや、人狼ゲームをご存知ない? そう言うと、太郎くんは不思議そうに首を傾げる。まって、この現代に、いやそれより、きみ、人狼なわけ? マジなやつ? と言うと、彼はこくんと頷いた。

「ほら、この間、閣議決定されたでしょう、「人狼による被害防止のための対策案」。あんまりにも人狼が人を食べるから、人狼を見つけた場合、誰でも即「殺処分」できるっていう法律……。全世帯に拳銃と銀の弾丸が配布されるやつ」

 そんなんあったっけ。あったような、なかったようなと思った瞬間、ぶわりと肌が粟立った。人狼。田舎の伝承的なアレだと思っていた。ただの大きい変な狼だと思っていた。それがまさか、本当に普通の人の形をしてるとか! ハロウィンはまだ先なのに! もっといかつくて不潔な奴なんだろうなとか思っていた。だからもし渋谷の街に現れても、すぐに見分けがついて逃げることができるとなんとなく思っていた。そんな「思っていた」の積み重ねでいつの間にか死ぬのだと思う。みんな、わかってるつもりでわかってない。人だって人狼だって、誰だってそう。そしてその人狼ってやつは、いかにも無害そうな学生の形をして目の前にいるのに。あたしはまたお手洗いに行きたくなった。


 お手洗いの前でたむろっていても仕方ないので、とりあえずこんな飲み会なんて抜け出してしまおうということになった。後輩を連れ出したということより、何故か泣かせてしまったということの方が、気づかれたときに面倒くさい。お代は先に渡していたので、あたしは太郎くんの腕を掴んで店を出た。みんなスマホの画面に夢中で、誰も気づかなかった。杞憂だった。全部杞憂なんだよ、太郎くん。

 それで? あたしを食べようってわけ? 通りに出るなり言うと、悲しい顔した太郎くんは、その顔のまま「え?」と返した。

「そんなことしたら、捕まっちゃうよ。おれは捕まりたくないのに」

 じゃあなんでこんなとこいるの。なんであたしとサークル一緒なの。なんで渋谷の大学通ってんの。いやよく考えたらそうだ、渋谷の方が人が多いじゃないか。田舎より。

 太郎くんは数秒黙り込んで、何から言おうか考えているらしかった。あたしは歩きながら待った。時間も人も流れの速い東京じゃあ、その数秒は永遠みたいな長さだった。よく耐えたなあたし、と思う。

「……はたらき、たいんだ」

 太郎くんは、それだけ。ぽつりと言った。バイトでいいじゃん、とか、学問修めろよ、とか、じゃあサークルってなに、とか、結局金? みたいな、そんな乱暴な返しを選びそうになって、でもあたしはこれでも文明人なんですけど、とすんでのところで自分を止めた。そうだよ、きみも一緒なだけじゃん。その一言に、彼の感情と時間がどれだけ込められているのかを考えれば、否定の言葉なんて口に出せなかった。あたしみたいな他人が。代わりに、人狼って本当? と聞いた。

「ほんとだよ、冗談で言わないよ、こんなこと」

 その「こんなこと」がまさしくゲームになっているのだけれど。太郎くんは続ける。

「人狼が人間を食べちゃうのはそうなんだけど、おれはそれが嫌なんだ。だって、普通の家畜の肉でも大丈夫なのに、いや、動物だからいいってわけじゃないんだけど、おれは……」

 太郎くんはハッとした顔であたしを見た。

「おれは、人間の社会で生きたいんだ」

 だからここにいるんだ、と続けて、捕まりたくないよ、とまた悲しい顔をした。あたしは面倒だなとは思いつつも、まぁ仕方ないかと嘆息した。あたしを食べないならそれでいい。ひとまずの危機は去ったわけだ。そういえば、どうしてあたしを頼ったのだろう。聞くと、

「だって、ちーちゃんぐらいだよ、頼れるの……」

 いやいや、それは調子が良すぎやしないかい、太郎くん。

「上京したばかりだし……よくわかんないよ……」

 なんだかイジメてるみたいだ。太郎くんは子犬のようにぶるぶる震えだした。

「通報されて、保健所の人に追いかけられちゃうよ」

 流石にそれオーバーワークじゃない? ていうか、人狼って、人よりずっと強いんじゃないの。

「でもスタンガンを撃たれたら気絶しちゃうし、銃で撃たれても死にはしないけど、痛いんだよ。痛いっていうのは、どんなに強くても痛いってことなんだよ」

 彼の顔をよく見ると、怒られたシベリアンハスキーみたいな顔をしていて、ああ確かに、となんとなく思った。人狼っていうのを少しだけ信じてもいいかもしれない。だからあたしは、さっさと帰って何にも知らないフリして生きなきゃならないんだ。そうだ、あたしのトイプー(二歳、メス。名前はモカ)が今も家で寂しく待っている。あたしはこんなところで、食べられるわけにはいかないのだ。

 太郎くんは夜目が効くらしく、その分車や街灯、建物の光が眩しいんだそうだ。おまけに耳も鼻も良いので、周りの声や音、匂いにかなり敏感でくらくらするらしい。飲み会向いてないよ。だから手を握ってくれと言われた。少し気は引けるけど、やっぱり怒られたシベリアンハスキーを思い出したので、手を引いてあげた。夜風にあたるのもいいかも、と思ったので適当に歩くと、太郎くんはぽつぽつ話し出した。最近ハマっていること、授業のこと、悩んでいること、困ったこと、友達のこと、音楽のこと。家族のこと。人肉の味とか血の臭いとか、狼語とか喋る鳥とかの話はしなかった。あたしが普段話すようなことを話した。

 なんでもないことを話して、太郎くんは大分落ち着いたみたいで、少しはにかみながら言った。

「ちーちゃんがいてくれてよかった。もしちーちゃんが、おれのこと人狼だってみんなに言ってたら、おれどうなってたかわかんないよ」

 そうかな。

「そうだよ」

 じゃあ、あたしがきみの銀の弾丸だ。

「そうだね……」

 なんとなく思い出した漫画のセリフをそれっぽく言ってみると、太郎くんはあたしを見て、嬉しそうで悲しそうな顔をした。余命宣告を受けたんだ、と話すときのおじいちゃんみたいな顔だった。彼氏がハリネズミになっちゃったんだ、と話すときの友達みたいな顔だった。太郎くんに人狼ゲームのことを説明するべきか、少し考えた。でも、そうしたらあたしは銀の弾丸じゃなくなるのかなと思って、やめた。


 真夏の夜は、日差しがない分まだ許せるかもしれないけれど、湿度は高いままだから身体にじっとりと汗が滲む。これが日本だ。渋谷の夏だ。最悪だ。夏なんてなくなってしまえと思う。でも、海で泳げなくなるのは嫌だから、もう少しみんな、妥協してくれないかな。地球も、海も、あたしも、みんな。ただ、蝉の鳴かない夏があったとして、それは果たして夏だろうか。

 しばらく歩いていると、太郎くんの声は再び震えだした。また? とそのときは思ったけど、今思えば、未成年を補導する警官の姿がちらほらあったからかもしれない。それか、子どもを連れて帰る家族の姿を見たからかもしれない。夜が深くなったからかもしれない。

「うちに帰りたいよ、ちーちゃん」

 仕方ないな、最寄りまで送ってあげるよ。どこ?

「そうじゃなくて、本当のうちに帰りたいよ。ここよりずっとずっと北の方にあって、とても広くて、こんなに暑くないんだ。人狼狩りに怯えることもないんだ」

 でも大学出ないと、お父さんもお母さんも兄弟も、困るんでしょ?

「そう、そうだよ……そうなんだ……」

 泣くなよ。

「おれが一番わかってるんだ……」

 太郎くんに渋谷の夏は合わないんだろうなと思った。粘つく空気がどこまでも追いかけてきて、息をする度に身体がずぶずぶと沈んでいく気がする。そうだ、狼は渋谷に来てはいけないんだ。だからあたしなんかに。あたしは聞いた。北の方ってどんなとこなの。太郎くんは北の大地のよくわからない地名を言って(ごめん)、こう続けた。

「えっと、いいとこだよ。空も水も澄んでいて、風はずっと柔らかくて、緑は豊かだし、建物は少ないけれど、みんないい人だし……」

 太郎くんはそこで言葉を止めた。あたしも黙っていると、彼は喉の奥から絞り出すように、小さくかすれた声で言った。

「誰も、食べたくないんだ……」

 あたしは何も言わなかった。東京には珍しい月の光があたしたちを照らし、黒い影をアスファルトに落としている。それは大きくなったり小さくなったり、伸び縮みを繰り返しながら、渋谷の街を泳いでいく。影の形だけ見たら、どっちが狼だかわかんないね。


 歩いて歩いて、スクランブル交差点を乗り越えると、渋谷駅の入り口が大きく口を開けていた。でも、あたしは狼にも死体にも、何にもなりたくなかったので、とりあえず北の方とやらを目指した。

「ちーちゃん、あのね、ちーちゃん、」

 いつまでも女々しい声に、なんだよ、と少し苛立ちを滲ませて返すと、太郎くんはすんすんと鼻を鳴らした。

「嫌いになっていいからね、おれのこと」

 小さな小さなトイプードルを思い出した。

「狼のことも、嫌いでいいから」

 初めて吠えた日のこと。初めて手を咬まれたときのこと。血の赤だけがあたしの網膜に焼きついている。

「どうか、ちーちゃんはちーちゃんでいてね。おれの銀の弾丸でいて。もしおれがちーちゃんを食べようとしたら、そのときはさ、」

 よくわかんないけど、きみに言われなくても、と言おうとして、やっぱりやめた。太郎くんの手は、いつの間にかずっとずっと大きく、ごつごつでもこもこの毛むくじゃらになっていて、もしかしたら本当にもしかしたらなんだろうけど、あたしはそれでもいいと思って、振り返らずに言った。

 狼王ロボって知ってる? シートン動物記、読んでた? ロボは奥さんのブランカを亡くしたときしか泣かなかったんだよ。きみも少しは見習いなよ。あれがあたしの青春なんだから。殺される前に、絶対読んでね。

「青春ってなに。今のおれたちが青春じゃないの」

 知らんけど、きみが殺されたら、一生わかんないってのは確かだよ。

「おれ、捕まったら殺されちゃうのかな、うえーん」

 絶対読んでね。絶対だよ。あたしがきみの心臓をブチ抜く前に。どうせなら狼の姿でバンドとか組んでよ。狼王じゃないと殺しがいがないよ。

 太郎くんは情けない声をあげて泣く。あたしは彼の手が離れないように、固く握り直した。狼なら「うおーん」でしょうに、とか思いながら。熱くて熱くて溶けそうだった。

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狼が夏を語ろうと、渋谷の夜が溶けようと、 もちもちおさる @Nukosan_nerune

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