第3話 ブレスレス
一日の始まりは目前に迫る赤信号。慌てることなく足を踏みかえ急ブレーキ。交差点前で停止できることはわかっていても、こんな場面から毎日が始まるのは気分がいいものじゃない。たとえ一日が過ぎれば全てが元どおりになるにしても、「二週目」のように咄嗟のブレーキが間に合わずに横から来た車と接触するなんて事態は避けたい。タイミングが違えばあのときとは別の車とぶつかる可能性もある。
目の前を通過する車の運転手がこっちを見て手を上げた。ぼくもすっかり顔見知りになった彼に微笑みかける。彼がぼくよりも早くルーパーになった人で、しかもぼくのことを知っていたのは幸いだった。
――どうやら居眠り運転か何かで交通事故を起こしてしまったらしいぞ。それにしても随分リアルな夢を見ていたな。それにしてもあんな大事故の後でまた交通事故とは……混乱しながらそんなことを思っていたぼくに、車を降りてきた彼は笑ってこう言った。
「気にしないでくれ、あんたが悪いってわけでもないしね。……驚いたな! あんた、ジェラールじゃないか! こんな有名人と何度もすれ違ってたとは気づかなかったよ。でもあんたの車が突っ込んできたのは今日が初めてだな。ってことはつまり、もしかして今日がループ『二週目』かな?」
それから彼は変わってしまった世界のことを手短に教えてくれた。ぼくは当然狂人の戯言だと思った。事故で頭を打っておかしなことを口走っているのだと。だが彼の話はあまりにも理路整然としていて、無視して警察と保険会社に連絡するのを躊躇わせるものがあった。そして確かにぼくには、その日を一度終えているという感覚があった。そもそも気が付けば交差点に突っ込んでいたあの瞬間の直前、確かにぼくはジムにいたはずだ。二人一組でタックルの打ち込みを繰り返していたのに、気付けば車で他の車にタックルしていたというわけだ。その練習風景はいくら代わり映えのしない日課とはいえ、あまりにも鮮明で、とても居眠り運転で見た束の間の夢とは考えられなかった。
「来月あるはずだったあんたの復帰戦が観れなくなって残念だよ、チャンプ」
彼はそう締めくくると引き止めるぼくに手を振り、右後部ドアを中心にひどい有様になった車に乗り込んで行ってしまった。それから数時間、夕方になるまでラジオ、テレビ、ネットで流れるニュース(その多くに見覚えがあった)を片端から漁ったぼくは、男が狂っているのではなく、世界が狂ってしまったのだということをついに認めた。
そして自宅で眠れぬ一夜を過ごし、一日の「終点」だという時刻が来るのを時計の秒針を凝視しながら待っていると、次の瞬間車の運転席にいたぼくは、今度は無事に急ブレーキを踏むことに成功した。呆然とするぼくの眼前を通り過ぎる車の中で、あの男がこちらに親指を立てるのが見えた。こうしてぼくのルーパー生活が始まった。
ループする一日の「始点」の時間に人々が何をしていたか。南北アメリカ大陸はちょうど昼間だったから寝ていた人間は少ないだろう。間の悪い人の中にはスカイダイビングの最中だった人だっているのだから、ぼくなんかはまだマシな方だ。
より重要なのはそのとき何をしていたかより、自分の肉体の状態だろう。初日のループさえ乗り越えれば、運転中だろうと水中や空中にいようと心構えができる。だがもし運命の日が八か月以上前、交通事故で大怪我を負い入院していた期間にやってきていたら。或いは単に午前中を練習時間に当てた日と重なったりしていたら。毎日を体力が有り余った万全の状態から始めることはできなかった。
ぼく個人の混乱の日々も、社会の混沌の時期も過ぎて、この異常な毎日がすっかり日常と化して久しい。今では日頃安全運転を心掛けていたのが嘘のように、愛車のシボレー・コルベットのアクセルを思い切り踏むことに躊躇がなくなった。周りの車も飛ばすのが当たり前になっているから、法定速度を守っていたらかえって事故を起こす。
幹線道路を時速百八十キロで飛ばせば、家からジムまでは十分もかからない。ベルトを取った記念に買ったスポーツカーの性能がこれほど活きる機会があるとは思わなかった。
ジムに入ると、今日もジョセフがバッグを叩いている。彼の一日のスタート地点は正にこのジムの中だったが、幸いにも午後から練習を始めたばかりだったので、まだ疲労はない。むしろちょうど身体がいい具合に温まってきた頃合だった。
一日が始まった時点で他のジムメイト――この時間にいたほとんどがプロ選手――のように練習など放り出して、無軌道なセックスやドラッグを楽しみに街に繰り出すことも、或いはもっとぶっ飛んだ娯楽にスリルを求めることだってできる。例えば極一部の、最早正気を保っているのかも怪しい人間の中には、パラシュートを着けないスカイダイビング等の「エクストリーム
たとえ過激で目立つ行動や、羽目を外して楽しむのを好まないにしても、肉体を鍛えるという行為に意味がなくなってしまった世界で、ジムにいようとする人間は少ない。ここが空っぽになってしまったのも当然だ。
だがジョセフは最近では、ジムを出る前に、ぼくと同じように午後の一、二時間を練習に費やす。
「ジェラール、スパーやろうぜ」
「ああ」
ぼくはジーンズにTシャツのまま、右手に
ケージの真ん中に歩み出てジョセフとグローブを合わせようとしたところ、不意打ち気味にタックルされる。ぎりぎりのところでバランスを取り、
「視線が正直すぎるぞ」
グローブを合わせるふりをしたとき、一瞬下の方に目をやったせいで狙いが知れた。それでももう少しでテイクダウンされそうになったのは、準備運動をせずにスパーリングを始めたせいだろう。ストレッチもウォームアップもせずに急に動き出したとき選手のパフォーマンスがいかに落ちるのか、世界がこんなふうにならない限り試す気にもならなかっただろう。まして膝の前十字靭帯断裂を経験した身としては。
ケージに押し付けられるが、お互いこのまま膠着状態に陥る気はない。ジョセフは手を離して肘を振り回してくる。だが肘を使った攻撃はここ半年――世界がループする前――ぼくが最も研鑽していた技術の一つだ。得意技にするということは防御の方法も理解することだ。ぼくはジョセフの左右肘連打をガードして至近距離の打ち合いに応じる。距離を取って身体がほぐれるまで時間を稼ぐことも、本来得意な中距離での攻防に持ち込むこともしない。
先にいいのをもらったのはぼくだった。近距離で放たれた右ハイキックが、ガードできたと思ったのに足先が後頭部を巻き込むように入って軽く効いてしまう。咄嗟に組みついて身体を入れ替え金網際から脱出する。追いかけてきたジョセフの攻撃をガードを下げてバックステップでかわし、フリッカー気味のジャブを当てて――いや、忘れていた。左のジャブは使えない。ジャブに頼らない闘い方を模索して試行錯誤しているのに、油断するとつい左を出そうとしてしまう。
互いに一呼吸入れて仕切り直したのも束の間、ジョセフがローキックを放つ。先程のハイといい、ジョセフの蹴り技の進歩は目覚ましい。このローキックも足先が鞭のように走り、防御するのは容易ではない。だが繰り出すタイミングが安易すぎた。ぼくはこういう不用意なローキックには必ずカウンターのタックルを合わせられる。膝が完治してからはタックルに躊躇はない。ジョセフが蹴り足を戻すより早くテイクダウンを取ると、相手の意表をついて足関節を取りに行く。互いに不慣れな攻防が数秒続いた後、ジョセフがタップする。これが試合なら彼ももっと粘っただろうが、何も一日が始まったばかりのこの時間帯に無理してけがをすることはないというのがぼくらの共通認識だった。
「やられたよ。やっぱり足関節は上手く使えるようになると強力な武器になるね」
「ああ、
この時間のスパーリングは、防具は付けないが力は二人とも七割くらいしか入れないでやるようにしていた。それで互いに普段あまり出さない技を意識して使うようにする。今の世界では肉体の状態が一日でリセットされるから、フィジカルを強くすることができない。強くなるためには技の数を増やし、それを使える精度にしなければならない。
「今日のテーマはどうする?」
いつものようにジョセフに尋ねる。
「繰り返しになるけど、多彩な技で相手の意表を突くこと。変則的な蹴りを上手く当てること」
「じゃあぼくも昨日と同じになるが、上下に散らされる攻撃を後ろに下がらずディフェンスすること。それからジャブの代わりに速いインローキックを多用すること」
そうして二度目のスパーを始める。今度はさっきより身体がほぐれてよく動ける。三ラウンド圧力をかけ続けた結果ジョセフのスタミナが切れかけているのがわかるが、疲労が限界に達したときにどう闘うかの訓練になるから、あえてそのまま続ける。ジョセフはなんとか四ラウンドまで耐えしのぐ。いくらウォームアップさえしていない状態とはいえ、彼ほどの若い選手がぼくとここまで戦えるのは驚異的だ。
彼の才能ならいつかは世界のベルトにも手が届くはずだ。「いつか」が奪われてしまったこの世界でなければ。
二分だけ休憩してから、ミットを持ってジョセフに打たせる。疲労が濃い状態でも上手く脱力していい打撃を打てるようにするためだ。終わったらジョセフが休憩している間にひたすらバッグを打って息切れした後、逆にミットを持ってもらう。力まず、脱力して速い打撃。
電話の音が鳴り響いたのはその練習を終えて小休止していたときだった。事務室の固定電話はジムワークの喧騒に負けない大音量を響かせる。今の世界でジムの電話を鳴らす奇特な人間には一人しか心当たりがない。ジョセフが隣の事務室に走っていく。
「ブラウン社長、どうしました」
受話器を取り上げると同時にジョセフが聞く。
「――ええ、ジェラールですか?」
ジョセフがこちらに一瞥をくれたのでぼくは首を振る。
「彼ならもう帰りましたよ。特別ルールの試合には相変わらず出る気がないそうです」
通話を終えた彼が戻ってくる。その表情は何か言いたげだ。
「君もぼくに出てほしいと思うか」
「正直、外野があれこれ言うのを黙らせてほしいって気持ちはあるよ」
しばらく前から、ネット上でぼくのことを臆病者呼ばわりする声が大きくなっているのは知っていた。
「君はこの仕事が、このスポーツが好きかい」
「世界がこんなになって、好きでもないことで汗を流すほどマゾじゃない」
「ぼくもこれが好きだ。練習はきついが、ケージに入って闘うのが好きだ。老後の貯金の心配がなくても――まあ最近はその種の心配は誰もしなくなくなっただろうが――やっぱり試合をしたいと思うだろう」
ジョセフは真顔で頷く。彼もぼくも、あまりユーモアがある方じゃないのだろう。
「だからこそ、あんな興行には出たくない。あれはぼくが愛する総合格闘技じゃない」
ジョセフは何も言わなかったが、納得したわけでないのは明らかだった。
まだ疲労した状態からのディフェンス練習が残っていたが、口に出さずともお互い今日はもうやる気がなくなってしまったことはわかった。明日ループの「終点」前の時刻に来てスパーリングをする約束をして帰路に着いた。ジムの戸締りはしない。何を盗まれようと荒らされようと、どうせ明日の昼過ぎには元どおりだ。
帰宅してナショナルジオグラフィックのTV番組を見ながらホットケーキを焼いた。メープルシロップの瓶を傾けてホットケーキが乗った皿に注ぐと、いつも幼少期が懐かしく思い出される。もちろんその頃は瓶から直接注ぐなんて真似はしなかった。子供のぼくはシロップをすくったスプーンから細い金色の流れが途切れるのを待ち、素早く皿の上に移動させる――上手くいけば瓶の縁を汚すことはない。傾けたスプーンからゆっくりと落ちる金の滝が、きつね色のホットケーキの表面を滑っていく。ナイフで切って口に含むと、芳醇な甘さが口に広がる。
長い月日を経て、今ぼくが口に含んだホットケーキは、メープルシロップをかけたというよりも浸したといった感じで、水を含んだスポンジのように舌で押すとシロップが溢れる。甘美な味を堪能しつつも、やりすぎたとも感じる。これでは生地の食感が台無しだ。
こんな甘ったるいものを好きなだけ食べることなんて引退するまでないと思っていた。ぼくは減量をそれほど苦にしていない方だったが、それは普段から節制して体重が増えすぎないように気を配っているからだ。経験上急な減量はコンディションを落とすので、ウェルター級の一七〇ポンド――七七・一キロの計量を無理なくパスするために、重いときでも九十キロを超えることのないよう心掛けている。だから世界が元に戻った暁には、この自由な食生活ときっぱり訣別しなければならないだろう。
しかし、世界に再び明日が来るなんてことがあるのだろうか。
食べ終わった皿をシンクに放り出して、一番近いスケートリンクの「日替わり」スケジュールを調べる。有志の人が、リンクを時間別でアイスホッケーやスケートに使えるよう今日(の昼過ぎから明日の昼まで)と明日(の昼過ぎから明後日の昼まで)の時間割を作って公開していた。以前のぼくは練習と試合以外でけがをしては困るからと、スケート靴など何年も履いていなかった。
ちょうど今日の夕方はスケート遊びに開放されているらしい。今から出かけて数年ぶりに滑ってみようか。アイスホッケーをやっている人たちに混ぜてもらいたいところだが、今のぼくは子供の頃のようにスティックを扱えないだろう……そんなことを考えていると、家の外で急ブレーキの音が甲高く響いた。気になって外を覗いたぼくは、呆れてため息をついた。
急停止したBMW・i8から颯爽と下りてきたスキンヘッドの男を見てぼくは、全米最大の格闘技団体を運営する会社の社長であっても、プラグインハイブリッド車で地球環境への配慮をアピールしなければいけないものなのかと、そんなどうでもいいことを考えていた。
「ブラウン社長、わざわざ来たんですか」
会社の本部はラスベガスにあるが、社長自身はたまたまその日ニューヨークにいた。ここモントリオールまでその日のうちに車で来ることは可能だが、それにしても早すぎる。
「おう、ニューヨークからここまで四時間半で来れたぞ。二回事故で死にそうになったがな」
およそ六〇〇キロメートルの距離。ぼくがジムまで飛ばすのとはわけが違う。
「さて、苦労して来たんだ。話くらい聞いてくれるだろうな」
「もちろん聞きますよ。返事は変わらないが」
リビングに通した社長に、ビールを注いだグラスを渡す。飲酒運転をいちいち咎める者は今の世界にはいない。社長はグラスを一息で飲み干す。
「ふう。一日が繰り返されるってのも悪いことばかりじゃない。こうして飲み干したビールも、明日には元どおり。この世界ではあらかじめ持っていたものが減るということがない」
同じようにどんな怪我をしても次の日には元どおり。減るもんじゃないから大丈夫、などと言いだすのではないかと思ったが、多くのファイターたちと接してきたブラウン社長はさすがにそんな無神経な説得はしなかった。
「もっといい酒があればよかったんですが、普段そんなに飲まないんで」
「いいさ。元々持っていないものは毎日新たに手に入れなければいけない。当然だな。ところでジェラール、銃は持ってるか?」
「銃?」思わぬ質問だった。「まさか。持とうと思ったこともない」
「私は持ってる。まあ持ち歩くようになったのは世界がこうなってからだが」
アメリカは銃社会と言われているが、常に銃を携帯する人の割合はそれほど多くないとも聞く。ブラウン社長のようにただ家に置いているだけという人は多いだろう。
「だがあんなものは、先に暴漢に銃を突きつけられては何の役にも立たないな。私はこの三か月で二度眉間に銃口を当てられたよ。『おいブラウンだな、てめえもっといいカードを組みやがれ』と見ず知らずの男に罵倒されたよ。二度とも双子かというくらい同じようなことを言って、同じように拳銃を振り回していた。幸い撃たれはしなかったが……生きた心地がしなかったな、あれは。まあ仮に額をぶち抜かれたところでまた次の一日が始まるだけなんだがね」
「お互い顔が売れてると大変ですね」
「君はどうだ? 物騒な目に遭ったことは?」
「実はぼくも二回、銃を向けられた」
「本当か!?」
「武器を使ってでもチャンピオンを倒してみたかったらしい。二人ともそんなようなことを口走ってた」
「殺る気満々か! で、どうなった」
「一人目は正面から歩いてきて、近距離で銃を頭に向けてきました。それで色々喚くんだが、すぐに撃たなかったってことはきっと躊躇ったんでしょうね。説得しようかとも思ったが、下手に刺激するより取り押さえた方が安全だと思ったんで……」
「銃を持つ手を掴んで奪い取った?」
「いえ、テイクダウンしました。低くタックルに行けば、相手の視界から完全に消えるから。地面に叩きつけられるまで素人には何が起こったかもわからない。相手が呆然としている間に拳銃を奪い取っておしまいです」
「それでその男をどうしたね」
「どうもしません。他には武器を持っていなかったようなので、そのまま離れましたよ。痛めつけたり、まして銃で撃ったりしてどうするんです。次の日には生き返る彼に、復讐の種を植え付けるだけだ」
「なるほどね。二人目はどんな奴だった?」
「いきなり肩に衝撃が走って、振り向いたら拳銃を構えている奴がいたんです。そいつは更に二発・三発と撃ってきて、そのとき初めて自分が肩を撃たれたということを理解しました。後で見ると外側の方の肉を抉っているだけで、かすり傷と言ってもいいくらいのものだったけど、撃たれたとわかると急に痛みが襲ってきて、命にかかわる傷のように感じましたよ」
「どうやって反撃したんだ?」
「いや、走って逃げましたよ」
「えっ、だが相手は銃を……」
「歩いてる相手に後ろから撃って外すような奴が、走る的に当てられるはずない。――と自分に言い聞かせて、相手から見て真っ直ぐの方向に走らないことだけ気を付けて逃げたんです。奴は喚き散らしながら追いかけてきたが、撃った弾はどれもかすりもしませんでしたよ」
「なんというか、さすがに冷静だな。そうじゃなきゃケージの中では生き残れないか」
「パニックに陥ると、必ず痛い目に遭うものです」
「全くだ。個人もそうだし、集団も……」
ブラウン社長はそこで言葉を切った。世界が最も混乱していた時期を思い出しているのではないか。饒舌な彼に似合わない沈黙と悲痛な表情を、この後ぼくを説得するための演技だとは思わない。あの頃は誰もが人間という生物の醜さをまざまざと見せつけられた。当時まだループしていなかった人はあの頃の記憶がないという意味ではむしろ幸せだと思う。
「ひどい時代だったな。まあそう昔のことでもないが」
遠い過去を懐かしむような彼の口調にぼくは思わず苦笑した。
「まだ九十周も経ってないでしょう」
一説には社会が完全に無秩序状態になったのはルーパーが三〇パーセントを超えた頃かららしい。ループしている人間の中で倫理のタガが外れてしまった人間がどれほどいるのか、それらを調査し正確な統計を取るのは不可能に近い(紙やコンピューターに数値を記録しておくことができないから尚更困難を極める)が、それらは社会の秩序を破壊するのには十分な数だったということは確かだ。
人間の記憶以外は全てが一日でリセットされる世界――実質どんな犯罪に手を染めても翌日には自由の身になれる世界。人間の獣性が解き放たれ、本性が露わになる新世界。悲鳴が街を覆い尽くすことを予想できない者は、性善説の信奉者ではなくただの馬鹿だろう。
「我々があの時代を終わらせたなどと自惚れているわけじゃない」
「ええ」
「だがあの混乱の時期から今の穏やかな世の中への過渡期に、一定の役割を果たしたとは思ってる。君もそこは同意してくれるだろう」
素直に首肯した。ブラウン社長がこの新世界で始めた興行は、ぼくら格闘家だけでなく、世間からも概ね歓迎されたし、治安改善に貢献していると評価されていた。どうも元々総合格闘技を野蛮だと非難していたような人たちはかえって嫌悪感を募らせただけだったようだが、ブラウン社長もそこは諦めていただろう。
「しつこいようだが、ガス抜きが必要だったんだ。イカれた奴を逮捕しても次の日には檻の外。レイプ魔を
「わかりますよ、平和的かどうかは大いに疑問ですが」
「そこは訂正してもいい。平和的な方法での解決などあの頃は……いや、今だって望めない。大衆は血を見たがっているんだ。そして大衆は飽きっぽい」
さて、いよいよ本題だ。前置きが長かったが、それだけ社長も必死なのだ。
「彼らは王者が特別ルールで試合するのを見たがってる」
「特別ルール? あれが総合格闘技のルールと言えますか」
「OFGははめるし、金的と目突き、噛みつきに髪を掴むのも禁止だ。最後のは我々にはあまり関係ないが」
ブラウン社長のスキンヘッドが照明を反射して輝いた。それを無視して反論する。
「しかし頭突きも、後頭部への打撃もありなんでしょう。それだけで全く別の競技になるといっても過言じゃない。極めつけが、前日計量ができないのをいいことに階級も適当にして、二、三十ポンドの体重差の試合が当たり前。こんなのは競技とも言えない。おまけにレフェリーが試合を止める権利を持たないせいで、既に七人、試合直後に死亡したそうですね」
「ああ。翌周には生き返るとはいえ実に痛ましい。それらの試合に出てたのはみんなうちの選手じゃなく、よそから呼んだ二流の選手だが、それは言い訳にはならないだろうな」
「相手の意識が無くなっているのをわかってて締めを解かなかったり、
「そんな観客ばかりじゃない! 昔からのファンだって大勢いるさ! 君をケージで見たがってるのはむしろそういうファンたちの方だよ。事故のリハビリを終えて復帰するはずだった君の勇姿を見たがってるのさ」
「ならいつものルールで試合をやりましょう。体重が合わないのはある程度仕方ない。普段ウェルター、何ならミドルの試合に出てる選手で会場に来れる相手がいるなら、誰の挑戦でも受けましょう」
この提案は既に何度もしているから、どんな答えが返ってくるのかもわかっていた。
「ジェラール、申し出はありがたいが、やはりそれは得策じゃないと思う」
「昔からのファンならウェルター級タイトルマッチは見たいと思いますが。それにあの事故の後のぼくがどれだけやれるのか興味があるでしょう」
「オーケー、認めよう。本当は由緒正しい格闘技マニアより、単に血塗れの闘いを見物したい人間の方がずっと多い。彼らの目には、たとえ君が出場しても通常のスポーツとしての総合格闘技の試合は退屈に映るだろう」
ブラウン社長の言葉に他意はないのだろうが、ぼくはどうしてもそこに裏の意味がないのか勘ぐってしまう。この二年ほど、王者として防衛を重ねるうち判定での決着が増えていき、一部でぼくの試合が堅実すぎてつまらないと批判されているのは知っている。
「それに特別ルールの凄惨な試合は血に飢えた大衆を満足させるだけじゃない。彼らに暴力の痛みをリアルに想像させることができるんだ。いくら生き返れるといっても、誰だって痛い思いはしたくないだろう? 互いに殴り合って血を流す男たちの姿を見ることで、軽々と暴力を振るうのを思いとどまらせることができる。少なくとも私はそう思ってる」
確かに一定の抑止力にはなっているのかもしれない。巷では何度もリンチで殺されながらも悔い改めずに犯行を繰り返す強姦魔や殺人鬼も現れている。自分が暴力を受ける側に回ることを想像して、その時点で犯行を思いとどまっていれば生まれることのなかった怪物どもだ。凄惨な試合の光景に、観客がそういう凶悪犯になるのを踏みとどまらせる効果が少しでもあるなら、確かに意義はある。
「それにしばらく特別ルールの興行だけを行ってきた中で、突然君の試合を普通のルールでやったら、他の選手も納得しないんじゃないかと思うね。大事故に遭って以前のようには闘えなくなったとはいえ、彼らは君が特別扱いされてると感じるだろう。俺たちが命がけの闘いをしている中で、あいつだけは以前のルールで守られていると」
否定のしようがなかった。ただでさえチャンピオンという立場はやっかみを受けやすい。
「けどそれなら――もう昔のようなルールの試合は、いつまでもできないことになる」
この世界が元どおり、時間の秩序を取り戻すまで。
「私は希望を捨てちゃいない。世界は――少なくとも北米や西欧、日本は混乱期を抜け出て、ある程度安定した秩序が戻ってきてる。これらの国がもっと平和になれば、昔のような興行を各地で行うこともできると思ってる。だが今はまだ――その時期じゃない」
「しばらくはまともな試合はさせてもらえないと」
「かなり長い間な。いずれその時期が来ても、世界が一番大変だったときに闘おうとしなかった者には、列の後ろに並んでもらうしかないだろう。でなきゃ過酷なルールで闘った選手も、客も納得しないだろう」
ぼくは急な疲労感に襲われた。全てをこの競技にかけて、ようやく頂点を掴んだ挙句の果てが、この待遇とは。
「あなたも、ぼくが怖がって試合を受けないと思ってるんですか」
目を伏せたのが答えの代わりになった。
「……それ自体は恥ずべきことじゃない」
「ブラウン社長、確かに全く恐くないと言えば嘘になる。けど何度も言ってるように、ぼくが特別ルールを認めない理由は、それがぼくの愛する格闘技の姿と違うからです。ぼくはいじめられてた子供時代に格闘技と出会いました。強くなっていじめっ子たちに仕返ししたいと思ってた。でもそこで師に教えられた。手に入れた力をむやみに振るえば、自分はいじめた奴らと同じになってしまうと。格闘技とただの暴力は違うのだと。理想論かもしれませんが、ぼくはその教えを胸に刻んで今までやってきた」
「特別ルールはただの暴力だと? だがこうは考えられないか? 総合格闘技の成り立ちを見ればそもそもがノールールに、つまり実戦に近い形の闘いから始まったものだ。そこから徐々にルールが整備されてスポーツ化して今に至るわけだが、たとえば攻撃に頭突きという選択肢が増えることは、総合格闘技の本来の理念にむしろ近づいてるともいえる。というか我々の興行だって最初期の頃は頭突きが認められていた。知らんわけじゃないだろう」
「四半世紀も前の話だ。やっと競技レベルが上がって、スポーツとして人気を確立したものを、あの頃に戻してしまうんですか。社長、ぼくが心配してるのはね、過激化したルールがやがて飽きられてしまったら、より過激な方向に歯止めがきかなくなるんじゃないかってことです。最近、武器の使用さえ認められた地下格闘技が世界中で開催されてるって噂がありますね。道を間違えれば、我々だってああいう連中と同じになってしまうかもしれない」
「そりゃあ私だって危惧してることさ。だから飽きられないように、君に出場してほしいのさ」
ぼくは深くため息をついた。どこまで行っても平行線らしい。
「仮に、もしぼくが出ると言ったら、相手は誰を」
衆目を集める対戦カードを既に画策しているはずだ。まさかジョセフとの同門対決などと言いだしはしないかと身構えたが、社長の口から出たのはそれよりずっと意外な名前だった。
「交渉してるのは、イワン・ナボコフだ」
耳を疑った。その名前が対戦相手の候補として挙がるなど、本来ありえないことだった。
「彼はヘビー級だ。減量中じゃない今のぼくともおそらく四〇ポンドは目方が違う」
「だが既に現役を退いてる。それにヘビー級ではかなり小柄な方だったから、リーチは君と変わらんよ」
「しかしパワーの差は歴然でしょう。一階級の違いでも高い壁です。その壁が三枚。飛び越えようとするのは勇気じゃなく無謀だ」
「そのとおりだ。だからこそナボコフとの試合を受けた時点で、君の名声はより高まる。おまけに怪我からの復帰戦。前代未聞のストーリーだ。負けても決して評価は落とさない」
確かに、ルールが違っても他のウェルター級の選手に負けることがあれば、どうしても選手としての価値に傷がつくことになる。
「ここ数年、こんな盛り上がるカードがあったか? ヘビー級史上最も偉大な選手、“
勝手なことを言って盛り上がっている。だが驚きが収まると、ぼくの中に自分でも意外な思いが浮かび上がってきた。
氷帝イワンと拳を交えてみたいという、熱いたぎりだった。
「……少し考えさせてもらっていいでしょうか」
社長の熱に当てられたか。一人になって頭を冷やした方がよさそうだ。
「いい返事を期待してるよ」
そう言うと社長は立ち上がった。玄関まで見送る。
「この辺に昼まで時間を潰せるような、何かおもしろいものはないかね。どうせ昼には勝手にニューヨークに戻ってるんだ。わざわざ車で帰るまでもない」
この質問に関しては、いい答えを期待してはいなかっただろう。何かおもしろいものと言われても、何も紹介するものが思いつかなかった。
「まあ何もないよなあ。……いっそ、残りの十七時間でどこまで北に行けるか試してみるかな」
社長は車に乗り込むと、猛スピードで夜の闇へ消えていった。
睡眠を取らなくても翌日昼過ぎのループの時間になれば疲労は回復するわけだが、ぼくはその時間が来る前の午前中にジョセフと全力の、大けがをしても構わないスパーリングをするのでしっかりと寝ておかなければならない。
とはいっても、別にジョセフと約束していない日の夜だろうと睡眠は必ず取っている。いつまでループが続くか定かでない世界で、睡眠の欲求に逆らってまで一日の時間を長く使うこともないだろう。それにもうずっと前から、ループで体力が回復しても睡眠を取らなければ記憶力や判断力の低下という自覚症状が出ることが広く知られていた。
これは一見不合理に感じられるが、そもそもこの異常な世界で、ぼくら人間の記憶だけが時間の輪から抜け出せていることの方が不合理なのだろう。それはつまり何らかの理由で人間の脳だけがループの影響を受けないということなのだろうか。だとしたら脳を休ませるために睡眠が必要というのは頷ける。
数年前にナショナルジオグラフィックのTV番組か何かで「睡眠の科学」という回を見た記憶がある。それによると人の脳は睡眠中に一日の記憶を整理するということだった。もし脳がループの影響を受けないというなら、睡眠をしっかり取らなければ記憶が定着しないということになるはずだ。
こうしたことは、例えば被験者を眠らせずに一周目、二周目、三周目と脳のMRIでも撮れば何らかの事実が見えてくると思うのだが、どこかでそういう研究を行っているという話は聞いたことがない。それとも研究は行われているが発表する価値のある研究結果がまだ出ていないのか、或いは世間を揺るがすような何かが実は発見されているが発表を控えているのか。
そんな妄想をつらつらと重ねながら今日も深い眠りにつく。
翌朝、ニュースをチェックしてハリウッドのアクション映画を観てからジムへ向かう。
昨日の件を考えたかったので、ジョセフとすぐにスパーリングをする気が起こらなかった。サンドバッグを軽く叩く。
前からわかっていたことだった。社長が以前のような興行を復活させるのに前向きでないのは。だからぼくは毎日の練習中、こんなふうに技を磨いても試合に出られることはないのかもしれないと、半ば諦めながらやっているつもりでいた。だがそれは自分の心をごまかしていただけだった。試合がしたい。自分を打ち倒そうとする相手とケージに放り込まれ、肌がひりつくような緊張感の中で真剣勝負がしたい。
「ジェラール、ちょっと頼みがあるんだ」
隣でバッグを打っていたジョセフが動きを止めて話しかけてきた。横目で見ていると、彼も今日はぼくと同じようにあまり練習に身が入っていないようだった。
「俺と、本気で闘ってほしい」
ぼくは彼の発言の真意がわからず、戸惑った。
「この時間のスパーで手加減したことはないよ」
「違う。そうじゃない。実戦であんたと勝負したいんだ」
意外な言葉にたじろいだ。
「突然何を言い出すんだ。実戦? 喧嘩ってことか?」
「正確には例の特別ルールで構わない。目突きなんてする気になれないし、タマを蹴りあげるのもごめんだ。どっちも丸腰の人間相手に使う技じゃない。けどグローブはなしだ。裸拳で打ち合う」
「待ってくれ。なぜそんなことをする必要がある?」
「自分の強さを知りたいんだ」
「それはいつものスパーでわかるだろ?」
「それでわかるのはルールの中での強さだ。俺は実戦で、自分がどれだけやれるのか知りたいんだ」
「ジョセフ、ストリートファイトでどう戦うかってことなら、もちろんぼくだって考えたことはある」
ルールなしでは闘争の形はどう変わるか。そしてそのとき一番強いのは誰か。格闘家なら誰だって一度は考える。特に喧嘩で最強は誰かという問いは、格闘家でなくとも多くの男が答を求めたがる。
「だけど結局は、そんなことは考えるだけ無駄だって答に毎回たどり着く。実戦とやらで一番強いってことが、最も偉大なファイターだということと同義だと思うのは間違いだ。ノールールってのは突き詰めると、何というか……キリがないよ。武器の使用だけを禁止して、その他は何でもありっていうのは、結局は卑怯な手を躊躇なく使える奴が有利になるだけだ。ぼくには、それがルールの整備された試合よりも真の強者を決めるのに相応しいとは思えない」
「ジェラール、あんたの言うとおりだよ。でも俺は、ただ知りたいだけなんだ。誰が最強かじゃない。俺がどれだけ強いかを。純粋な闘争で、自分がどれだけやれるのかを。あんたは知りたいと思わないのかよ」
知りたくないはずがなかった。
いじめられていた少年時代に、強くなりたいと空手の道場の門を叩いたのがこの世界へ入るきっかけで、あれからもう四半世紀近い歳月が流れた。その月日はちょうど総合格闘技という競技の隆盛の時代と重なる。それだけの時間を、強くなりたいと思いながら過ごしてきた。いつだって知りたかったに決まっている。自分がどれだけ強いのか。
「ジョセフ、前にも言ったがぼくはそもそも同門対決自体するべきじゃないと思ってる。どちらかの経歴に黒星がつくことになるし、それに試合が終わればノーサイド、わだかまりを残さないって理想どおりにはなかなかいかないことも選手にはあるからだ」
言い返そうとするジョセフを手を挙げて制し、ぼくは続けた。
「けどこれは公式の試合じゃないし、この場にはぼくら二人しかいないからチームメイトの目を気にする必要もない。あとの問題は一つだけ。今から三時間後、次の一日が来て、全てのけがが元どおりになったとき、一切の遺恨を残してないと誓えるか?」
ジョセフは喜色満面で頷いた。
「ああ、神に誓うよ」
「よし、十五分後に始めよう。金的、目突きと噛みつき以外は全てありだ」
十五分間をストレッチとアップ、そして未知のルールに関するイメージトレーニングに費やした後、ぼくはケージの真ん中に立った。向かい合うジョセフと目を合わせる。この空間にはぼくらだけがいる。当然レフェリーもいない。だがレフェリーや観客がいようと、結局のところケージがある空間には試合をする二人しかいないのかもしれない。力を合わせて戦っているはずのセコンドでさえ立ち入れない、闘っている二人だけの領域というものが、確かに存在する。
互いに離れて、セットした時計がブザーを鳴らすのを待つ。五分三ラウンド、インターバル一分で時計をセットしておいたが、ぼくはこの闘いに二ラウンド以降があるとは思っていない。おそらく相手もそう感じているはずだ。
ブザーが鳴る。ぼくも相手もケージの中央に近づくと、慎重に距離を計る。既にタックルの間合いに入っているからだ。このルールではテイクダウンに成功して上になれるメリットも、失敗してタックルを切られた体勢になるデメリットも常より大きくなる。相手はいきなりハイリスクハイリターンの賭けに出ることはなく、鋭いジャブを突いてくる。想定していたとおりだ。このルールでも左で距離を制することの重要性は大きい。散々練習してきたサウスポースタイルにスイッチしてこちらも右ジャブを突く。軽く相手の顔を捉える。ともすれば裸拳で人の顔面を打つ感触にひるみそうになるが、真剣勝負の緊張感はぼくに畏縮することを許さない。
相手はテイクダウンを警戒して、蹴りの種類は限定してくるはずだ。最も警戒すべきは長身から繰り出される、伸びのある打ち下ろし気味のストレートと、一撃で意識を断ち切れるハイキックだ。それを防ごうと接近すれば、肘打ち、或いはぼくが未だ経験したことのない頭突きが待ち構えているかもしれない。
テイクダウンを狙える隙を見せるまで、待ちに徹した方が安全かもしれない。だがジョセフは自分の強さを知りたいと言った。そしてぼくも同じ気持ちだったからこうして拳を交わしている。相手のミスを待つような闘い方ではそれがわからないような気がした。自分から攻め続け、相手に息つく暇さえ与えず、倒す。それがウェルター級チャンピオン“ブレスレス”の真骨頂だったはずだ。
左ミドルを蹴る。相手は下がりながらガードする。ぼくは蹴り足をそのまま前に下ろしてサウスポーからオーソドックスの構えに戻すと、右ローキックを蹴るフェイントを見せて右ストレートを打ち込む。このスーパーマンパンチをもらった相手は一歩後退する。前進して左の縦肘を繰り出すがやや距離が遠かった。逆に相手が返してきた肘がぼくの顔面をかすめる。
相手が不意に顔をのけ反らせた。この至近距離で上体を起こしたということは頭突きのための振りかぶりか? ぼくは頭を下げて組み付こうとした。タックルには近すぎる距離だったが、上体をのけ反らせた相手なら組み付けばテイクダウンするのは難しくない。だがそのときみぞおちに重い衝撃が食い込んだ。膝蹴りだ。近い距離のせいで相手の下半身への注意が疎かになっていた。頭突きがあることを意識しすぎてしまった。
だがここで動きを止めはしない。そのまま前に出て組み付く。だが既にその動きを予想していた相手は簡単には倒されない。常ならそこからレスリングの攻防を制してテイクダウンするために粘るところだが、ぼくはすぐに相手を突き放して距離を取った。頭を相手の胸の辺りに当てて押し込んでいた今の体勢では、相手はぼくの後頭部に肘を振り下ろすことができる。タックルを切られた場合も、同じように後頭部を相手に晒すことになるからそこを攻撃される可能性は高い。あらゆる格闘技で攻撃を禁止されている後頭部に上から肘を落とされれば、深刻なダメージを負うことになるだろう。
一瞬二人が見合った瞬間を逃さず、相手のハイキックが襲い掛かる。ガードは間に合ったが、やや上体を浮かされたせいでカウンターのタックルに行けない。相手は臆せず自信を持って強い蹴りを打ち込んできている。これに怯んでいては押される。
タックルのフェイントを見せると、膝蹴りを合わせてくる。今のがフェイントでなければもろに食らっていたかもしれない。思い切りとタイミングの良さに舌を巻く。だがガードが少し下がったのをぼくは見逃さなかった。飛び込んで速い右ストレートを当て、更にインローキックで体勢を崩す。そこにすかさずタックル。バランスが崩れていた相手の両足があっさりマットから離れる。
テイクダウンには成功したが、さすがに簡単にマウントやサイドポジションは取らせてくれない。片方の脚が捕らわれた状態のハーフガードポジション。だがこれで十分強力な打撃は使える。特にこのルールなら。
ぼくは頭を振りかぶる。相手は頭突きを防ぐため両腕でガードを固める。だがそれこそぼくの狙いどおりだった。ぼくはその前腕を目がけて、肘を打ち下ろす。折り畳んだ肘の先端を突き刺すように落とすのは本来反則行為だが、特別ルールでは当然許されている。鍛えられた腕で防ごうにも、硬い肘を何度も振り下ろされれば耐えられるものではない。不慣れな「落とす・刺す肘」の合間に、単調にならないよう通常の「振る・斬る肘打ち」を混ぜると、ガードに隙ができた。その間に覚悟を済ませていたぼくは、野蛮で無慈悲な一撃――頭突きを見舞った。額に柔らかい鼻と硬い前歯の不快な感触があり、それによって初めて放った頭突きの威力を実感する。
くぐもった声がわずかに聞こえたとき、振り上げた頭を再び叩きつけることに躊躇した。だが手心を加えるのはジョセフの覚悟への侮辱になる。再度自分に言い聞かせ、やや力を弱めた彼の両手を掴んでガードをこじ開け、二度目、三度目の頭突きを放った。たった三度の頭突きで、その新たな攻撃手段の有用性が知れた。頭とは、拳よりもはるかに硬く重い鈍器だ。そして人間の顔面は鈍器に耐えられるようにはできていない。鼻が折れたのだろう。掴んだジョセフの手から残った力も抜けていき、決着がついたことがわかった。
立ち上がって少し離れた所に腰を下ろす。ジョセフは潔く敗北を認めたようで、上体を起こして顔を下に向け、鼻血が流れるに任せていた。
「やっぱり……好きになれないな」
ぼくが呟くと、彼も目を伏せたまま一言漏らした。
「……そう言うと思ったよ」
試合当日はジョセフがニューヨークまで送ってくれた。普段小型の乗用車に乗っている彼はぼくのコルベットを運転したがった。ブラウン社長が四時間半で着いたなら俺は四時間で行ってみせると息巻いていたが、せめて六、七時間はかけて常識的な速度で向かってくれるよう頼んだ。事故を起こしたらスペシャルマッチを翌周に延期することもできるが、慣れない他人の車を馬鹿げたスピードで走らせている若者の横で長時間助手席に座り、リラックスできる人間は少ないだろう。
会場に着くと、最初の試合まで時間があるにもかかわらず既に観客席は半分以上埋まっていた。代金が無料で、しかも余暇の時間が有り余っているとはいえ、生中継放送があるのに会場まで足を運んでくれるファンはありがたい存在だ。
試合が決まった後のSNSにはファンから多くのメッセージが集まった。その中でも印象深かったものをふと思い出す。
ぼくと同じように、かつていじめを受けていたという青年からのメッセージだった。そこには昔ぼくが出した本にある言葉が書かれていた。
「自分をいじめた人間を見返したいなら、真っ直ぐないい人間になれ。強くて優しいナイスガイになれ。暴力でやり返すんじゃない。お前に尊厳を傷つけられても、俺は自分を誇れる人間になったと見せつけてやれ」
彼はこの言葉に励まされ、いじめで受けた心の傷を克服し、教師の道に進んだそうだ。今でもぼくの挑戦に勇気をもらっているとも書いてくれていた。発信元は日本だったが、「Meißen”Joker”」というアカウント名だったからもしかしたらドイツ語の教師かもしれない。
一足先に駆けつけてくれていたセコンド陣(みんなスピード狂だったのか?)とは久しぶりに顔を合わせた。その中には特別ルールを自身で経験した選手もいる。頼もしいことこの上ない。
それでもつのる不安は止められない。特別ルール。ヘビー級のパワー。伝説の元チャンプ。そして事故で失われたもの。未経験のことばかりが待っている。だが恐怖に呑まれれば勝利は遠ざかる一方だ。
それに湧き上がるのはネガティヴな感情ばかりではない。確かな高揚が身体の内を駆け巡るのを感じていた。逃げ出したい気持ちはゼロではない。だがそれ以上にぼくは、試合の時を待ち望んでいる。
ウォームアップの間、イメージトレーニングを邪魔してぼくの思考を逸らすのは、ある一つのテーマだった。格闘家なら必ず誰しもが考えるが、多くの者にとってはあまり思い悩むべきでないテーマ。突き詰めても得になることはないテーマ。
階級の垣根を取っ払ったとき、全盛期の自分は世界で何番目に強かったのか。
全米一の総合格闘技の興行で王座に君臨し続けたというのは、その階級で最高の格闘家であったことの証明だと言ってもいい。だがぼくのウェルター級は前日計量で一七〇ポンド以下と決まっている。二〇五ポンド以上のヘビー級の大男たち、ましてやその内のトップ選手には到底太刀打ちできない。
自分の体格では、世界で一番強い男には絶対になれない。
普段の体重が百キロを超える大男以外に、ほとんど例外なく突きつけられる非情な現実。
考え始めるとキリがない。ヘビー級やライトヘビー級のトップランカーには到底勝ち目がないのはわかる。では十位以下の選手なら? 或いはウェルターの一つ上のミドル級のトップランカーなら?
もしかして自分は、無差別級ならトップ五十や百にも入らない可能性があるのか?
こんなことは考えるだけ無駄だ。ましてや直後に試合を控えているときには。
それに格闘技は同じ体重の者同士で試合をするというルールがあるからこそ技術で差をつける競技になり、発展した側面もある。無差別級しかなければ競技者は激減し、それが競技レベルの停滞につながるのは必至だ。
階級の壁を取り払って選手を比べる試みとしては、もし全ての選手の体格が同じだったら誰が強いのかという、パウンド・フォー・パウンドというある種の思考実験も昔から存在する。ぼくはこのPFPランキングでも首位を獲ったことがある。世界最高の格闘家の一人であることは十分に証明してきたと言える。
それでもイワンと闘い、勝てずとも善戦することができれば、新たに証明できることがあるはずだ。それは格闘技に捧げた人生に報いるものになるだろう。
アナウンスの後に入場曲が流れる他は派手な演出もない中を、初心を忘れないための道着とハチマキといういつもの出で立ちでケージへ向かう。どうやら裏方が足りないらしい。こんなに地味な入場は昔ローカル団体で試合をしていたとき以来かもしれない。これも初心にかえって闘えると思えば悪くない。
道着を脱ぎ、ケージに上がる。床の感触を確かめるように足踏みし、先にケージに入っていたイワンを見る。身体は絞れているとは言い難いが、往年の爆発力が秘められていることを想像させる厚みがある。
互いの戦績が読み上げられる。イワンの闘いの歴史は最大限の敬意に値するものだ。だがぼくも強敵を何人も倒してきた。怯む必要はない。
レフェリーがぼくとイワンを中央に呼び、ルールの最終確認を行う。俯いて決して目を合わさない人を前にしたとき、特にそれがケージの中で向き合った相手だった場合、彼のことをどう思うか。自信のなさに起因する恐怖心か、大舞台に立つことへの緊張感か、そういうものに惑わされた者もいる。だが氷帝イワンにそんな甘い考えは当てはまらない。彼が試合開始までは相手と目を合わせないのは有名な話だったが、向き合ってみてわかった。彼は自分の世界に深く入り込んでいた。
相手が誰であれ、自分の闘い方を貫く姿勢。
ぼくが今日、観客や仲間たちに見せたいと思っていたものも同じだ。
ジョセフにもトレーナーにも話していなかったが、ぼくはこの試合で頭突きも後頭部への打撃も使わないと決めていた。それで不利になろうと構わない。客や同業者を啓蒙しようと思ってのことではない。ただぼくはぼくの愛する格闘技を守る。必要以上に相手の身体を破壊するような危険な攻撃を禁止した、スポーツとしての格闘技を貫く。
「ひとつ尋ねてもいいかナ?」
レフェリーのルール確認が終わり、あとは拳を合わせて挨拶するなりして試合を始めるだけという段になって、イワンが少したどたどしい英語で呟いた。
「左手をなくしても、キミをここへ駆り立てるものはナンだ?」
世界がループする前、事故のリハビリを終えても、復帰するという決断には反対も多かった。
左膝の前十字靭帯断裂は時間が経てば試合ができるまで回復する見込みはあった。だが手首の上から切断した左手は戻らない。ボクサーになっても成功できると言われた左ジャブも、総合格闘技においても最もKOできるパンチの一つである左フックも、クリンチ状態から放つことで戦略を広げられる左アッパーも、左の拳から繰り出す技は全て奪われた。ディフェンス能力も大幅に低下するし、
ジャブではなく蹴りで相手との距離を測るよう闘い方を変え、左の肘を強化した。しかし現役復帰して、チャンピオンとして超一流の挑戦者と試合をするのはあまりに危険だ。周りが止めるのも当然だった。それでも――
「たぶん、あなたが今日ここに来たのと、同じ理由です」
ぼくはゆっくりはっきりとそう答えた。一拍遅れてイワンが微笑んだ。
今日ここへ来て、自分でも気づかなかった本音に戸惑うことになった。あまりに不謹慎で、とても公には言えない本音。
ぼくは時間のループがまだ終わらないでほしいと思っている。
全ての怪我も死さえも一日で癒えるこの世界で、もっと試合を楽しみたいと感じている。
そのためにもっと練習したい。ぼくはフィジカルが鍛えられないこの世界でも今より強くなれる。左手をなくしてから、主観時間でまだ一年も練習していないのだ。まだまだ片手で闘う術は研究できる。ジョセフに付き合ってもらって、頭突きや何やらへの対策ももっと研究しよう。やれることが、やりたいことがいくらでもある。
――夢中になれるモノがいつか君をすげぇ奴にするんだ。ぼくの自伝でも引用した、日本の有名なテレビアニメの主題歌の一節だ。幼少期に欠かさず視ていたこのアニメも、ひたすら強さを追求する男たちの物語だった。
ようやく気づいた。明日が来る世界でも、今日が続く世界でも変わらない。大事なのは後悔しないように生きることだ。後悔しないためには夢中になれるものを全力でやればいい。
思えば久しぶりの試合で随分欲張ったものだ。ヘビー級への挑戦に、自分が愛する格闘技の形の体現。そしてなくした左手を技術で補えることの証明。
正に
レフェリーに促され、イワンとぼくは互いの右グローブを合わせた。その一瞬、不思議なことが起こった。
――頭突きも急所攻撃もいらない。私たちのルールでやろうじゃないか。
確かにそう語りかけられた気がした。だが彼は口を開いてさえいない。目がそう語っていたと言う他ない。こんなことは初めてだった。
この土壇場でぼくは何らかの武の境地に至ってしまったのか? というか氷帝イワンも今の血生臭い特別ルールが持てはやされる格闘技界を憂いているぼくの同志だったのか? 真の達人はこんなふうに言葉を使わずに語ることができるものなのか? それとも全ては脳内麻薬による幻覚の類か?
「おい、何笑ってるんだ。大丈夫か?」
セコンドが苦笑を漏らしたぼくを訝しんだ。
「ああ。ただ、何にせよ自分の闘い方をするだけだと思ってね」
開始のブザーが鳴り響く。さあ、今までで最高の今日にしよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます