第2話 ナイト・ウォッチ

 いつもどおり夜明け前に目が覚めたあたしは、身体のダルさとまだ現実感のない意識に引っ張られるように、また目を閉じて心地よい二度寝に落ちていき……いや落ちちゃダメだ! 起きろあたし! 睡魔をぶっ飛ばすような奇声を発しながら! 上半身を無理やり起こす! きえぇぇぇぇぇあぁぁい! 今日は剣道の試合中のかけ声を意識して自分を奮い立たせてみた。もっとも剣道なんてやったこともなければろくに試合を見たことすらなかったけど。朝からこんな奇行に走りたくないけど、こうして大声でも出さないと眠気に打ち勝ってベッドから出られそうもない。もっとも起き抜けだから出そうと思ってもそれほど大声は出なかったけれど、向かいの部屋のお母さんとお父さんが飛び起きるには十分な音量だったと思う。でもまあ世の中がこんなことになっちゃったことだし、あの人たちだって早く起きるに越したことはないだろう。あたしのように、眠っていては自分の身を守れないという強迫観念を持っているわけではないとしても。

 早起きして一日が長く使えるのは得だと初めの頃は思っていたが、日の出までの時間はすぐに退屈と眠気との戦いでしかなくなった。この両方を吹き飛ばすためには、武装して暴漢を警戒しながら外を歩くのが効果的かもしれないが、その危険を犯すくらいならそもそも家で寝ていた方がまだ安全だろう。

 スウェットからホットパンツに履き替えて、一階のキッチンに降りてペティナイフをポケットにしまう。玄関横の棚から工具箱を取り出して、本来の用途で手にしたことは一度もない金槌とレンチを取り出す。護身用の防犯スプレーというやつ、あれを元々持っていなかったのが悔やまれる。

「あたしみたいなかわいい女子高生は、普段から持っとくべきだったんだよな」

 空が明るくなる前に起きて一人で過ごすようになってから独り言が多くなった気がする。自室に戻ろうとすると、階段でお母さんとすれ違った。お母さんは眠そうな顔で、ポケットから覗くナイフの柄と両手の工具を見て眉をひそめたが、それには触れずにおはようと挨拶しただけだった。お母さんはあたしが毎朝自衛のために武器を準備するのを快く思っていない。お父さんも武器を持つ人間は流言飛語に惑わされて不安を煽られているのだと言う。甘い人たちだ。少なくともあたしと同じ花の女子高生たちの多くは武装するのが当たり前になっているというのに。

 部屋に置いてある通学鞄の内ポケットに工具を放り込み、上のスウェットを脱いで制服に着替える。下にホットパンツを履いていることを除けばいつもの通学スタイルだ。世界が変わってしまってもあたしたちはみんなで同じ制服を着ている。これも武装の一種なんだと思う。団結して自分たちの敵と戦う決意を周りに見せつけるため、あたしたちはあえて制服を身にまとう。それが変質者の標的になりかねないとしても。

 眠気覚ましに冷水で洗顔した後はメイクというもう一つの武装もばっちり決めていたのだが、段々それを無意味だと感じるようになり、ついに今日からは顔面非武装で一日を戦おうと決めていた。久しぶりのノーメイク登校はやや心細いが、鏡を見ると――うん、すっぴん千夏ちかちゃん十分かわいい! こりゃあ無法地帯になってる外を安全には歩けそうもない。参るね。

 用意が出来たから、迎えが来るまで時間を潰さなくてはならない。退屈しのぎに小学校の卒業アルバムを引っ張り出してみた。将来何になりたいかをみんながそれぞれ三つずつ書いたページがあった。自分のを見ると、お嫁さん、セレブ、首相。

「うわぁ、つまんねー。小学生が書いたにしても寒すぎ」

 中学のときの進路希望調査には、確か専業主婦、OL、公務員と書いたはずだ。真剣に考えていないという点では小学生のときと変わらなかった。空白で提出すれば突き返されるのだから、将来やりたいこともなりたいものも別に思いつかなかったあたしには他に書きようがなかった。

 進路調査で何を書こうと、みんな高校へ進学するというのは変わらなかった。けれど高校生になると、もう将来のことを何も考えないではいられなかった。周りはほとんどが進学するし、あたしだって学力的にはそれなりに選択肢があったが、大学へ行くならそれから先のことも少しは考えた上で決めるべきだろう。けれどあたしには、その先というやつがまるで思い浮かばなかったのだ。

 あの頃は未来について考えるのが憂鬱で仕方なかった。高校生活がずっと続いてくれればいいのにと、そんなバカなことを考えていた。

 今となっては、どんなに待ち望んでも明日はやって来ない。


 いつもの時間に電話が鳴って、すぐ切れた。窓から覗くとマイセンが自転車にまたがっていた。あたしは鞄を持って外に出た。

「おはよ。連絡ありがと」

 マイセンがいつものようにみんなをモーニング・コールで起こしてくれたのは、何人かのSNSを見て確認していた。

「いいさ。これも『ナイト・ウォッチ』の務めだからな」

 マイセンは少し空想癖があるというか、オタクでちょっとイタいところのある奴だし、痩せてひょろっとした体格はちょっと、いや全く頼りがいがない。それでもマイセン流に言うところの夜を見張る者ナイト・ウォッチが味方にいることの恩恵は計り知れない。大層な呼び方だが、単にたまたまこの日夜更かししていた人たちのことなのだから恥ずかしくなる。「徹夜組」とでも呼んでおけばいいものをナイト・ウォッチとは……大体この男は筆記用具をドイツ製で揃えていたり、アウトドア趣味もないくせにクロノグラフの腕時計をはめていたり、壊れてもがぶ飲みしても元どおりになるからと高級なティーカップや紅茶を持ち込んでみたりと、いちいちかっこつけ野郎なのだ。

 けど悪い奴でないのは確かだ。それに何と言ってもある一点で信用できる。

 マイセンはあたしよりも周回者ルーパーになったのが遅いのだ。

 被害妄想と言われようが、あたしは自分より先にルーパーになっていた男は誰も信用することができない。

「何かおもしろいニュースあった?」

 物置から自転車を出しながら聞く。マイセンは毎朝この時間に迎えに来るまでは、ネットで世界中のニュースを漁っている。

「別におもしろくはないが、例のアイドル暴行未遂事件の犯人が、ついにファンたちに許されたらしい」

「ファンが何人か集まって、毎朝殺しに行ってたやつ?」

 その話なら聞いたことがあった。あたしたちよりずっと早くルーパーになっていたとある男が、その男の主観で四周目に欲望を爆発させ、自分がファンだったアイドルを襲おうと、彼女の自宅(そもそもなんで住所を知っている?怖!)に押し入った。だがアイドルの方はちょうどその数周前からルーパーになっていて、TVで見せる天真爛漫な姿とは裏腹に頭の切れる女だった彼女はそういう輩への対策もばっちり検討済みだった。踊りの振り付けを練習するように鏡の前で何度も試した催涙スプレーからのブラックジャック――重ねた靴下に硬貨を入れて作った鈍器――振り下ろしコンボが見事に、一階の窓を破って侵入し二階の彼女の部屋へ踏み込んできた男を悶絶させた。その後動かなくなるまで男の身体を蹴り、踏み続ける――ということはアイドルの世間体もあってかできなかったらしいが、とにかく彼女は完璧な立ち回りで自分の身を守り、男の犯罪は未遂に終わった。ところがこの事件が世間に知れると、ファンの中にはこの男が再び凶行に走ることがないよう、そして自らの罪を思い知るよう、一日の始まりに男を拘束するべきだと考える者が出始めた。すぐに三人――内一人はナイト・ウォッチ――が名乗りを上げ、次の日可能な限り早い時間に男の住むアパートに殴り込んだ。

 三人がネットで語った証言はこうだ。寝込みを襲われた男がパニックになりながらも暴れ回り、予想外の抵抗にあって命の危険さえ感じた三人はつい加減を忘れてやりすぎてしまい、男が命を落とす結果になった。とはいえ次の日もその次の日も、男がアイドルにとって潜在的な危険であることは確かだから、自分たちは次の朝もその次の朝も男を無力化するために動くだろう。そして彼らはそれを実行し続けた。

「いや、殺したのは最初の日だけで、次の日からは拘束して放置するだけだったらしい。まあしかし縛られたまま何もできずに一日を終えるのも、殺されて一日を終えるのも、この世界じゃそれほど変わらない気もするが」

「そりゃ殺され方にもよるでしょ」

 あたしは声のボリュームを上げる。早朝の住宅街では迷惑かもしれないが、二人ともけっこうな速度で自転車を走らせているから声を少し張らないと互いに聞こえないのだ。

「まあな。解放されたのは、百日近く拘束され続けた暴行未遂犯が泣いて許しを請い続けたからだと。ファンの奴らは、もしまたそのアイドルに手を出そうとしたら、毎日徹底的に痛めつけてからお前を殺してやると釘を刺したそうだ」

 ファンの三人の中にナイト・ウォッチがいる以上、暴行未遂犯にそれを防ぐ術はない。そいつが何か仕出かそうものなら、翌朝目覚めたときには拷問者の手に落ちていることになる。

「うわー、なぶり殺しは勘弁だわ。でも男ってやつはそれでもやりかねないんだよなー。ケダモノだもの」

「男を一括りに語らないでくれ。少なくとも俺はそんなことしない」

「まあマイセンがそーゆーことしてるの、確かに想像つかないわ」

「それどういう意味だ」

「別にそのままの意味だけど。だから一緒に登校できるんじゃん」

 マイセンは黙ってしまった。あたしはどちらかというと褒め言葉のつもりだったのだが、もしかしたらマイセンは単に童貞っぽいと言われたように曲解してしまったのかもしれない。

 食料調達に無人のコンビニに寄る。心配性なマイセンが先に入って暴漢が潜んでいないか確認する。ざっと店内を見回ったマイセンが腕で頭上に大きく丸を作ったのを見てからあたしも入店する。この店にも目ぼしい商品でまだ手を出していないものがほとんどなくなってしまった。朝昼夕に夜食分と取っていったら当然だが、既にコンビニ飯に飽きつつあることを考えると先が思いやられる。片付ける必要がないのだし、調理実習室で料理でもしようか。

 勝手にレジの中に入って、商品を袋につめる。意味がないので代金は払わない。マイセンも初日こそ戸惑っていたものの、今では平気で高めのデザートなんかを取っていく。


 校門に着くと、今日も既に玄関内にバリケードが築かれているのが見える。毎朝本当にご苦労様だ。早朝から少人数で学校を守ってくれている一部の男子生徒やその他の人たちにはただただ頭が下がる。同時にそんな忠実な騎士たちを彼氏に持つ女子たちが、正直うらやましくなる。それは決して口にしないけれど。

 あたしもマイセンも、念のため両手を上げて玄関に近づく。あたしの主観で四十三周前から、それより前――何もわからないあたしを友達が半ば強引に連れてきてくれていたらしい期間――も含めるとおよそ六十周前からあたしは学校に立てこもっているわけだけど、窓からの見張りに最近ルーパーになったばかりのメンバーが間違えて配置されていたりなんかした日には、頭の上に椅子やら机やらを落とされないとも限らない。あたしたちがとても襲撃者に見えない外見で、遠目に見てわかるような武器を持っていなくても、ループを認識して間もない、新しい世界の仕組みを知ったばかりの奴というのは、恐怖と混乱で何をやらかすかわかったものじゃないのだ。

 いつもの教室に入ると、割と学校の近くに住んでいるワコとフミがもう来ていた。それに毎朝早く来て、机の半分くらいをバリケード用に運び出してくれている男子たちが六人。みんなこの教室のクラスの一員だ。別にどこの教室を使ったって構わなかったはずだが、みんな当然のように自分が元々いたクラスの教室に集まるようになっていた。

 あたしは挨拶して、机がなくなった空間の床に座り込むワコとフミの前に腰を下ろした。埃が服に付こうが構うことはない。一日が終わればどうせ全てきれいになる。

「千夏、待ってたんだよー。ワコがおもしろい話を聞いたんだって」

 見ると確かにワコは落ち着かない様子だ。なんだか彼女のこんな表情を久々に見た気がする。いや、何もワコに限ったことじゃない。毎日が同じ一日の繰り返しでは誰でも倦怠感にまみれてくるし、当然顔にもそれが表れる。

「そうそう、マジですっごい話なの。これ聞いたら眠気もぶっ飛ぶよ」

 ワコはなぜか辺りを見回し、今更声を潜めて言った。

「魔女の噂、聞いたことない?」


 要約すると、こういうものらしい。

 世界が変わる五、六年前に、ある十六歳の少年が女子中学生を暴行して死なせた。犯人に極刑が下ることはないとわかっていた被害者の母親は、直接復讐の手を下す機会を伺っていた。

 シャバに出た犯人が交通事故で入院して自由に身動きできなくなったことを突き止めると、ついに復讐を決行した。病室に入り、憎き犯人をメッタ刺しにして娘の仇を取った。

 逮捕されて警察署で一夜を明かした後、彼女が目覚めたのは自宅のベッドだった。それが彼女のループの始まりだった。

「そんな偶然あると思う?」

 あたしはすぐには返事をせずに、よく考えてみた。ある人間が復讐を決行したちょうどその日に世界がループしていることに気づいた。まず、それはいつの出来事か?

「それって、何周前の話なの?」

「ネットで見つけた記事だと、約二百周前だって。めちゃくちゃ前からルーパーってこと」

「でも世界で最初にループに気づいたって人は、確かあたしより二百周以上前だから、二百四十周くらい前からルーパーって話だったような」

「そんなのちゃんと覚えてるのか怪しいって。もし本当はその女が世界最初のルーパーだったら、どういうことになると思う?」

 少し考えてみて思いついたのは、呆れてしまうような突飛な考えだった。

「まさかその人がループの原因だってわけ? そんなことあるわけ……」

「だってさ、たまたま子供の仇を討ったその日にループに気づいて、しかもそれが他の人にもどんどん広がっていってさ、仇の男までルーパーになったんだよ。つまりさ、一度殺しただけじゃ足りないような憎い相手を、何度でも殺せるようになったんだよ。文字どおり」

「……ってことは」

「そう、この人は毎日目覚めると病院に向かって、怪我で逃げ出せない男を色んなやり方で痛めつけて殺してるんだって。ガソリンをかけて火をつけたり、手足を切り落としたり、ホームセンターに寄ってドリルを取って来て――」

「その話、ご飯前にするのやめない?」

 フミがげんなりした顔で言った。あたしも頷く。

「マイセンにしてやんなよ。そういう話好きそうだから」

「仕方ないなあ。ご飯食べたら続き聞いてよ」

 するとワコは本当にマイセンの方に駆け寄っていってしまう。男子たちは既に車座になって早めのランチタイムに入っている。体育会系の陽気な男子が多い中で、体育会系の要素を一つも持たないマイセンは未だに少し居心地が悪そうに見える。いや、猫背なのはいつものことだし、顔色が悪いのは徹夜したせいかもしれないから、まあつまりあれがマイセンの平常な状態なだけかもしれない。心なしかあの輪の中での口数も増えたような気もするし。

「ねえマイセン、ちょっと聞いてよ」

 ワコがマイセンの頭上から肩を掴んで揺さぶる。

「どうした?」

「魔女の噂って、聞いたことない?」

「それなら知ってる。娘の仇を毎日殺し続けてる人だろ」

「そうそう、マイセンはどう思う? その人がループの原因だって話」

「どうかな……いくらなんでもこんな、世界中を巻き込む現象が一人の人間の情念から生まれたなんてことがあるのかな」

「でもさあ、話聞いてると普通の恨みじゃないよ、あれは。魔女なんて呼ばれるのも納得っていうか。殺し方がさ、もうホームセンターで手に入るものは一通り試したんじゃないかってくらいで……」

 血なまぐさい話に発展しそうになると、フミがあたしを見て耳をふさぎながら大げさに顔をしかめた。ワコの声がでかいせいで男子たちの方に追い払った意味が全くなかった。

「うえー、聞きたくないー。ちょっと二人で他のとこでお昼食べてこようよ」

 日替わりの殺人メニューの話が聞こえてくる教室でランチしたくないのはあたしも同感だったので、二人でそそくさと別の教室へ移動した。今では安全と仲間との一体感を求めて登校してくる生徒やその他の市民は二百を軽く超えていると思うが、無人の教室は探せばいくつかある。フミが入っていったのは一つ上の階の教室だった。

「実際さ、マイセンとはどーなの」

 まだ一口も食べてないうちからフミは聞いてきた。どうやらこの話がしたくて無人の教室へ移ったらしい。

「どーって何さ」

「毎日一緒に登校してるじゃん。何かこう、いい雰囲気になったりは」

「ないない。あたしがイケメン好きなの知ってるっしょ」

「えー、マイセンよく見るとそんなに悪くないと思うけどなあ」

「じゃあフミが狙ってみれば」

「いやー、それは駄目だよ。だってさあ……」

 口元にいやらしい笑みを浮かべながら、こっちを見てくるフミに困惑したあたしは、睨み返して先を促した。

「何よ」

「マイセンってさ、たまたま『昨日』夜更かししてたせいでナイト・ウォッチになれたんでしょ」

「そうらしいけど」

「ってことはさ、毎日徹夜状態でみんなに連絡して、学校来てるわけだよね」

 おそらく仮眠も取ってはいないだろう。ループの「始点」である午前三時十一分から一旦仮眠を取って、「連絡網」を回す午前五時前に起きるのはかえって辛そうだ。

「すっごく眠いと思うんだ。ちょっと前まで仮眠も取らずに一日過ごしてたし」

 ループの「終点」は午前三時三十二分。寝不足の状態から始めて二十四時間二十一分ずっと起きていたことになる。

「それに男の人はさ、学校に来てみんなで固まって身を守らなくたっていいわけじゃない?」

「まあ家で寝てたってホモの強姦魔は押し入って来ないだろうしね」

 路上での無差別殺人は聞いたことがあったが、快楽殺人鬼もわざわざ家の中にいる人を狙わないだろう。

「なのに毎日、近所の千夏の家まで迎えにくるんでしょ。一人で登校するのは危険だからって。それってナイトじゃん。夜じゃなくて騎士の方の」

 悪戯っぽく笑うフミから目を逸らしてしまう。ちょっと前まで伏し目がちの大人しい子だと思っていたのに、いつの間にあたしをからかうようになっている。ループが起きなければ、違うグループに属している彼女と親しくなるような機会もなかっただろう。マイセンとは尚更だ。

「頼りない騎士だなあ。あたしもお姫様って柄じゃないし」

 そもそも男に守られるか弱い女の子なんて立場は望んでいない。だが毎日この学校まで来ている今のあたしが、バリケードを築いた男子たちに守ってもらっている立場だということも確かだ。

「早く終わってくんないかなあ、このループ」

「そういえばワコちゃんがさっきしてた話――」

「ああ、魔女の」

「もしも本当にその人がループの発生源だとしたら」

「さすがにそれはないんじゃない?」

 マイセンの意見にあたしも賛成だ。ひとりの人間にこんな大それたことができてたまるか。

「でももしそうだとしたらさ、ループを終わらせる鍵もその魔女が握っているのかも」

 マイセンの妄想癖がうつったんじゃないの? そうからかおうとしてやめた。こんな藁のような希望にだってすがりたいのはフミだけじゃない。まともな人間なら誰もがこのループを終わらせたいと思うはずだ。

「フミはループが終わったら何がしたい?」

「とりあえず卒業して、大学へ行きたい」

「大学?」

 特に意味のない問いかけに意外な答えが返ってきた。この状況から脱してまず考えるのが進路のこととは。さすが優等生だ。

「うち、親が厳しくてさ。志望校合格したら一人暮らしできるから、待ち遠しいんだよね」

「ああ、そういうこと」

「ここに来るのも反対されてるんだけど、あたしが家で一番早起きだったからこっそり抜け出してくるような感じで」

「まあその方がいいと思うよ。家にいたって安全とは限らないんだし」

 家に押し入ってきた男に強姦されそうになった話は、何も今朝マイセンと話していたアイドルに限ったことではない。同じように暴漢を撃退した武勇伝は、犯罪者情報まとめサイトに毎日のように載っている。彼女たちがそれを語れるのは、強姦が未遂に終わったからだ。未遂で済まなかった人たち、声を上げられない人たちはたぶんその何十倍もいる。

「登校中にヤバい奴に襲われる可能性もあるけどさ、そういう奴は、何をしても記憶が消えるステイヤーをターゲットにしたがるだろうし」

 そういえば今日もエリコから連絡はない。ということはおそらく――。

「でもあたしね、不謹慎だけど、この状況が少し楽しくなることもあるの」

 フミが照れくさそうに言った。

「みんなで学校に深夜まで一緒にいるなんて、こんなことが起きなかったらやらないでしょ?」

「まあうちは学校祭の準備も泊まり込み禁止だしね。でも毎日深夜三時半までじゃなあ。あたしなんか既に飽きてるんだけど」

「本当の明日が来たら、千夏はどうする?」

「普通だよ。同じように学校行って、卒業する。その後は、考えてない」

 それは今考えても仕方ない気もするし、むしろ今のうちに考えておかなければいけない気もする。

「卒業ね。じゃあその後マイセンと……?」

「はいはい、そんなに悪くない顔のマイセンね。さーて、もうグロい話も終わってそうだからそろそろ戻ろうか」

 立ち上がってフミを促す。なんだか露骨に話をはぐらかしたと勘違いされそうだが、あたしは教室にひとり残してきたワコが気がかりになってきたのだった。「自警団」の男子たちを信用はしているが、男だらけの空間に女の子を長い間一人で置いていたら、何が起きても不思議ではない。マイセンが仮眠を取るのに教室を離れる予定だったから尚更だ


 女子が二人新しく来ていて、ワコと三人で話していたが、男子は半分以上が教室から消えていた。

「随分減ったね」

「今日は護身術訓練の日だって」

 二人の彼氏は「自警団」の一員だ。交代でパトロールに出たり、希望者を家まで迎えに行って学校に連れてきたりする。まあ体育館での訓練がどれだけ真剣に行われているかは怪しいが、それでも彼氏の努力を無駄にしないためには彼女たちがもっと早い時間に登校するようにしなくてはいけないのだが、最近ではすっかり危機感が足りなくなってしまったのか、平気で昼過ぎに来たりする。

 そもそも慎重を期すなら、モーニング・コールではなく「ナイト・コール」で午前三時十一分から順次起こしてもらい、犯罪者のナイト・ウォッチが活動を始める前に集団で登校するべきなのだ。それをしないのは、真っ暗な時間帯での移動が危険だったり、そもそもそういう時間こそ犯罪者が外をうろついているのではないかと予想されるからというのもあるけど、一番の理由は単にそんな時間に叩き起こされたくないからということに尽きる。結局のところ、日が昇る前に悪いナイト・ウォッチが家に侵入してきて自分がレイプされるなんて本気で不安になっている生徒はほとんどいないのだ。

 早朝のモーニング・コールで起こされるのだって辛くないわけではないが、みんな家で過ごすのは不安だし、退屈なのだ。学校に立てこもっている分には友達とも会えるし、非日常感も味わえる。早朝から起きていればその分一日を長く使うこともできる。

「ねーねー、今日のあたしらのメイク何点?」

「四十点。リップ濃すぎでしょ。ぬらぬら濡れててなんか内蔵みたいじゃん」

 この二人が最近凝っているのは、毎日違うタイプのメイクで登校してきてどれが受けるか研究するというものだ。中には明らかにネタとしてやっているメイクもあるので、こちらとしても忌憚なく辛口の点数をつけられる。

「ひっど! キスしたくなる唇って書いてたの買ってきたのにー」

 この場合の買ってくるというのは、無人のコンビニやドラッグストアから勝手に拝借してくるという意味だ。

「いやー、あたしなら内臓にキスしたいとは思わないわー」

「ひどすぎー。すっぴん女に馬鹿にされたー」

「あたしはすっぴんでもイケてるから」

「さっきはマイセンにも『血を吸った後の吸血鬼みたい』って言われたし、やっぱこのメイクダメかなー」

「ああいう女慣れしてなさそうな男って、大抵濃いメイク嫌がるよね。今仮眠中?」

「うん、四時になったら戻るって言ってた」

 最初の頃は一睡もせずに三時三十二分まで起きていたマイセンだが、段々記憶力や判断力が低下してきている気がするとのことで、この頃は昼食後に仮眠を取ることにしていた。初めは三十分程度の短い仮眠だったのが、今ではすっかり学校のみんなを信用しているらしく、三、四時間くらいのまとまった睡眠を取るようになった。

「時間になっても起きなかったら、千夏がキスして起こしに行くって言っといたよ」

「バカ。あたしは王子様かよ」

「でもさー、男嫌いの千夏が一緒に登校してくるってことは、マイセンのことは嫌いじゃないってことじゃない?」

「あんなナヨナヨした男でも一人よりはマシってだけだって。ってか別にあたし男嫌いってわけじゃないし。あたしたちが学校に立てこもんなきゃいけない元凶の、クソ男どもが許せないだけ」

「最近じゃルーパーレイパーなんて呼ぶんだってよ」

 残っていた男子の一人が会話に割り込んできた。クソが。不快な言葉を口に出すんじゃねえよ。

 ルーパーの犯罪者の中で最も多い連続強姦犯のことをそう呼ぶ奴らが増えている。あたしはその呼び名が嫌いだ。非道で卑劣な所業と、ポップな語感が全く合っていない。

「何がルーパーレイパーだっつーの。ピンクの両生類みたいな名前で呼びやがって。ゲス野郎はゲス野郎らしく、イカレチンポ野郎とか呼べばいいんだって」

 男子全員がぎょっとした目でこっちを見た。美少女が汚い言葉を使っちゃ悪いかよ。

「あははっ……千夏こええなあ」

 男子生徒が引きつって乾いた笑いを見せる。

「さて、俺もちょっと訓練行ってこようかな。イカレチンポ野郎どもと戦えるように」

 立派な心掛けだと言いたいところだが、そそくさと連れ立って教室を出ていく男子たちの態度を見るに、あたしが自分で思っている以上に鬼のような顔で怒気を発散していたのかもしれない。

「あたしたち、ちょっと体育館行って訓練見てくるね」

 女子二人も教室を出てしまった。苦笑したワコがあたしをなだめる。

「まあ悪い男たちもいればいい人もいるよね……千夏だってマイセンがいい人なのは認めるでしょ」

「まあそうかもしれないけど……でもあたしがマイセンと登校するのは、別に信じてるからとかじゃなくて、あたしもルーパーだから立場上手出しできないはずだってだけだし。それにあいつがルーパーになったのはあたしよりも後だったでしょ。だから安心できるってだけ。少なくとも……あたしがステイヤーだった頃に、あたしに何かしたってことはないはずだから」

 歯切れ悪く呟くとあたしもワコも俯いてしまう。彼女もあたしと同じことを思い出しているのがわかった。

「そういえばエリコ、まだループ始まらないんだね」

「うん、もし始まったら連絡くれるようにエリコの親に伝言してるんだけど、今日も連絡なかった」

 ループを認識できないエリコに今の世界のことを信じてもらうのは、もう十日前に諦めていた。あたしの口から説明しても、マイセンから説明しても、とうにルーパーになっている彼女の両親が説得を試みても、テレビで繰り返し流れるニュース映像を見せても無駄だったから。話を聞いた彼女はまずたちの悪い冗談だと怒り、留まる者ステイヤー向けに有志がネット配信しているループ解説動画を見せられると自分はひどい悪夢を見ているのだと思い込み、ベッドに潜り込んだ。これは紛れもない現実なのだと言い聞かせても無駄だった。

 けれど部屋にこもっていてくれる分には、出歩かれるよりはずっと安全だった。二十周ほど前に起きたような事件に巻き込まれる確率はぐっと下がる。

「うちのクラスで最後の一人かな。でもわたしもルーパーになる前は、世界中で今日がループしてますなんて言われてもなかなか信じられなかったなあ」

 エリコの事情を知らないフミが能天気な声を出す。それに苛立ちを感じるのはお門違いだ。秘密にしようと決めたのはあたしとワコなのだから。しかし事の深刻さを思うと、呑気にエリコの話をされるだけで気持ちがささくれ立つのを止められない。

 あの日、エリコが電話する相手にあたしを選んだのは、エリコにとって一番の友達があたしだからなんて理由ではないと思う。たまたまその日、あたしがエリコにループのことを説明していたからではないだろうか。

 説得しようとしたあたしとワコを振り切るように家を飛び出したエリコ。あの子があんな目に遭った原因はあたしにもあるのだろうか。あのときあの子を止められていれば。

 電話があったのは夜になってからだった。

 ――着替えを持って来てほしい。

 ――車に連れ込まれて誘拐された。歩いて帰れるけど、服がボロボロだから。

 ――親には言わないで来て。知られたくないから。

 知らない男たちに襲われた。彼女はそう言った。自分が同じような目に遭ったとき、それをなんて表現できるかと考える。友達に「暴行」されたとは言わない。レイプされた。犯された。それらはあまりに生々しすぎて、たぶん声に出せない。きっとそうなると思う。

「千夏の言ってたこと、全部本当だったんだね。信じてれば、家から出なかったら……。ねえ、今日があたしの、ループの最初の日だったらどうしよう。明日になっても――」

「大丈夫。こんな日に限ってループが始まるはずないよ。明日になれば、全て忘れてる。記憶も身体も元に戻ってるから――」

 あたしたちの望んだとおり、エリコのループは始まらなかった。そして今も始まっていない。

 あたしは慰めではなく本心から言った。確かにエリコの身体は汚される前に戻り、被害の記憶も失われた。だが彼女を輪姦した男たちはどうなる? 通りすがりの女の子を車でさらって事が済んだら放り捨てるような連中――まず間違いなく全員がルーパー――は野放しだ。覆面すらしていなかったというそいつらは、おそらくステイヤーを選んで標的にしている。顔を見られても痕跡を残しても、深夜三時半を過ぎれば被害者の記憶も物的証拠も失われる。飢えた狼たちにとってこれほど格好の獲物は他にいない。

 もしこのループが終わって日常が戻ったとして、エリコが街で偶然自分を輪姦した犯人とすれ違っても、彼女は気づくことはないのだ。でも犯人の方は気づいて、自分たちの犯行を思い出してほくそ笑んだりするのかもしれない。そんな光景を思い浮かべると奴らを断崖絶壁の上に並べて一人ずつ蹴落としたくなる。

 だがこういう連中よりも更にひどい最底辺の奴は、相手が忘れるのをいいことに知り合いのステイヤーをレイプしようとする奴だ。

 なぜそんなことができるのか理解に苦しむが、こういう手合は確かに存在するらしい。最近ではステイヤーの数自体が減ってきているから激減しているものの、あたしがループする前なんかは、SNSに定期的にその手の話が上がったらしい。

 そうした話を目にして、そしてエリコの事件を踏まえた上で、あたしは気づいてしまった。

 あたしがステイヤーだった頃――早くにルーパーになった人なら既に百周以上自由だった期間――の、完全に無防備だった日々。無法地帯に何も知らずに放り出されていたも同然の状態。

 あたしがエリコのような目に遭わなかったと、なぜわかる?

 およそ六十周前、友達が安全な学校に連れて行ってくれるようになる前、あたしはどんなふうに過ごしていた? エリコほどではないにせよ、あたしもループのことを説明されると混乱し、すぐには信じなかった(自分にとってのループ二周目に、一周目の行動を振り返ってみれば、それ以前の日々の行動も同じようなものだと想像がつく)。取り乱すあたしは傍から見ればステイヤーなのは丸わかりだったろう。そんな状態で物騒な外に出ていたら、獲物を探してうろつく奴らや、或いは――考えたくはないが――あたしを狙う顔なじみの誰かのえじきにならなかったとは限らない。

「秩序が崩壊したり理性のタガが外れると、時に人間は恐ろしいことをするもんだよ。例えば旧ユーゴスラビアの内戦なんかでは、同じ町で一緒に暮らしていた他の民族が急に敵になったわけだが、顔なじみの近所の人を殺した人間が大勢いたらしい。隣人の一家の父と息子を殺し、母と娘を襲ったなんて話もあるとか。発展途上国の話でも、大昔の話でもないぞ。西ヨーロッパよりは貧しいとはいえ、東ヨーロッパの一九九〇年代の話だ」

 これは以前マイセンが話していたことだ。所詮下半身で生きている男たちの理性など、法で締め付けておかなければ呆気なく吹き飛ぶものなのだろう。

「そういえばこれ何?」

 本気で気分が悪くなりそうだったので、話題を変えることにした。さっきまでなかった黒板の大きな文字を指さす。

「鬼子母神」と書かれている。

「あー、これあたしがマイセンに書いてもらったの。キシモジンって何って聞いて」

「それ、昔小学校の図書館にあった手塚治虫の『ブラック・ジャック』に出てきたような……確か自分の子供を育てるために、人の子供を食べるとかそんな話だったような……神話か何かの話だったかな」

 フミが言った。あたしも小学校にあった手塚治虫の漫画は読んだことがあるが、『ブラック・ジャック』は未読だった。

「キシモジンの漢字がわからなかったってことは、文字で見たんじゃなくて誰かが話してたのを聞いたってこと?」

 黒板に書いたということはそういうことだろう。ネットの記事か何かで目にしたなら、読み方がわからなくても漢字がわからないということはない。しかし、ワコがラジオで情報を集めているという話は聞いたことがない。

「さすが千夏、鋭い。それがさあ、朝ここまで来る途中で、ヤバい奴見かけちゃって」

「ヤバい奴?」

「大声で、『魔女を殺そう。あの女は鬼子母神だ。子供の復讐に世界全てを巻き込んだ大罪人だ。鬼子母神を殺して世界をループから解放しよう』って叫びながら歩いてるハゲがいて……」

「えぇ……早朝に? そのハゲ住職か何か?」

「さあ……とにかくあんまり近づかないようにはしたけど、同じことをずっと叫びながら歩いてたから、もしかしたら仲間を集めようとしてたのかなって」

「頭数揃えて……魔女退治ってわけ? まさかそんな」

「でもマイセンはあり得るって言ってたよ。みんなおかしくなってるから、誰かが煽れば魔女狩りだってやりかねないって」

 ちょっと目を離した隙に随分マイセンと仲良くなっていないか。まあ別にあたしは困らないけど。

「ちょうどさっき二人でそんな話してたよねえ。魔女がループを終わらせる鍵かもって」

 フミが言う。たぶん同じようなことを考える人が大勢いるはずだ。

「実際に魔女を殺してループが終わるかはともかく、試す人は出るかもしれないか」

 いや、或いは既に――

「魔女がルーパーになってから二百周以上だっけ? それに近い数ループしてる人もたくさんいるなら、誰か一人くらい、魔女狩りを実行してる人がいてもおかしくないんじゃない? もしかしたら魔女はもう殺されたことがあるのかも。それでも結局このループが終わらなかっただけなんじゃ……」

 ワコがまじまじとあたしを見てくる。

「何?」

「いや、さっきマイセンが同じこと言ってたから」

「ええ?」

「これはいよいよ、お似合いの二人ってことですかな~?」

「マジで勘弁してよ。それよりさあ、毎日人を拷問して殺してるヤバい人の話を、なんであたしら今日まで知らなかったわけ」

「言われてみれば……なんでだろ」

「……たぶん、警察がSNSの犯罪者情報に優先的に載せてないんじゃないかな」

 フミが呟いた。

「この魔女は子供の仇以外の人には無害なわけだから、一般市民に警戒を呼びかける必要がないって判断なのかも」

「なるほどねえ、確かに」

 他に載せるべき悪人は大勢いる。犯罪者情報も毎日警察の人が時間をかけて発信し直すわけだし、次々と新しい情報だって寄せられる。特にナイト・ウォッチの犯罪者や無差別性犯罪者は周知させないといけないから、クズ野郎一人しか狙わない魔女のことなど書いている場合じゃないのかもしれない。

「なあ、ちょっといいか」

 隣のクラスの男子が戸口の前に立って、教室の中を見回していた。知っている生徒ではあったが、あまり見ない顔だった。

「マイセンって今どこ?」

「保健室で仮眠中だよ。四時になったら戻るって言ってた」

「そうか……まだ起きてこねえかな。マイセンのことで話あんだけど」

「おお、今日はマイセンの日だ」

 ワコが楽しそうに言う。

「は?」

「ううん、何でもない。マイセンがどうしたの?」

「マイセンってさ、今何周してるって言ってた?」

 なぜそんなことを聞くのだろうと思ったが、隠す理由もなさそうだったので教える。

「確かまだ三十周目だよ」

「それ、本人から聞いたんだよな」

「そうだけど」

「俺さ、学校に来るようになったのは最近だけど、ループはもう四十周目なんだ。で、まだループして数周ってときにさ、早朝っていうか深夜にマイセンが外にいるの見たんだ。俺は元々の『昨日』の夜に本読みながら居眠りしちまって、そのおかげで毎朝四時過ぎくらいに目が覚めて――まあそんな話はどうでもいいな。とにかく部屋の窓開けて、着替えながら外を眺めてたら、自転車乗ってる人を見かけてさ。街灯の下に来たとき顔を見たら、マイセンだった」

「午前四時に外? しかも四十周前に?」

 そんな時間に外を歩く用事があるだろうか。まして一睡もしていないはずの人間が。

「気になったから、次の日もこっそり窓から見てみたんだよ。あいつはまたそこを通ったけど、その時間が少しずれてたんだ」

 ステイヤーは、ルーパーが介入しない限り同じように一日を繰り返すのが定説だ。例えば毎日誰かルーパーに呼び出されて外出していて、その呼び出される時間が日によって違うというのでもない限り、マイセンは同じ時間にそこを通るはずなのだ。ルーパーになったのが本当に三十周前からなら。

「マイセンが嘘ついてて、本当は四十周以上前からループしてたって言いたいわけ?」

 だとしたら何のためにそんな嘘を?

「それは間違いないと思う。ステイヤーが午前四時に外うろついてるのも変だし。でも大事なのはそこじゃない」

 これだけでもかなり重要なことのはずだが、まだあるのか。

「あいつが持ってた細長い荷物が気になるんだ。もしかしたら、りょうじゅうかもしれない」

 その音が、頭の中で猟銃に変換されるまで一拍置かなければならなかった。

「は? 銃? 何言ってんの」

 あたしはマイセンが山で鹿や熊を狙う姿を想像した。まるで似合わない。そもそも自然の中にいるのが似合わない。アウトドア派って柄じゃない。

「ちょうどその少し前――俺もまだステイヤーだった頃だけど、銃を使った殺人事件があったらしいんだよ。最近じゃ犯罪者情報にもちょっとしか詳細載ってねえけど」

 話が思いもよらない方向に向かっていく。殺人事件? こいつは何を言い出すのか。

「一家殺害事件で、散弾銃で三人殺された。事件があったのはその一日だけ。目撃者によると犯人は太った男ってことだが、服を着こめば体型はごまかせるから、それがマイセンじゃないとは限らない」

「ちょっとちょっと、何言ってんの?」

「銃を使った殺人事件があって数周後に、深夜細長いバッグを持って外をうろついてて、しかもその日はまだループしてなかったって嘘を言ってた。俺もマイセンは嫌いじゃねえし、殺人犯だなんて決めつけるつもりはねえけど、警戒はしといた方がいいと思って」

 窓から深夜に見ただけの姿から、そこまで想像するとは。この男子が妄想に取りつかれているだけなのでは? だが彼は十分冷静に見えた。ワコとフミも表情にだんだん不安がにじみ出てきた。

「いくら何でも信じられない話だけど、それを聞かされてどうしろってのよ」

 百歩譲ってマイセンがループしていた時期を偽っていて、しかも銃を所持していることまで推測どおりだとしても、そのことをあたしたちが知ったからといって何の意味があるというのか。

「まさか本人に聞くわけにいかないでしょ。『狩猟が趣味だったりする? 休みの日、鹿とか撃ってた?』って」

「当然。こっちが何か知ってるってことは、絶対勘づかれるわけにいかない」

「えっ、じゃあやっぱあたしたち今の話聞かない方がよかったんじゃ」

 ワコが不安げな声を出す。

「確かに、こんな話聞いたらマイセンと話すときちょっと身構えちゃいそう」

 元々気が強い方ではないフミも心配そうだ。

「なんであたしらにそんな話すんの?」

「マイセンが基本的にこの教室にいることが多いからだよ。何かムカついて、誰かを殺そうとするならこのクラスの奴らの可能性が高い」

 いけしゃあしゃあととんでもないことを言いやがる。

「あたしら、あいつに憎まれるようなことはしてないんだけど」

「でもあんたら、マイセンに対して馴れ馴れしいし、たまにからかったりもするだろ? そういうので本人が実はムカついてる場合もあるだろ。これからはそういうの一つ一つ、気を付けた方がいいってことだよ」

 マイセンが内心あたしたちを嫌っている可能性を考えてみた。クラスの他の子のことも含めても、あたしたちはマイセンとそれなりに良好な関係を築いていたと思う。

「こんな情けねえこと言いたくねえけど、銃を持ったナイト・ウォッチなんて絶対敵に回せねえんだよ。一日の始まりと同時に、寝静まってる人間を殺しにいけるんだぞ。銃でも戸や窓を破れない家に住んでる人間なんて周りにいるか? 実際、殺したい奴は誰でも殺れるんだよ、今のマイセンは」

 マイセンがあたしたちの生殺与奪を握っているかもしれない。いや、かもしれないじゃない。ループした時期や銃の有無に関係なく、そもそもナイト・ウォッチは簡単に他人を殺せる立場にいるのだ。

 それでもあたしたちは、マイセンを信じていたのではなかったか。

「そんな相手に不用意なこと言って怒らせたりしないよう、気を付けてくれって話だよ。伝えるかどうかは迷ったけどな。中途半端に疑惑を持って、それが態度に出ちまう方が危ないかもしれんし」

「うわあ、あたしそのパターン」

 ワコが嘆いた。

「それは悪かったが……とにかく、マイセンに対しては急にビビった態度はダメ。馴れ馴れしくしすぎるのもダメ。そうした方が身のためだと思うぞ」

「納得いかない」

「何が?」

「マイセンが一家殺害犯? ありえないね」

「だからそこは俺も半信半疑だって。何ならあいつが人を殺したことがあっても、ここでおとなしくしてくれてる分には構わねえんだ。ただどっちにしろ警戒だけはしとくべきって話」

「これからずっと、あいつが豹変して銃を持って襲ってくるかもって怯えながら、あいつのご機嫌取って暮らせっての?」

「そこまでは言って……いや、そういうことだな」

「ないわー。大体あたしらだけが気を付けて、他のみんなはどうするわけ」

「他の奴らにも当然話すぞ。マイセンのいない隙を見て」

 あたしは咄嗟に、それは止めなければと思った。

 みんながこの話を聞いたら、誰もが内心疑ったり恐れたりしながらマイセンと接することになる。マイセンは気づかないかもしれないけど。

 何だかそれはすごく嫌な感じがする。

「全員がこの情報を共有することが大事なんだ。つまり口封じに一人二人殺しても無意味だと思わせないと――」

「それ、もうちょっと待ってもらえないかな」

 不確かな情報で、マイセンをあたしたちの仲間でなくしてしまうのは、そんなのは間違っている。

「今すぐ危険って感じじゃないでしょ。あたし、マイセンからさり気なく聞き出せないかやってみる」

 自分で言いながら、それはかなり難しそうだと思った。隠し事をしている相手に、こちらが疑っていることを気づかせずに情報を引き出すなんて。

「さり気なく聞き出す? 素人にそんなことができるかよ。何か知ったことを勘づかれるのがオチだ」

「それであたしが口封じに殺されて、学校に来なくなったらみんなでマイセンを問い詰めればいいよ。みんなでマイセンの家に押しかけて、銃を隠してないか探せばいい」

 危険は承知でやる覚悟を見せれば引き下がってくれるだろうか。

「拷問されても俺の名前を吐かないか? 深夜徘徊する自分を目撃したのが誰なのか、話の出どころはどこなのか口を割らせようとするかもしれないだろ」

 ――何だこいつ。異常に警戒心が強いな。気持ち悪っ!

 でもあたしにだって人のことは言えないのかもしれない。周りの危機感の足りなさに呆れていたし、自分より早くループしていた男は信じないようなあたしには。

「勘弁してよ。あいつにそんなことできないって。あたしら少なくともあんたよりはマイセンのこと知ってるつもりだよ」

「あたしも、みんなに話すのはちょっと待ってほしい」

 フミが言った。この子はみんなを毎日起こしてくれるマイセンに感謝していた。

「あたしも賛成。いやー、何かどんでもない話でビビっちゃったけど、よく考えたらあのマイセンが悪い奴とは思えないし」

 ワコも味方になってくれる。

「……わかったよ。ただし俺のクラスの、信用できる何人かにはもう話してるからな。最悪俺が殺されて連絡がつかない日が続けば、すぐにマイセンが怪しいって情報を学校中に拡散することになってる。あんたが学校に来なくても同じようにしたいから、連絡先教えてくれ」

 そう言って、電話番号とSNSのアカウント情報を求めてきた。暗記して明日以降も使えるようにするつもりらしい。

「まさか遠回しにあたしの連絡先を聞くためにでっち上げた話ってことはないよね」

 冗談のつもりだったが、あたしくらいかわいい女の子ならそういう可能性も一応考慮してみるべきじゃない? 世の女の子は警戒心が足りなすぎると思うよ本当に。

「……なあ、やっぱりマイセンから情報引き出そうとするの、やめた方がいいんじゃね。そんな知能でやっても死にに行くようなもんだぞ」

「けんか売ってんの?」

 だが実際いい方法が浮かばないのも確かだった。だがもう後には引けない。

 これからずっとマイセンの顔色を伺いながら一緒に登校するなんて、あたしは真っ平だ。


 保健室には聞いていたとおり鍵がかかっていた。ノックをして待ってみる。

 一分半ほど経って中から鍵が開く。裸の上半身にワイシャツを羽織った坊主頭の男子と、そのお相手らしき女子が上気した顔で出てきた。

 最近では順番待ちをしてまで保健室のベッドを使いたがるカップルは少ないらしい。

「マイセン起こしに来たんだけど、いる?」

「ああ、真ん中のベッドに……まさかマイセンとやる気?」

「やるわけねーだろ、バーカ」

 カーテンを開けるとマイセンが仮眠というにはかなり深く、泥のように眠っていた。隣からはカーテン越しにベッドが軋む音と荒い息遣い、そして押し殺した女子の嬌声が聞こえる。

「ごめん、起きて」

 どうせ一時間後には起きるはずだったから遠慮なく揺さぶる。隣のカップルがぴたりと動きを止める。息を潜めてこちらの様子に聞き耳を立てているかもしれない。

「うう……千夏?」

 校舎内で運命共同体になってからは、マイセンはあたしや他の女子を下の名前で呼ぶようになった。というかあたしたちがそう呼ばせた。お互い信用し合うべき仲間だから。

「ちょっと話があるの、例の魔女のことで」

 結局それほど上手い手を思いつかなかったあたしは、寝起きで頭が働かないマイセンが口を滑らせることを期待して突撃することにした。

「ワコから聞いたんだけど、魔女狩りをやろうとする人たちが出てくるかもって話。そんなことでループが終わる可能性、あると思う?」

 マイセンはそんなことで起こしたのか、というしかめ面をしたが口には出さなかった。

「うーん、つまり魔女がループを発生させた可能性だな。ワコにも言ったんだが、人の想いや精神の力が、物理的な作用を引き起こさないとは言い切れない。科学的に証明されてないからといって、絶対にないとは限らない。現に今こんな現象が起こってるわけだし」

「でもさっき、一人の人間の情念にそんな力はないって」

「たとえばの話だが……有史以来人類が蓄積してきた怨念――憎しみや怒りのような負の感情――のエネルギーがついに臨界を超えて、時空に影響を与えた。……なんていうのは馬鹿馬鹿しいかな」

 はい、馬鹿馬鹿しいです。っていうかワコと随分楽しくおしゃべりしてたんですねえ。

「ただそうなると魔女が死んだところで世界は元どおりにはならないと考えるのが自然だが」

「魔女がとっくに殺されてても、世界は変わらずループしてるってことだね。あたしもワコに同じこと言ったんだよ。きっともう誰かが魔女を殺してるって」

「千夏もそう思う? 俺も同意見。たぶん誰かが一度くらいは殺してみただろうな」

 これ以上話していたらマイセンの目がすっかり覚めてしまいそうだ。あたしは少し強引に聞いてみたいことに踏み込む。

「でももしも本当に魔女が原因だとして、魔女を殺せばループが終わるとしたらマイセンはどうする? たとえば一日の始まりに自分で魔女の家に行って、まだ眠ってる魔女を撃てる?」

 マイセンは少し考えた後きっぱり言った。

「俺は今すぐにでも明日が来てほしいからな。そのためなら、撃てるよ。殺人罪で逮捕されるかもしれないけど、世界が救えるなら安いもんだろ」

 その言葉に嘘はなさそうだった。マイセンは本当にループが終わることを望んでいる。

 だがマイセンは「撃てる」と言った。銃の話などしていないのに、あたしが「撃てる」という言葉を使ったら、マイセンも同じ表現を返した。単につられただけなのか、それとも「撃てる」ようなものを持っているからこそ何の疑問も持たずにその言葉が出てきたのか。

「子供を殺された復讐をしてるだけの、かわいそうな人を殺せるの?」

 不自然にならないよう話を続ける。

「復讐自体をどうこう言う気はないよ。死んだ方がいいクズなんてこの世にいくらでもいる」

「けっこう過激なこと言うんだね」

「どんな理由があっても人を殺すのはいけないなんて綺麗言、こんな世界じゃ響かないだろ?」

「まあね」

「ただ復讐に無関係な人を巻き込むのは許されない。たとえ本人が望んでいなくても、魔女が復讐のために世界を巻き込んだなら、殺されても仕方ないと思うよ」

「そっか」

「他に話がないんだったら、悪いけどもう少し寝かせてもらってもいいか」

「うん、ごめんね。それじゃ」

 結局はっきりしたことは何もない。けれど早く探らないとマイセンが危険人物ということにされてしまう。




「くっっっくどうーどぅるどぅーーー」

 ニワトリの鳴き声コケコッコーを英語ではこう呼ぶと昨夜ふと思い出し、次の朝はこれで起きようと決めていた。こう毎日奇声を上げながら起きると、両親から気が狂ったと思われそうだが、世界の方が狂っている今、多少頭のネジが緩んだと見なされてもどうということはない。

 今日は起きてすぐマイセンの家へ向かうと決めていた。

 自転車は手前の曲がり角に隠して、そっとマンションに近づく。

 意を決してインターフォンを呼び出すが、誰も出ない。この時間に眠っていることはないはずだ。

 本当に外に出ている。だがそれだけではまだ何も確かなことは言えない。

 一旦マンションを出てふと横を向くと、遠目にマイセンの姿が見えて微かに残っていた眠気がぶっ飛んだ。

 あたしの身体は半分マンションの塀に隠れていた。おまけにあたしは視力がいい。どうやらこちらだけが気付いているようだ。

 塀からそっと顔を出して様子を伺う。隣のクラスの男子が言っていたとおり、細長いバッグを担いでいる。あの中に猟銃が?

 冷静に状況を再確認する。もしマイセンが殺人犯なら……あたしがそれを知ったことをマイセンに気付かれたら、あたしの口をふさぐことを考えるかもしれない。銃はすぐに取り出せなくても、他の武器だって持っているかもしれない。強そうには見えないマイセンだが、本気で殺しにこられたら、女のあたしが勝てるとは思えない。

 そして殺された次の日は……マイセンは一日の「始点」の三時十一分から活動できる。あたしが目を覚ます前に寝静まった我が家にやって来て、窓を破って侵入し、自由にあたしを殺して口をふさげる。そうなればあたしは学校のみんなにマイセンの正体を告げることもできない。いずれあたしが毎朝殺されていることがみんなに知られるかもしれないが、マイセンを犯人と決めつけることはできないだろうし、そもそもナイト・ウォッチのマイセンはいつでも遠くに逃げることだってできるのだ。

 ここはとにかく、あたしの存在に気付かれるべきではない。あたしがマイセンを嗅ぎまわっていると知れただけで危険だ。

 理屈で考えればそうなる。

 けれどあたしは覚悟を決めてここへ来た。

 あたしはマイセンの嘘を暴きに来たんじゃない。

 マイセンを信じると決めて、マイセンが殺人犯などではないと証明するためにここへ来たのだ。

 ようやく気付いた。ルーパーになったのがあたしより遅い男だから信じられるんじゃない。マイセンだから、信じられるんだ。

 あたしは塀の陰から歩み出た。マイセンの目が驚きに見開かれる。

「千夏」

「おはよ」

「どうしたんだ、こんな朝っぱらから……」

「マイセンこそ、どこ行ってたの?」

「俺は、知り合いの家に行ってたんだ。取ってくるものがあって」

「その荷物? ……猟銃なの?」

「猟銃? いや、これは猟銃じゃないが……」

「中身、見てもいい」

「いや、これはプライベートなもんだから」

 怪しい。こんな細長いバッグに入れて持ち歩くプライベートなものって何なんだ。

 そのとき、マイセンが来た方向からこちらへ近づいてくる男に気付いた。こんな早朝に散歩するような健康的な人間には見えない。

「ねえ、後ろの人知り合い?」

 勢いよく振り向いたマイセンを見るに、連れ立ってきたわけではなさそうだ。

「練馬さん、つけてきたんですか」

「いや、つけたなんてそんな……ただ蔵米くらまいくんと話がしたくて」

 マイセンの本名、そういえば久々に聞いた気がする。学校の子はみんなマイセンとしか呼ばないから。

「話したいのはやまやまですが、俺はこれから行く所が……」

「や、やあ。君、蔵米くんの学校の子?」

 男は急に甲高い声であたしに話しかけてきた。

 薄笑いを浮かべて近寄ってくる。一言で言ってキモい男だ。髪は脂ぎっているし、だらしなく太って、姿勢が悪く歩き方も不格好だ。正に挙動不審。

「いいなあ。蔵米くん、こんなかわいい子と毎日いっしょなんでしょ?」

 舐め回すような視線に鳥肌が立つ。こんな奴がマイセンの知り合い?

「なのにオレは、縛られて一日中転がされてたんだもんなあ」

 台詞も雰囲気も、明らかに不穏なものを感じさせた。

 不意に脳裏をよぎったのは、一周前登校中にマイセンから聞いた話だった。アイドル暴行未遂犯が、ナイト・ウォッチに毎日監禁されていたという。

「練馬さん、俺は無実の人の自由を奪ってたとは思いませんよ。あなたと被害者は学校が同じだったし、あなたが復讐したいと言ってた人物の特徴とも合致してた」

「本当にオレじゃないんだよ。まあもう信じてくれないのはわかったけどさ」

「もし何かしたら、またあなたを拘束しなきゃいけない」

「わかってるよ。だから――あれ? 君のマンションの入口から妙な人が」

 マイセンが振り返る。釣られてあたしも入口を見る。誰もいない。

「あぐっ」

 変な声がしてまた振り返る。練馬という男がマイセンに抱きついているように見えてぎょっとする。

 いや、違う。これは――

「だからさ、今日一日だけでも存分楽しんじゃうよ」

 練馬の手に握られているのは、血塗れのナイフだ。

 マイセンが刺された。

 その事実にあたしの理解が追いつく前に、男は更に太腿を刺した。絶叫が響く。

「うあああああ!」

「マイセン!」

 叫んだあたしに、練馬が突っ込んでくる。頭が真っ白になって、棒立ちになってしまう。そうだ、あたしも武器を持っているんだった。

 あたしがペティナイフを取り出したとき、奴はもう腕を振り下ろしていた。

 頭から火花が出たように感じた後、猛烈な痛みに襲われた。気付いたときには膝を着いていた。早く立ち上がらないと――。そこにもう一撃。ちらりと見えたのは金槌だった。

 頭が痛い。熱い。立てない。肩を掴まれ、組み敷かれる。嫌悪感で吐きそうになる。刺されたマイセンは無事だろうか?

「やめっ……離せよ……」

 上体を起こそうとしたあたしの右目に何かが入って見えなくなる。その温かいものは頬から顎へ流れていく。あたしの頭のてっぺんから流れた血だった。

 片目でも、男が眼前に突き付けてきたものはよく見えた。血のついてない、マイセンを刺したのとは別のナイフ。

「動くと刺さっちゃうよ」

 ナイフがあたしの制服のシャツの合わせに潜り込んでくる。ちくりとした鋭い痛みで、刃先が皮膚を少し切ってしまったのがわかる。ナイフにボタンを切られ、下着を露わにされる。

 うわあああ、やめろやめろやめろやめろ。

「大丈夫だから。大丈夫だから。人が来ないうちにすぐ終わらせるからね~。でも後で友達も呼び出してもらうよ~。一日で何人やれるかな~」

 あたしは男に抑えられていない左手で、思い切り顔面を殴った。その拍子に胸の下に浅い切り傷ができる。こんな程度の傷でも痛いのに、刺されたマイセンはどれだけ痛かっただろう。

 男の拳が腹にめり込む。二度。三度。嘘みたいに痛い。息ができなくなって、、吐き気がこみ上げる。

 あたしたちがマイセンを信じてあげられなかったから、こんなことに……。たぶん一家殺人犯はこの男なんだ。マイセンはこいつを止めていたんだ。あたしもきっとこいつに殺される。でもこんな奴の好きにさせるくらいなら、無茶苦茶に暴れて刺し殺されてやる。どうせ死んでも生き返れるのだ。

「まだお仕置きがいるか~? おとなしくしてれば痛くしないよ~?」

「お仕置きが必要なのはてめえだろ」

 それはあたしが今一番聞きたい声だった。地獄からあたしを引き上げてくれる声。

 マイセンが、腹ばいに寝た状態で長い銃を構えていた。

「早く離れろ。妙な動きしたら撃つ。この距離じゃ外れない」

 完全にキレた表情。学校でこんな顔は一度も見せたことはなかった。

「弾は入ってな――」

「あんたの銃には入ってない。これは俺のだよ」

 事情は全然飲み込めないが、そんなことよりマイセンの苦しそうな様子に気が気じゃなかった。

「嘘だ。オレは見てたぞ! オレの銃を入れるときバッグは空だった」

「あんたの部屋に押し入る前にバッグから出してたからな。あんたが何か仕掛けてくるか試してみたが……このザマだよ」

「はめやがったのか、蔵米、おまえ」

「はめようとしたのはあんただろ……練馬さん。さっさと立てよ! 撃つとき急所は狙わないぞ。死ぬまでじわじわ時間のかかる場所を撃つ」

 ぞくっとするほど冷たい声だ。男が恐る恐る立ち上がる。映画で銃を向けられた人間がするように両手を上げる。

「その辺に跪け」

 あたしは急いで立ち上がってマイセンの方に駆け寄る。

 お腹と太腿の部分の地面に、赤黒い血だまりができている。

「千夏、大丈夫か」

 頭はひどく痛むが、身体は動くし切り傷も小さい。

「あ、あたしは大丈夫だけど、マイセン……」

「く、蔵米くん、話し合おうよ。悪気はなかったんだ」

 男が情けない声を出す。見上げる顔を蹴り飛ばしてやりたくなる。

「俺を殺したくなるのはわかる。だがこの子にやろうとしたことは……」

「な、生の女子高生なんて見たの久しぶりで、つい興奮しちゃって! 何せずっと監禁されてたんだから!」

「悪いけど明日以降もそうさせてもらう。千夏、後ろ向いて、曲がり角まで走れ。何があっても振り返るなよ。俺がいいって言うまで出てくるな」

 あたしは別人のようなマイセンの形相に気圧されて、おとなしく背を向けた。

 男がヒステリックにわめきだす。

「なんでクソガキ共の面倒なんて見るんだよ! 銃があれば生意気な女子高生を好き放題できるのに!」

 それに対するマイセンの答えは、大きな声じゃなかったけどはっきり聞こえた気がした。

「そりゃあ、俺は教師だから」

 ――あたしたちはマイセンを同級生の友達みたいに扱っていた。

 大学を出て二年しか経っていない先生はそれほど大人に感じなかったし、何ならちょっと舐めていた節もある。

 あたしたちはこの先生のことを何もわかっていなかった。

「それにナイト・ウォッチだからな。見守るのが仕事だ」

「なあ勘弁してよ……今すぐ消えるから……」

「俺だって撃ちたくない。でも生徒に手を出す奴は見過ごせない。長くもたなそうだから、その前に片を付けさせてもらう」

「待って、蔵米く――」

 爆発音に思わず飛び上がる。銃声は思っていたより遥かに大きく早朝の空気を震わせた。

 あたしはすぐには動けなかったが、銃声の余韻がやむと同時に角の向こうに飛び出した。

「来るなって言ったろ」

 マイセンは寝転がったままで仰向けになって上着を脱ごうと苦闘していた。あの男は胸元から大量に血を流して動かなくなっていた。この状況で上着を脱ごうとする意味……それを察してたまらない気持ちになる。マイセンはあたしに血まみれの死体を見せまいとしたのだ。けどクソ野郎の死体なんかより、マイセンのTシャツに大きく広がって滴る血の方がずっとショックだった。

「ひどい怪我じゃん……」

「……アドレナリンかな。案外痛くない」

 やせ我慢に決まっていた。顔は夥しい量の脂汗で濡れ、顔色は真っ白だ。それにさっき、自分でもうもたないって。なのにあたしに心配をかけさせまいとしている。

 かっこつけているくせにひょろひょろ痩せていて、女慣れしていないのが隠し切れてなくて、空想癖があるけどネーミングセンスが微妙で、でも優しくて、色んなことを知っていて、生徒のことを心から心配していて、話を真剣に聞いてくれて、そんなこの人のことを、あたしは――

 こんなときに、自分の気持ちに気が付くなんて。

「先生、死なないで……」

「……明日には生き返ってるよ」

「でも……もしかしたら今日が最後かもしれないじゃん、ループ」

「……その確率は低い。二百周以上続いてるもんがちょうど今日終わるって……」

「それでも死んじゃやだ……」

 もう止められなくなった涙がマイセンの顔に落ちる。

「おいおい、泣くなよ」

「先生が好きなの」

 その言葉は自然に口からこぼれた。照れ臭いとか恥ずかしいと考える間もなく。

 マイセンがどんな表情をしたのか、驚いたのか、困ったのか、笑ったのか、もう涙でよく見えない。

 頭の上に、弱々しくマイセンの手が置かれた。優しく頭を撫でられる。

「よく聞けよ。そこの散弾銃を、引き金に絶対指をかけないで、バッグに入れるんだ」

「え? 何?」

「いいから聞け。それ持って自転車乗って、危ない奴とばったり出くわしたら……引き金に触らないように慎重に、慎重にバッグから取り出せ。銃を向けても襲ってくるようなら、よく引き付けて撃て。触れそうなくらい近くに来てから撃つんだ。わかったか」

 マイセンの剣幕に首を何度も縦に振る。

「今日はもうお前を守れない。学校まで、自分の身は自分で守るんだ。いいな」

 あたしは何も言えなかった。マイセンがいない通学路なんて、どうしていいかわからないよ。

「返事は?」

「……はい」

 あたしは立ち上がって、銃を恐る恐る拾う。銃口の辺りが血塗れだが、そんなことどうでもよかった。バッグにそっとしまう。早く先生を安心させてあげないと。

「できたよ」

「よし、明日の朝、また迎えに行くから」

「……絶対だよ」

「……っていうか、もしかして、俺死なないんじゃね? 長々しゃべれてるし」

 そうだ。たくさん血を流しているからって死んでしまうと決まったわけではない。

「うん、死なないよ。待ってて、すぐに誰か呼んでくる……マイセン? ねえ、先生?」

 ゆっくり瞬きしていたマイセンの目が、開かなくなった。それからいくら呼びかけても、もう返事はなかった。たまらなくなってマイセンの手を握った。微動だにしない手から驚くような速さで温もりが消えていくのを感じながら、しばらくその場を離れられずにいた。


 ふらつきながら自転車に乗って校門まで辿り着くと、緊張の糸が切れたのかもう一歩も動けなかった。学校から何人か飛び出してくるのを見ながら、あたしは気を失った。

 起きると保健室で怪我の手当てをされていた。時刻はとっくに午後になっていた。あたしは起こったことを説明した。とにかくまずマイセンの名誉を回復したかった。

 隣のクラスの男子は、真相を知っても驚かなかった。マイセンが殺人事件の犯人を知って、そいつから銃を取り上げているという可能性は既に考えていたらしい。ただ銃を持つナイト・ウォッチの危険性を考えると、最悪の方を想定して動くべきだと思った云々……あたしにはもうそんな話はどうでもよかった。そいつを一発、思いっきりぶん殴って、それ以上文句は言わなかった。

 あたしはみんなの前ではもう泣かなかったけど、今日が終わるのがずっと不安でたまらなかった。ワコとフミが付き添って落ち着かせてくれたけど、深夜になっても眠れなかった。目覚めたとき、ここにいたらどうしよう。家のベッドじゃなくて、この保健室で目覚めたら。ループが終わってしまっていたら。また泣きそうになるのをこらえて、布団をかぶって丸くなっていた。




 目が覚めて、まず目に入ったのは暗い部屋の天井。まだ朝じゃない。そしてここはあたしの部屋。

 ループは途切れなかった。またいつもの今日だ。

 マイセンは生きている!

 声にならない歓喜の声を上げて飛び起きる。声を張りすぎて両親どころか隣人まで飛び起きたかもしれない。

 今日もマイセンが迎えに来る! あたしは鼻歌を口ずさみながら身支度を整える。

「あんたねえ、野獣の雄叫びみたいな声で起こすの、いい加減やめてよ。あれ、メイクやめたんじゃなかったの」

「別にやめてないし」

 うんざりした顔で起きてきたお母さんに目ざとく気づかれた。いつもより気合の入ったメイク。単に時間があったからで、他意はない……はずだ。

 そしていつものように電話が鳴る。外に出るとマイセンが待っている。あたしは急に気恥ずかしくなって、上手く挨拶できない。

「……おはよ」

「おはよう。何だか生き返った気分だ」

 マイセンは昨日と同じ、細長いバッグを担いでいた。

「こうなった以上、俺が銃を持ってるって情報はいずれ広まる。なら学校まで持っていった方が安全だと思って。あそこには、これを悪用しようとする奴はいないだろう。ちょっと前までは、正直生徒を信じきれなかったから家に置いてたんだが。学校でのみんなを見てたら大丈夫って思えたから」

 それからマイセンは「愉快な話じゃないが」と前置きして、ぽつぽつと話し出した。あの練馬という男とのことを。

 二人が知り合ったのはクレー射撃場だった(なるほど、確かにあれは狩猟用の銃ではなかったということらしい。ちなみにマイセンはその趣味のことを同僚にも生徒にも話していなかった)。マイセンの方から、初心者だった練馬に声をかけて色々教えてやっていたらしい。

 練馬は年下の先輩であるマイセンに心を開いていき、やがて自分が昔いじめられていたという身の上話をするようになった。いつかいじめた子たちに復讐したいと思っていることも。マイセンは、徐々に練馬が危険な人物だと感じるようになった。

 そして五十三周前、マイセンがループを認識するようになると、同じ頃に散弾銃を使った殺人事件のニュースが流れた。殺されたのは一家の父と母、そしてまだ幼い子供だった。犯人は覆面をしていたが、目撃者の証言による背格好などの特徴は練馬と一致していた。

 次の日、すぐにマイセンは練馬の家に向かった。窓を割って侵入し、銃を突き付け問い詰めた。

「あの人は口では否定したけど、様子はどう見てもクロだった。だから練馬のガンロッカーから散弾銃を取り出して、俺の家のガンロッカーに入れることにした。――散弾銃っていうのはガンロッカーに保管する決まりになってるんだ。練馬は縛り上げて風呂場に転がしておいた」

 それからナイト・ウォッチであるマイセンは、毎日一日が始まると同時に練馬の家へ行き、奴を縛って銃を回収する日々を送った。

「昔自分をいじめてた相手を一度撃ち殺しただけなら、たぶん俺は練馬を放っておいたと思う。でも子供まで撃つような奴を、野放しにはできなかった」

 マイセンがルーパーになった時期を偽っていたのは、二十周もの間、教師としてあたしたち生徒を守ること以外に注力していたのが後ろめたかったからだった。

「迷ってたんだ。警察に連絡して『保安官シェリフ』になるか、『自警団ビジランテ』に混じるか。銃を持ってるならどっちかで世の中に貢献するべきじゃないかって。でも俺は、毎日知り合いを縛り上げて放置するだけで罪悪感に苛まれてた。悪人を追いかけ回して撃つなんてできそうもなかった。それで分相応に、教師として学校でできることを探そうと思ったんだ」

 結果として、マイセンが自分よりも後にルーパーになったと思ったあたしは、マイセンと抵抗なく通学でき、一人で学校に向かうより安全な日々を送れた。

 けどそのせいで、あたしはこの人に心をかき乱されている。畜生、どうしてくれるんだ。

「練馬が毎日自分の無実を主張するもんだから、銃は取り上げるけどもう縛るのはやめますって言って解放したんだ。しばらく前から自分の銃は持ってきてないように見せかけた上で。奴が殺人者なら、弾の入ってない銃しか持ってないと思ってる俺に、何か仕掛けてくる可能性もあるかなと思ってたんだが……まさか殺しに来るとは」

 そしてそんな場面に出くわすあたしの間の悪さといったら。

「ナイト・ウォッチの俺を攻撃するっていうなら、別のナイト・ウォッチに頼んでナイト・コールで起こしてもらう約束をしておかなきゃ、次の日からまた拘束されるのはわかり切ってるっていうのに……あまりに短絡的だ。そのくらいおかしくなっちまってたんだろうな」

 あの様子を見ただけでまともじゃないのは明らかだ。奴の手の感触やキモい声、臭い息。思い出すだけで鳥肌が立つ。

「そういえば、あいつ言ってた。『今日一日だけでも存分楽しんじゃうよ』って」

「せっかく手に入れた自由を手放すのも承知の上でか。翌日怒り狂った俺に殺される可能性だってあるのにな」

「今日も……あいつの家に行ってきたの」

「ああ、これからも毎日拘束し続けないといけないな」

 あんな豚野郎、チャーシューのように縛る手間なんて省いて、脳天に一発ぶっ放して屠殺したって構わないのに。まったくもう、優しいんだから。

「三周目くらいからいつもそうしてるんだが、少しでも退屈しないように、両手が縛られても口でペンを咥えて操作できるタブレットなんかを置いて行ったりしてさ。……もしかしたら俺も、ちょっとおかしくなってるのかもな」

「そんなことないよ。マイセンは、おかしくなんかない」

 自分を刺した男にさえ同情できる人間がおかしいなんて、そんなはずはない。だがいざとなったら悪人を躊躇いなく撃てるこの人は、平和ボケしたこの国の「普通」の人の範疇からは外れているのかもしれない。もっとも綺麗事をほざくだけで無法者に抵抗もできないようなのが「普通」なら、そんなものはクソ食らえだけど。

 正常とか異常とか、正しいとか間違っているとか、あたしにはどうだっていい。わかっているのは、マイセンが生徒を命懸けで守る教師だってことだ。そういう人だからあたしは――

 沈黙が流れる。何となくこのままだと話があたしの望まない方向に行きそうな気がした。

「でも、マイセンのおかげで事件は一度しか起こらずに――いやマイセンが刺し殺されてあたしも襲われかけたから二度か。二度しか起こらずに済んだけど、ループが終わったらちゃんと警察動いてくれるのかな? 銃はマイセンが取り上げてるからいいけど、子供まで撃ち殺したような奴は、いくら被害者が生き返ったってちゃんと捕まえてほしいよ」

「定期的に放送されてるよな。超法規的措置ってことで、ループ中の性犯罪や傷害、殺人はループが終わり次第、一斉に逮捕するって。それとナイト・ウォッチが犯罪者をナイト・コールで起こすだけでも犯罪の共犯と見なすってな」

 何とか話の方向を自然に逸らせたようでほっとした。

「そうそう、被害者の証言があれば物的証拠なしでも有罪になる可能性があるんだってね」

「まあ物的証拠があるわけないからな。でもそうやって脅しとかないと、好き放題やる野蛮人が増えるばっかりだろうし。他の国も大体同じような措置をとっくに取ってるわけだし」

「特に女を襲ってるような奴らは、このループが終わったらとっとと捕まえてもらわなきゃ困るって。殺された人は生き返れるからまだマシだけど、襲われた記憶は消えるわけじゃないんだから」

「それはそのとおりだけど……だが実際はループ中の犯罪に関しては、ほとんどがうやむやに終わるんじゃないかと俺は睨んでる」

「はあ? なんで? 刑務所にぶち込む奴らが多すぎてパンクするから?」

「それもある。逮捕、起訴、裁判がとても追いつかない。警察や検察の中にも無茶苦茶やったやつはいるだろうし。ただそれ以上に、証言だけで有罪にするってのが、やっぱ苦しいはず。推定無罪の法則ってのがあるからな」

「それを引っ繰り返すから超法規的措置って言ってんじゃないの」

「しかし、あの人に襲われただの、あいつに殺されただのの証言だけで裏付けもなく人を有罪にできたら、冤罪天国になっちまう」

「レイプ魔と殺人鬼が平然とうろついてる犯罪天国よりマシだって! せっかく元の世界に戻っても、それじゃあ痴漢だらけの電車に乗ってるようなもんじゃん」

「痴漢か……そういえばたまに話題になる痴漢冤罪の問題に関しては、推定無罪の法則は無視されてると言わざるをえないな。見る角度によっては、この国の司法は穴だらけだ。なら政府の超法規的措置が現実になる可能性もあるか? 所詮政治家なんて連中は票を失うのが怖いんだから、ループ中に犯罪被害に遭った人の多さを無視はできないはず。それとも結局はいつもの事なかれ主義で、今現在好き勝手に暴虐の限りを尽くしてる犯罪者共を牽制するためだけの脅し文句に過ぎないのか……」

 どんどん話が大きくなってきたが、理屈っぽく話の長いいつものマイセンを見て安心した。両者生き返ったとはいえ、殺したり殺されたりという経験をしたのだ。心に傷を負っていそうなものだが、本人は至って平気そうな顔をしている。それはそれでどうなんだとも思うが……

 とにかくあたしにとって不都合な話題からは大きく離れてくれたようだ。そもそもあのときのあたしの言葉。息も絶え絶えだったマイセンに聞こえていたかも怪しいものだ。

「……話は変わるが、その……俺の死に際に千夏が言ってくれたことなんだが」

 あたしは太ももに全神経を集中して自転車をこぐ速度を上げ、マイセンを置き去りにした。

「おい、待て! そんなにスピード出したら危ないだろ!」

 マイセンも負けじと速度を上げ、あたしの隣に並ぶ。

「その、俺のことが――って話だけど」

「いや、あたし今その話はなしって雰囲気出してたじゃん! 空気読んでよ!」

「だが本気の言葉には本気で答えないと――教育者としても」

「急に先生ぶらないでよ!」

 マイセンはいつものマイセンでいてくれないと、あたしもいつものあたしでいられない。

「えぇ……俺はいつも教師らしくやろうと思ってるんだけどなあ」

「それでマイセンのカップなんか持って来ちゃってんの? 何? 高級品を使ってれば大人なわけ? わざわざ梱包してリュックに入れてさ」

「マイセンこと蔵米先生が本当に例のマイセンのカップを持って来るっていう洒落だろ? みんなウケてたじゃないか」

 給料がいいわけでもない若い高校教師が自分では買いそうにないそれは、教員試験に受かったお祝いに親戚からもらったものらしかった。新担任だった蔵米先生がその話をした日から、先生のあだ名はマイセンになった。陶器のマイセンとはイントネーションが違う。蔵米先生のマイセンは「凱旋」や「肺炎」と同じで、陶器のマイセンは「サイレン」や「睡蓮」と同じだ。

「大体、ナイト・ウォッチとかナイト・コールとか、何なのそのセンス!」

「ナイト・コールの方は俺が考えたわけじゃない。夜勤組の警察官が一日の始まりに非番や日勤の警官を叩き起こして招集するための一斉連絡をそう呼んでるんだ」

 そういえば以前護身術の教習で学校に来てくれた警察の人がそんなことを言っていた。

「夜勤組……ならマイセンみたいな人は徹夜組でいいじゃん」

「そんなダサい呼び方より、ナイト・ウォッチの方が悪いことが起きないか見張ってる感じがしていいだろ? 他の呼び方がよかったら……そうだな、『ジョーカー』っていうのはどうだ? 切り札になるカードってことで」

 うわあ、ダサい。

「ダッッッッッサ! 知ってる? そういうの中二病っていうんだよ。」

 誰もが面と向かっては指摘しなかったことをとうとう言ってしまう。

「中二病くらい知ってるわ。っていうか俺をそんなもんの患者扱いすんな。大体、中二病はお前の方じゃないのか」

「はあ?」

「周りの生徒も大人たちも、危機感の足りないボンクラだって思ってるとこあるだろ。状況を正しく見極めてるのは自分だけだって。そういうの、周りに伝わるんだぞ。まあ確かに千夏は判断力あるけど――」

「はあ~? はああ~? 何それ! あたし、そんな……マイセンこそ、エロ教師のくせに!」

 急所を突かれたような気がしたあたしは、取り乱して意味が分からないことを口走ってしまう。

「はあ? 何のこと?」

「隣でエッチしてる生徒の声を盗み聞きしてたじゃん!」

「あ、あれは保健室にしかベッドがないんだからしょうがないだろ。別に隣の声なんて聞いてねえよ!」

「嘘。絶対耳をすませてたね。エロ教師。エロセン」

「エロセンはマジでやめろ。そもそも眠くて隣の様子なんか気にする余裕ねえよ」

「でも……あたしが起こしに行ったとき、その、大きくなってたよ。アレが」

 実際はそんな所は見ていないのだけど、売り言葉に買い言葉で後に引けなくなってつい出まかせを言ってしまう。

 一瞬遅れて意味を悟ったマイセンが一層慌てた声を出す。

「お、大きくなってねえよ! よしんば大きくなってたとしても、それは生理現象なの! 寝て起きたときはそういうもんなの!」

「こんな所で保険の授業始めないでくれます~?」

 ここぞとばかりにマイセンをからかう。やっと余裕が戻ってきた。

「……何なんだよ。昨日はあんなにしおらしかったのに。『先生、死なないで。死んじゃやだ』って」

 逆襲してきやがった。あたしはブレーキをかけて、並んだマイセンの肩をパンチした。

「調子乗んな、バカ! 死ね!」

「うわっ、教師を殴るな! 昨日死んだ人間に死ねって言うな!」

「あたしあのとき頭打ってたし! 正気じゃなかったし!」

 ――ループする日々が楽しくなるときもある。フミの言葉を思い出す。

 その気持ちがわからないと言えば嘘になる。だけどあたしはやっぱり明日が来てほしい。

 マイセンは生徒と隠れて恋愛できるような人じゃない。今日が続く限り、あたしが高校生を卒業できない限り、この勝負に勝ち目はない。だからもうこの想いは言葉にしない。

 けどいつか明日が戻ってきたら――生徒じゃなくなったあたしなら勝機はあるはず。

 傍から見ればくだらないようなことでも、未来に目標があるのはいいことだ。

 あたしは早く学校に着いてしまわないよう自転車の速度を調節する。早朝の空気で熱を冷まさないと。こんな火照った顔のまま学校へ行ったら、ワコやフミに何を言われるかわからない。

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