第4話 プリズナーズ

 祖母の見舞いの後、図書館に来るのが日課になってからちょうど百五十周が経ちます。ここも大分寂しくなってきました。

 世界が今日を繰り返すようになって、しばらくしてわたしもルーパーになると、前日の記憶を保持できるようになったわたしは、自室に閉じこもってひたすら本を読んでいました。未読の本を全て読み終えると、わたしの足は自然と図書館へ向かいました。

 ちょうどその頃は毎周祖母の見舞いに行くようになった頃で、そのことに気が滅入っていましたから、新たに読む本を手に入れるためというよりも、病院と家を往復するだけの日々を変えなければならないという思いでした。

 本を調達するだけなら書店でもよかったのですが、世界がこんなふうになって店員がいなくなったとはいえ、売り物の本を勝手に取っていくのはなんだか万引きのようで気が引けてしまいそうです。代金を払おうにも、翌周には手元に帰ってくるお金で支払うことに意味はありません。

 それに、書店では手に入って図書館では貸出中の本というのは、そのときの流行りの本が多いと思うのですが、そういう本は感想を誰かと分かち合うという楽しみがなければ、取り分け選ぶ必要がないように思うのです。名作という評価が固まった本を手に取った方が、満足できる可能性は高いでしょう。「時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄にしたくないんだ」。村上春樹の有名な小説にもこんな台詞が出てきます。まあ今は誰にとっても、時間は貴重なものではなくなりましたが。

 そういうわけで図書館へ通う――借りてきた本は翌周には図書館の棚へ戻ってしまいますから、一日で読めなければ否応なく通う羽目になります――ようになった頃、館内には同じような利用者がいました。ほんの数人ではありますが、毎日誰かが本を借りに来ているか、或いはその場で読んでいたものです。

 けれどここ最近は、館内で人を見かけることはめっきり少なくなりました。ここに人がいると、その人もわたしと同じように本を読むことくらいしか今の世界に楽しみがないのだろうと、勝手に共感していたのですが、どうやら違ったようです。

 もしかしたらここに来ていた人たちは、どうしようもなく変化してしまった世界に対応できずに、読書で時間をやり過ごしていただけだったのかもしれません。適応してしまえば、この世界にはこの世界なりの娯楽があります。危険なものや他人を傷つけるものが多いようですが……

 その点、世界の時間が壊れる前から、他に何も楽しめなくなっていたわたしは、彼らとは決定的に違う人種なのでしょう。


 物語というものには、小さな子供の頃から親しんできたと思います。玩具を親にねだった児童向けアニメ。学校の友達と盛り上がったテレビドラマ。どれも懐かしく思い出せますし、幼いわたしはそういったものに大きな影響を受けたでしょう。

 けれどいつの頃かわたしは、これらを楽しめなくなっていきました。映像や絵で語られる物語を拒み、逃避するように活字の海を泳ぐようになったのです。

 兆候は幼いときからあったように思います。わたしは二つの事実に否応なく気づかされました。一つは、わたしが醜く生まれついてしまったということ。

 たとえ両親に愛されて育った子供でも、世間の残酷な視線は突き刺さります。大人が気遣って言わない言葉を、子供は平気で吐きつけます。幼稚園の頃から小学校低学年にかけて、わたしは自分の姿かたちが周りにどう思われているかを学んでいきました。わたし自身が鏡を見て思うだけではなく、他人もわたしを見て醜いと感じることを知りました。

 人は醜さに不寛容です。分別のない子供が醜いアヒルの子を虐めるのはまだ仕方ないと諦められます。辛いのは大人まで子供の容姿で接し方を変えてしまうことです。幼くして確実に醜女になることを運命づけられたわたしに無償の愛を注いでくれたのは両親と両祖父母くらいのもので、親戚は近しい血縁の叔父叔母でさえ奇異の目を隠そうとせず、生徒を平等に扱うべき教師からは肌で伝わるほどの困惑の念を抱かれるか路傍の石ころの如く扱われるのが常で、ましてやすれ違う人々の好奇もしくは嫌悪の視線といったら!

 思春期に近づくと、醜さという呪いは一層自尊心を蝕みます。それまでの人生で突きつけられた事実――自分が異性から求められない存在だということが、とても重大なことだと思い込んでしまいます。それはもうローティーンの女の子にとって世界の終わりのような絶望と言っても過言ではありません

 そしてわたしが気づいたもう一つの事実。それはほとんどの映画やテレビドラマ等のフィクションが、美男美女のものであるという事実です。

 それらに登場する俳優や女優はほとんどが――少なくともわたしの基準では――美しい人ばかりです。たとえ小説を映像化した作品で、原作で美形という設定がない人物でも、演じるのは容姿が優れた人になります。

 そもそもそうした職業の人に美形が多いのでしょうから当たり前の話ではあります。ではなぜ美形の人が多いのか。言うまでもなく、人々がそれを求めているからです。かっこいい男性の活躍を、綺麗な女性の笑顔を、美男美女の恋物語を見たがるからです。誰が銀幕で容姿の劣った女の顔の大写しなど見たいものですか。そんなものは現実で目にするだけで十分です。

 戦争映画のように、世界の醜さを見せつけるフィクションというものは存在しますが、生まれつき醜い女の醜さなど、誰にも需要がないのです。或いは昔のサーカスのフリークスのような類の興味を引き付けることはできるかもしれませんが、大っぴらに醜女を笑いものにするのは現代社会では到底受け入れられないでしょう。

 また、わたしが正にそうですが、そもそも醜い人間は人前に出るのを嫌う者が多いのでしょう。テレビの街頭インタビューなどには絶対に映りたくありませんし、昔学校で演劇発表があったときなどは苦痛でたまらなかったものです。

 とにかく自分の醜さを自覚し、それから画面の向こうの物語から醜さが排除されていることに気付いたわたしは、映画やテレビドラマに熱を感じることが次第にできなくなっていきました。

 そういうわけでわたしには本を読むことくらいしか元々人生に楽しみがないのです。小説の中に出てくる凡庸な容姿或いは醜い人物は、わたしの頭の中で確かにぱっとしない、または醜い人間として動き出します。わたしにはこの想像の中で立ち現れる彼らが、画面の向こうで生き生きと演じる美しい人たちよりもよっぽど真実に思えるのです。

 部屋にこもってひたすらページをめくり、想像の世界に入り浸るというのは、うら若い女の子としては寂しい日々と思われるでしょうか。けれどおかげでこのループする日々でも退屈せずに済んでいます。もちろんいつかはループが終わってくれなければ、人間の精神は無限の時間に耐えられるようには出来ていないでしょうから、どこかで異常をきたすでしょう。ただしばらくは淡々と、静かな日々をこの図書館で過ごせそうです。

 最近では本を借りた後にいちいち自宅へ帰るのはやめました。わたしは醜い自分を愛情深く育ててくれた両親に感謝していますが、こうした閉塞感漂う日々で同じ相手と暮らしていると、息が詰まるものを感じずにはいられません。誰しもがそうなのか、それともわたしが根本的に他者と過ごすよりも孤独を好む人間なのかは判断できませんが、しかし世の中には半世紀以上連れ立って毎日顔を合わせている老夫婦だっているわけです。そうやって長い時の中で絆を育み仲睦まじく生きている人たちには感嘆の念を禁じえません。

 ともあれわたしはこの異常な日々を心穏やかに過ごすことができているわけですが、中にはループする今日に耐えられなくなって、一日の始まりと同時に自殺する人もいるそうです。彼らのうち多くは死を体験した恐怖から再び自殺することは躊躇しますが、中には心が壊れたようにひたすら自死を繰り返す人さえいるとか。自殺を罪とする宗教の信者もいたらしく、どれだけ追い詰められていたかを思うと胸が痛みます。

 この図書館の膨大な蔵書のおかげで退屈とは無縁なわたしでも、全てを放り出して死という虚無に逃げ出したくなる気持ちはわかります。ですがわたしは、少なくとも日課を終わらせるまでは死ぬわけにはいきません。


 日課といえば、毎日同じことを飽きもせず繰り返している人というのはどこにでもいるようです。

 それを知ったのは、カナダの著名な格闘家が銃で撃たれて重傷を負ったというニュースからでした。わたしはまず、主にアメリカで開催されているという過激なルールの格闘技大会というものに衝撃を受けました。世界中に火種を振りまいている国とはいえ、先進国の代表であるアメリカでこんな野蛮な催しが開かれているなんて。人間は一皮むけば野蛮で残忍なものかもしれませんが、いくら翌周になれば怪我が治るといっても、お金が必要なくなった世界でわざわざ痛みを伴う殴り合いに興じる男たちの姿は理解に苦しみます。あまつさえ女性の出場選手までいるという話でしたから。

 撃たれた格闘家というのは先日その大会に出たばかりのチャンピオンでした。その人は驚いたことにルーパーになってからも格闘技の練習をずっと続けていました。

「身体は鍛えられなくなっても、技術は磨ける。世界がこんなふうになっても、アスリートとしての向上心は持ち続けたい」

 そう語っているそうです。殴り合いをスポーツと考える感性はわたしには理解できないのですが、周囲からの誘惑に流されず、諦念や無気力に負けずに、やるべきと思ったことをやるストイックな姿勢は素晴らしいと思います。

 しかしそのニュースで最も驚かされたのは、彼には左手がないという事実です。

 事故で片手を失ってなお戦いを求める生き方はわたしには空恐ろしいものに思えますが、多くの人が彼のそうした姿に勇気をもらっているというのは理解できます。

 ただ大っぴらには言いにくいことですが、わたしは左手を失ったという彼をあまり気の毒に思わないのです。

 片手でも第一線で戦える姿を見せて観客を熱狂させている彼が、不断の努力で今の地位を築いたことは想像に難くありません。けれどそれも人並み外れた才能を持って生まれた故でしょう。彼と同じくらい努力して、同じように犠牲を払って、そして両手を使える格闘家が、しかし才能がなければ彼の前で何もできずに敗れ去るでしょう。その場合、両手のある凡才の格闘家は、片手のチャンピオンより幸福な人間だと言えるでしょうか?

 生まれつき豊かな才能を持っていたり、容姿に恵まれていたりする人は、片手を失うくらいの不幸では真の絶望を味わったとは言えないのではないか。そんなふうにさえ考えてしまう自分が嫌になりますが、人から大きく劣った姿で生まれ、それを四六時中意識してしまうわたしには、トップアスリートや人気俳優のような輝ける人々は左手を事故で欠損してもなお恵まれた人間でしかないのです。

 もしも美しく、いえ、せめて十人並みの容姿で生まれてついていたら、こんなことは微塵も考えない人間になれたのでしょうか。ああ、美しく生まれ変わることができるなら、左手くらい喜んで切り離してみせるのに!


 話が脱線してしまいました。銃撃事件の話でしたが、わたしがもう一つ興味を引かれたのは撃たれた後の格闘家の反応です。地元の路上で撃たれて重傷を負った彼は、痛み止めの処置ができるまで時間がかかるから、いっそとどめをさして楽にしようかと聞いてきた友人に、こう言ったそうです。

「今日が最後かもしれないんだぞ。脚を折った競走馬のように安楽死させてもらって、今日でループが終わったら? そのまま死にっ放しだ。明日も明日が来ないなんて保証はないんだ」

 わたしは続報を見ていないので、彼がその日重傷のまま生き延びたのか、或いは一度死んだのかは知りませんが、どちらにせよループは終わらなかったのだから長く苦しむ必要はありませんでした。ただそれは結果論であって、突然始まったループ現象が突然終わって明日がやって来るという可能性は常にあるという主張は間違ってはいません。

 わたしを含め、まだ見ぬ明日のことを考えなくなって久しい人が大勢います。そんな中、まだ明日を諦めていない人がいることがわかって、毎日の祖母の見舞いに倦んでいたわたしの心が少しだけ軽くなった気がしました。


 それにしても、明日が来ないで今日が繰り返されるというこの現象の正体は一体何なのでしょう?

 多くの人が議論を繰り返してきた話題ですが、未だに答は出ていません。

 まずステイヤーからルーパーになる条件がわかっていません。ループ初期の頃は、ある人がルーパーになると周囲の人にもそれが「感染」し、周りにもルーパーが増えていくという仮設がありましたが、ルーパーが地理的に離れた世界中で同時期に発生したことが判明するとその仮説は廃れました。一部では世界がループしているという認識が広まることによってルーパーが増えていくというミーム汚染説なるものも提唱されましたが、ループのことなど知らずにルーパーになる者も多かったことから、今では戯言として一蹴されています。

 そもそもルーパーとは何か? 世の中にルーパーが増え始めた頃は、世界がループしていることを認識できるようになった人と解釈されることが多かったようです。

 世界最初のルーパーと名乗る人が一応知られていますが、あくまで自己申告ですし、周囲にステイヤーしかいない状況では誰かの記憶に残るような行動も取れません。だからこの人が本当に最初のルーパーであるかどうかには懐疑的な人も多いようです。

 初期のルーパーということが周囲の証言等から証明でき、かつ日本で一番有名なルーパーといえば、ご存知「警察のファースト・マン」でしょう。全国の警察組織の人間に聞き取り調査をしたところ、一番早くからループを認識していたというあの警察官です。

 まだ周囲の誰もループに気づいていなかった時期。徐々にループを認識する人間が出始めて新たな事件が起こるようになった時期。世間にループの存在を訴える人間が増えてきて情報が共有され始めた時期。モラルのタガが外れて快楽犯罪に手を染める人間が次々現れた時期。彼はそうしたループによる世界の変遷を見続けてきました。

 起きたことを記憶できる警官が他にいない時期から、たった一人各地で起こる新たな犯罪の情報を集め続けてきたそうです。メモも電子データも残せない世界で、記録に頼らず捕まえるべき悪を記憶に刻み続けた――正に警官の中の警官と呼ぶべき方でしょう。

 日本の警察の象徴になったファースト・マンは、今でも毎周のように秩序の維持のために奔走しているそうです。ところで今でこそ警察官も交代で休みを取るのが当たり前になりましたが、彼がルーパーになってからしばらく経った頃には、そんな余裕などない日々が続くようになっていました。ファースト・マンがルーパーになった日から数えて驚異の百五十連勤を達成した逸話はあまりにも有名です。

 警視総監直々の通達でファースト・マンに初めての休日が与えられた日。記憶が残らないのをいいことに連日休みなく働かされていたステイヤーの警察官にも、交代で休日を与えるという発表がされました。

 わたしはこのステイヤーの警官たちが示唆するものについて考えさせられます。

 確かに一日働き通しでもそれを憶えていないせいで、ステイヤーの警官は連日延々と働かされてきました。

 一方でルーパーになった警官は、終わりのない仕事に耐えられなくなると自主的に休みを取ったり、ナイト・コールの招集に応じなくなったりしたそうです。

 単純に考えれば全く自由を与えられずにこき使われているステイヤーの警官の方がかわいそうに見えますし、だからこそあの混沌とした日々でもステイヤーの警官に休日を与えるべきという声が市民から上がったのです。

 ですが、この場合不幸なのは本当にステイヤーの警官の方でしょうか。

 ルーパーの警官が休んだりサボったりしたのは辛い日々に耐えられなかったからです。けれどステイヤーの警官はどれだけ疲れても、犯罪者との戦いで傷を負っても、ひどいものを見ても、一日で記憶がなくなるのです。だからそもそも休みたいとも思いません。つまり警察官に関しては、ルーパーになってループを認識できるようになったからこそ不幸になったとも言えるのです。

 ステイヤーからルーパーになるということは、何も憶えることができない弱者の立場でいることから、記憶を蓄積できる有利な側へ立てるようになるということです。それは多くの人にとってよいことであり、ステイヤーに対して優越感を隠さない人も多く見られました。

 しかし記憶が消えないせいで、不幸な事件に巻き込まれた場合は心の傷が残ることになります。これから永遠に続くかもしれない今日に心底恐怖と絶望を感じるのも、実際に何度も何度も今日を過ごした記憶を持つが為でしょう。

 記憶が残らなければ、どんなに酷い目に遭おうと、この世が無間地獄になったと説かれようと、絶望は一日でリセットされるのです。

 嫌なことがあっても憶えていない認知症患者は幸せだ。それと似たような詭弁に聞こえるでしょうか? でも実際精神に異常を来たして自殺を繰り返しているのは、わたしがニュースで知る限り全員がルーパーです。少数ながら今でもルーパーになることなくステイヤーのままでいる人がいますが、彼らは犯罪の標的にされることはあっても、ループについて知ったことで悲観して自殺したという話は聞きません。

 ルーパーが増え始めた頃、ルーパーになることを「覚醒」と表現されることがよくありました。ルーパーになれるということは、世界の真実を認識できる特殊な力を得ることだと、そんなふうに思われていました。けれどその力は呪いなのではないか? そう考える人が日に日に増えてきて、ループに対するもう一つの解釈が流行り始めました。

 世界はループなどしていないという解釈です。ループという現象は、ルーパーの脳内でのみ起きている。更に言えば、ルーパーというのは病気にかかったようなものであり、ループというのはその症状に過ぎないのだと――つまりステイヤーからルーパーになるのは悪いこと、歓迎せざることだというのです。

 

 この解釈の根拠としてもっともらしく語られるのが、国際宇宙ステーションからの報告です。

 大気圏外の宇宙空間で過ごしていた宇宙飛行士たちにも、ループ現象は等しく襲いかかりました。一人、また一人とルーパーが増えていき、今ではISSの宇宙飛行士全員がルーパーになっているそうです。わたしが以前読んだSF小説に、地球が突如巨大な黒い膜に一瞬で覆われてしまい、地球の時間が進むのが外の宇宙の一億分の一の早さになってしまうという設定のものがありました。その小説では膜の外に取り残されたISSの宇宙飛行士たちが、一週間悩んで真っ黒な地球に突入したところ、地球で数秒しか時間が経っていなかったことがきっかけになって宇宙と地球の時間の進み方が違うことが発覚するのですが、我らがループは地球外でも変わりなくその効力を発揮しているようなのです。この現象が及ばない範囲というものがある可能性を検証するため、二十四時間で行けるだけ遠くの宇宙へ飛ぶという計画もあったようですが、本当に時間の輪の外へ飛んでいけたとしてもそのまま帰還できなければ本末転倒というものですし、その成果を誰にも伝えられないのでは意味がないということで却下されたようです。

 ともあれこのループ現象が地球外まで広い範囲で起きていることは間違いないのです。こんな奇想天外な宇宙規模の物理的現象がありえるでしょうか? 現に起きているではないかと言われるかもしれませんが、これが人間の精神だけが時を遡っていると考えれば、もう少しありえそうに思えます。

 それなのになぜ世界がループしているという考えの方が昨今まで主流だったのか。おそらくルーパーが少なかった頃は、彼らは圧倒的に自由な特権階級であり、自分たちを時の牢獄に囚われた悲惨な存在とは考えなかったからでしょう。いつか再び時間が正常に動き出すまで、自由を謳歌すればいいとでも考えていたのではないでしょうか。

 世界全体がループしているか、或いは人間の精神とか脳とかがタイムリープを起こしているのか。どちらだろうとわたしたちルーパーが刑期の知れない囚人だという事実は変わりないように思えるのですが。


 そもそも時間とは何か、わたしたちはどうやって時間の流れというものを認識しているのか。そこまで考えなければこのループという現象を突き詰めて考えることはできないでしょう。でもそういうアプローチは専門家の物理学者の先生方の仕事でしょうから、わたしなどにはとても手が出せません。

 わたしにできるのはつまらない妄想くらいです。ふとしたときに考えてしまうのは、この現象が何者かの手によるものである可能性です。誰もが一度は考えたでしょう。神の御業か、或いは宇宙人の仕業か。

 神の罰か神々の悪戯という想像は、わたしにはあまり魅力的ではありません。愚かな人類への罰や右往左往する人々を見て楽しむのが目的なら、第二次世界大戦の途中とか、もっと相応しいタイミングがあったでしょう。今日この日が繰り返されることに何か意味があるとは思えません。

 宇宙人の実験或いは攻撃というのは、それよりもずっとワクワクさせてくれます。たとえば時間というものについて人類とは異なる認識を持った地球外生命体。これもまたSF小説で目にしたことがあります。月の裏や木星の輪やエッジワース・カイパーベルトに、ヘプタポッドやギタイのような何者かが潜んでいて、時間の輪に閉じ込められたわたしたちを観察していたら――こういう妄想は病院や図書館へ移動するときの退屈を紛らわせてくれます。


 ループという現象が起きてからは、それまで信仰を持たなかった人が神を信奉するようになることが増えているそうです。誰もが奇跡を目撃しているわけですから、それも無理ないことと思えます。

 わたしは多くの人に禍をもたらしたループを奇跡とは考えませんし、前述のとおり神の御業とも思いません。ただ奇跡と呼べるような出来事は世の中に確かに存在するとも思います。

 というのも、先日わたしの身に正にそう呼ぶに相応しい出来事が訪れたからです。

 図書館を訪れる時間、わたしはいつの頃からか必ずある番号に電話をかけるようになりました。既に五十周以上続けていた習慣でした。

 祖母が入院しているのとは別の、とある病院への電話です。それまでは一度も目的の人物が電話に出ることはありませんでした。

 けれどその日、不意に受話器を取る音がして、わたしの心臓は高鳴りました。

「はい」

 電話に出た女性はそれだけ言って沈黙しました。

「あの……あなたが『魔女』と呼ばれてる方ですか」

 更に沈黙が続きました。目的の人物ではなかったのかと諦めかけたところ、

「魔女狩りなら時間の無駄だけど。私は今まで八回殺されたけど、世界は相変わらずループしてるようだから」

 呆れたような声。彼女に間違いありません。

 その女性はかつてわたしと同い年の娘を持つ母親でした。

 報道で写真を見ましたが、わたしと違って可愛らしく、人の目を惹きつけるような少女でした。しかし美しい花は害虫も惹きつけます。美は必ずしも幸福をもたらすとは限らないということを、わたしのような人間は忘れがちですが、ああいったニュースはそうした事実を否応なく思い出させます。

 わずか十四歳で、彼女は尊厳と命を奪われました。奪ったのは、それだけの罪を犯しても極刑に処すことができない、まだ十六歳の男でした。

 わたしが電話した女性は、娘の復讐を誓い、ある日ついに仇を討つことに成功しました。

 それから彼女は毎周、復讐を続けています。

 あなたも聞いたことくらいはあるでしょう。この世界がループするきっかけになったと、一部でまことしやかに語られている女性です。

「いえ、そんなんじゃないんです。わたしはただ……あなたと話をしてみたかった」

「話? ……ここで電話が鳴るのを聞いたのは四度目だけど、今までのもあなたが?」

「はい、この時間に鳴らしていたのはわたしです。確か五十周以上」

「最近は病院の中へ入らない日が多いから――知ってるかもしれないけど、しばらくあの男を自分の手で殺してないの。大抵は病院に着いたときには、もうあの男は死体になってる。屋上から身を投げてね」

「……病院の夜勤の人が起こしてるそうですね」

 一日の始まり――日本時間午前三時十一分に眠っていなかったおかげで他者に先んじて行動できる人間は、いつの頃からかナイト・ウォッチと呼ばれています。どこかの学校の生徒の間で使われていたのが広まった言葉だそうです。

「でも逃亡には手を貸さないんだけどね。看護師さんもあんな男をそこまで助けたいとは思わないのかも。それに頭のおかしい殺人鬼に逆恨みされる可能性もあるしね」

 自嘲的な言葉とは裏腹に、彼女の口調には後ろめたさのようなものは一切ありません。

「あの男からすれば、一日中恐怖に耐えながら逃げ隠れするくらいなら、いっそ楽な死に逃げたくもなるでしょうね。私も昔、ループが終わらないかと思って飛び降り自殺を試してみたけど、少なくとも私に殺されるよりは苦しくないはずだから」

「……それでも毎日行くんですか。手を下さなくても娘さんの仇は勝手に死ぬのに」

「行くのをやめたら、いつかそのことをあの男も知ることになる。そしたらあの男も自殺しなくなるだろうけど、もしそんな日にこのループが終わってしまったら? 最悪あいつを殺せない可能性だってあるでしょ」

 ある意味では、この人もループが終わることを諦めていないようです。

「あなたは、自分がループを作り出した元凶って話をどう思いますか」

 彼女に会うことができたら、これだけは聞いてみたかったことです。

 自分の復讐が世界を巻き込んでしまったとしたら、どう思うのか。

「私が娘の仇を殺してから自殺しても、この現象は終わらなかった。そのことは散々報道されてたけど、それなら先に私を殺して、目的を果たすのを阻止したらどうなるのか試そうとした人もいた。そういう人たちにもう八回も殺されて、一度なんて中世の魔女狩りみたいに火あぶりにされたけど――あれは本当に苦しかった。もしあなたが死にたくなっても焼身自殺だけは絶対にしないでね」

 死にたいと思ったことは何度もありますが、手段として焼身自殺を考えたことは一度もありません。昔チベットの僧侶たちが中国共産党の激しい弾圧に抗議するため焼身自殺したニュースを目にしたことがありますが、命懸けで訴えたいことでもなければ人は普通焼死で人生の幕を引こうとは思わないでしょう。

「まあそうやって魔女を焼き殺しても、ご覧のとおりループは終わらなかった。監禁されて奴を殺せないまま一日が経ってしまったこともあるけど、結果は同じ」

「……どこでも野蛮な人はいるんですね」

「それか野蛮でなかった人が恐怖と混乱で変わってしまったのかもね。私はね、私を殺した人たちを恨む気はないの。だって私は暴徒に焼き殺されても仕方ないような人間だから」

「でもあなたは、娘さんの仇を討っただけです」

「そしてそれ以外の全てをどうでもいいと思ってる。もし本当に私がループを終わらせることができたのだとしても、気の済むまであの男を苦しめてからにしたはず。その間に世界が燃え上がろうと知ったことじゃないってね」

 やはりこの人は狂人なのだと思いました。娘を殺した犯人をゆるす必要はないと思いますが、それでも多くの人は世界を巻き込んでまで凄惨な復讐を続けようとはしないでしょう。

「だからね、私とあなたは決定的に違う。私に比べて、『死の天使』のなんて優しいことか」

 わたしは息を呑みました。魔女の口からその名前が出るとは思いもしませんでした。

「――知っているんですか」

「ニュースくらいは見るからね。似た事例は世界中で起きてるようだけど、医者でも看護師でもないのに、病院中の希望患者全員を助けてるのはあなたくらいじゃない? なんて献身的な子なんだろうって思ってたの」

「わたしがそうだって、気付いてたんですね」

「魔女とどうしても話をしたがる人間なんて、他に思いつかないもの」

 確かにわたしがただの孤独で醜い少女だった頃なら、殺人犯に接触しようなんて恐ろしくてできなかったでしょう。

 だけどわたしは以前のわたしではないし、二度とあの頃の自分に戻ることはできないのです。


 祖母は末期がんでした。

 病状について詳しいことは知りませんでした。わたしは知ろうともしていなかった。

 祖母の苦痛について、詳しく知るのが怖かった。

 世界がこうなってしまう数日前にも、わたしは母に連れられて祖母の病院を訪れています。乗り気ではありませんでした。その頃、もって一、二週間と医者に告げられていた祖母は、ただもう苦痛に呻くばかりで、会話を交わすことなど到底できないどころか、わたしたちの呼びかけをどこまで認識しているかもわからない状態でした。それでもわたしたちが顔を見せると、祖母の目に何か安堵や喜びの色が見えたような気がしていました。けれどそれは自分への慰めに過ぎなかったかもしれません。死そのものがゆっくり拷問のように身体を蹂躙する苦痛に耐える祖母のために、わたしにできることなど何もないのだという現実から目を逸らすための。

 わたしがルーパーになってから、祖母のことに思い至るまで、恥ずかしながら五周ほどかかりました。ステイヤーだった頃、テレビや周囲からこの状況を説明されていたはずの時期のことは当然記憶にはないわけですが、おそらくわたしはただ混乱し、呆然とするばかりで、病床で苦しみ続ける祖母のことなど思い出しもしなかったのではないでしょうか。

 祖母が既にルーパーになっているとしたら。

 繰り返される日々の中で苦しみ続け、絶望の底にいるはず。そのことに気が付いてからも、わたしの足はすぐには病院へは向かいませんでした。

 行ってもできることがないからではありません。わたしにできることは一つしかないと、心のどこかで既にわかっていたからです。

 ある日ついに決心して病院へ向かいました。そして病床の祖母と向き合いました。わたしはループのことを淡々と話しました。その日は呻き声以外の祖母の声はほとんど聞けませんでしたが、反応から祖母も既にルーパーになっていることはわかりました。

 苦しみ続ける祖母を前にして、尚わたしは迷い続けました。一時間か二時間か、けれど実行せずに去るわけにも、一日の「終点」の午前三時三十二分まで手をこまねいて突っ立っているわけにもいきませんでした。

 具体的な方法は記しません。それは重要ではないと思いますから。

 わたしは苦しませず、祖母を送り出しました。それで十分でしょう。

 こうした表現を偽善的だと言うなら、祖母を殺したと言い換えても構いません。大事なことは、わたしが、わたしだけがやるべきことをやったということです。少なくともここにはわたしの代わりにそれをしてくれる医師や看護師はいません。

 祖母は最初から抵抗を示しませんでした。孫娘に手を汚させることを厭わない祖母などいるはずがありません。それでもわたしの手で死ぬことを、解放されることを受け入れた。どれほどの苦しみの中にいたのでしょう? 今までどれだけの辛さに耐えてきたのでしょう? わたしには想像もできません。

 わたしたちは病に倒れ、死を待つだけの人々の苦しみに、あまりに無頓着なのではないでしょうか? 末期がん患者に限らず、一体この世界にただ苦しむだけの生を生かされている人がどれだけいるのでしょう? 彼らの苦痛を終わらせることが認められないのはなぜなのでしょう? 人を無理矢理にでも生かしておかなければいけないのが当たり前になったのはいつの時代からなのでしょう。もしかしたら大昔の、戦争が日常の延長にあったような時代なら、例えば助からない傷を負った戦士は仲間たちに楽にしてもらうことができたのでしょうか。傷つき倒れた仲間に請われてとどめを刺すことは、苦しむ病人を何もできずに悲痛な面持ちで見下ろすことより、野蛮で生命を尊重していない行為なのでしょうか。苦しむ人を黙って見ていることが、野蛮な時代よりも進歩した世界の倫理だというのでしょうか。

 自分の行為を間違ったものとは考えなくても、殺人とは、ましてや肉親を手にかけるということは、自らをも激しく破壊する行為でした。ですがここで長々と、初めて人を殺したときの心の痛みを語ることはしません。そんなもの、結局のところ祖母の肉体の痛みに比べれば取るに足りないものなのです。

 かつてはこの国も戦争をしたことがあり、そこで敵兵や、時には民間人を殺めた兵士も大勢いました。多くの兵士が戦後罪悪感に苛まれたでしょうが、それでも多くの人は精神を深刻に病むこともなく日常に帰っていきました。必要に駆られての殺人によるトラウマなど、わたしに言わせればその程度のものです。人間が生物である以上、単純な肉体的苦痛と同族の生命を奪う心の傷、そのどちらを回避したいかと問えば自ずと答は出るのではないでしょうか。心の傷が身体の傷より重いと言う人は、体の傷は治って痛みがなくなるという前提でものを言っていませんか? 決して治ることのない、永遠に続くかもしれない身体の痛みにも耐えられると思いますか?

 祖母を見舞うことにも慣れていき、それが日常になってくると、病院で同じように苦しんでいる人々が気になって仕方なくなりました。わたしは院内を回り、意志の疎通ができて苦痛に苛まれている患者を、彼らの了解を得た上で解放してあげるようになりました。今ではみんな、毎朝のわたしの来訪を心待ちにしています。

 誰もわたしを止める者はいませんでした。ただ見ないふりをして、精々がニュースのネタに取り上げるくらいです。

「死の天使」とは、そんな中でいつの間にかわたしについていたあだ名です。


 カナダ人の格闘家の言葉を思い出します。――明日が来ないなんて保証はない。仮に今日が最後の今日で、明日が来るとしたら――仮にそれを知ることができたとしても、やはりわたしは病院に向かうでしょう。ループが終わっても、誰かが終わらせてあげなければ、祖母の苦痛に満ちた生はまだ一週間以上も続きます。わたしにはもうそれを無視することはできそうにありません。

 本当にループが終わる日が来たとしたら、病院には蘇らない遺体がいくつも残されることになります。わたしが手を下した物的証拠はいくらでもあります。正常に戻った社会では、わたしはすぐに逮捕されるでしょう。

 その場合の罪状などがどうなるのかは、状況が特殊なので何とも言えない気がしますが、別に刑務所に入れられることを怖いとは思いません。どうせわたしは本を読むことしか楽しみのない人間ですから、閉じ込められることはそれほど苦にならないでしょう。

 ただ痛みの信号を発し続けるだけの肉体という牢獄。そこに閉じ込められている病人の苦しみに比べれば、懲役刑など何ほどのものでもありません。


「今では魔女よりあなたの方が知られてるんじゃない? あなたの方が関係者が多いから」

 彼女が日々何をしているかわたしが知っていたように、彼女もわたしが毎日していることを知っていました。いつの間に随分有名になっていたようです。

 わたしがこの人と話してみたかったのは、わたしも彼女も理由は違えども毎日殺人の罪を犯し、それをこれからも続ける気でいるからです。そんな人間が世界に何人いるでしょう。

「『死の天使』、素敵な名前ね」

「そのあだ名を付けた人は、わたしの顔を見てないんでしょうね。こんな醜い女に天使なんて……」

「あなたが醜い? とんでもない」

 そして彼女はこう言いました。まるで自分の娘に説くように優しい声で。

「この何をやっても取り返しがつく世界で、みんなが自分の欲望をさらけ出すことばかりしてる中で、あなたはずっと自分が正しいと思うことをし続けてきた。家族のために。他人のために。こんな美しい生き方をする人間が醜いはずないじゃない」

 両親はわたしの行為を知ると、腫れ物にさわるような態度を取りました。強く非難することも、慰めることもしない。ただ理解できない恐ろしいものを見るように、わたしに接しました。だからわたしはなるべく早い時間に家を出て、一日の終わりまで戻ることもほとんどなくなりました。暗い時間に外をうろつこうが、わたしほど醜いと性犯罪の被害にも遭わないようです。

 わたしと祖母は、今やいないものとして家族から扱われています。

 そんなわたしを、彼女は肯定してくれました。

「ループする世界で私が出会ったものの中で、あなたの心より美しいものなんてなかったわ」

 どんな理由があろうと、他を一切顧みず、来る日も来る日も人を拷問し、殺すことを目的とする人間は狂人と言えるでしょう。怪物と戦う者は、その最中に自ら怪物にならないよう気をつけなくてはならないという言葉がありますが、彼女は正にそうやって怪物になってしまった哀れな人なのでしょう。

 けれどその怪物の言葉が、乾きひび割れた地面に染み込む雨のように心を救う、そんな奇妙な奇跡も世の中にはあるのです。


 彼女と言葉を交わしたほんのひと時が終わると、もう認めるしかありませんでした。わたしは本当は、誰かとつながりたかったのです。

 昔読んだお気に入りの短編小説に、シオドア・スタージョンという人の書いた「孤独の円盤」という作品があります。これが収録されている短編集を古書店で見かけたとき、知らない作家の知らない本であるにもかかわらず、棚から私のことを呼んでいるような気がしたのです。本との出会いには時にこういうことがあります。

 このスタージョンという人は三回も結婚したくせに、孤独な人間をとても上手く描写します。「孤独な円盤」に登場する女性のことは、折に触れて友人のように思い出します。

 この小説を読んでから一度は試してみたいと思っていたこと――瓶に手紙を詰めて海に流すこと――を、ついに今日初めて実行しようと思います。

 といっても本当に瓶を流すわけではありません。海まで出かけて流そうと、たった一日では誰かの下に届くことはないでしょう。

 だからわたしはネットの海に流すことにしました。それが今あなたの読んでいるこの文章です。

 アマチュアの書き手が集う小説投稿サイトというものがあることは知っていましたが、今ではそうしたサイトは有名なプロの作家も数多く利用しています。世界がこうなってからというもの、何せ書いたものを保存することができませんから、小説家たちはどうすれば自分の作品を発表できるか考えました。結局一番いい方法は、事前に宣伝して、少ない読者のために毎周或いは定期的にウェブ上で連載することでした。前回までの分を読み返すことができない読者はそれでもファンだった作家の新作を喜び、あらすじやメモさえ書き残すことができない作者はそれでも新たな物語を語ろうという試みを止めません。本好きの一人として、敬愛すべき人たちです。

 わたしは彼らの輪に入って自己紹介がしたいのかもしれません。

 ここまでの文章を一日で書き上げられるように、何を書きたいのか、どう書くのかを頭の中で思い描き、何度も下書きを繰り返してきました。そして今日、今これを読んでいるあなたの目に留まることができました。

 或いはわたしは誰かに届くまで、翌周も翌々周もこうして一気にわたしの物語を書き上げ、放流するのかもしれません。

 今ではプロの人気作家が多数連載しているサイトで、新参の素人が書いた短編が誰かに読んでもらえる可能性は低いでしょう。いわば大海原を漂い続けるちっぽけな瓶。

 でも時間が壊れるという異常な奇跡が起きているわけですから、わたしの書いたものが誰かに届くくらいの奇跡は起きてくれるように思えます。

 ともかくあなたがこれを読んでいるということは、手紙を詰めた瓶が誰かの下に流れ着けたということです。できればあなたが孤独な人で、この小説と呼ぶほどのものでもない、ひとりの人間の話から何かを感じてくれたらうれしい。

 わたしは一日の終わりに、自分が投稿したこの文章に、誰かが感想のコメントを送ってくれていないか確認するでしょう。もしそこに肯定的な意見が一つでもあれば、今度は別の物語を書いてみたい。小説と呼べないような拙い出来にしかならないとしても、自分が想像して生み出した物語を綴ってみたい。

 たぶんわたしが描くのは、青春のきらめきも、胸が弾むような恋も、将来の夢も登場しない、灰色の物語です。でもそんなものに救われる人も世界のどこかにはいるのではないでしょうか? 殺人者が殺人者に魂を救われることがあるように。

 寂しい誰かや醜い誰かが、わたしの物語をほんの少しの心の慰めとしてくれたら、それはとても幸せなことです。人と交わることをせずに本の海に溺れているわたしにも、誰かとつながることができるとしたら。

 今日のところはこのくらいで限界のようです。一日の「終点」に近い時間に投稿しても誰の目にも触れませんから、そろそろ瓶を放り投げなくては。時刻は午後九時。誰かに届くことを願って、「公開」ボタンを押します。

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