トゥモロー・ネヴァー・ノウズ

宮野優

第1話 インフェルノ

 これは信仰とは無縁だった私が奇跡を信じるに至るまでの物語だ。地獄に射した一筋の光明の物語だ。生まれ変わったこの世界では、誰もが奇跡と地獄を知っている。




 ――おはようございます。その後お変わりないでしょうか。

 ――私は相変わらず覚えなきゃいけないことばかりですが、何とかやってます。課長が抜けた穴はなかなか埋まりそうもありませんが、何とか頑張ってます。

 ――突然ですけど、送別会で課長が教えてくれたお店、ぜひ行ってみたいので、よかったら今度一緒に飲みに行きませんか?


 朝起きると、退職した会社の部下からSNSにメッセージが来ていた。受信日時は昨夜二十二時頃。確かにその時間にはもう床に就いていた。この部屋で過ごす最後の夜になると思ったし、次に好きなだけ眠れる夜がいつ訪れるともわからなかったから、たっぷり睡眠を取ろうとしてのことだった。

 だがいよいよ決行の日だと思うと、結局興奮して熟睡できなかった。そんな中届いた、自分のことを慕ってくれていた相手からの(社会人が上司に送るメッセージとして適当な文面かはともかく)素朴なメッセージは、少しだけ私の緊張をほぐしてくれた気がする。

 けれどその彼女も、これから私がすることできっとショックを与えてしまう一人なのだと思うと、一片の罪悪感が胸を掠めた。

 新卒の社員だった彼女は私によく懐いていた。他の上司や先輩が特定の教育係として付くことのなかった彼女に、私が直接指導することが多かったせいもあると思う。元々若い女性社員の少ない所に入ってきた子だったし、可愛らしいがやや世間知らずそうな感じの彼女に部下の男たちの誰かを教育係として付けて、何か間違いが起きるのを憂慮したからだ。我ながら過剰な心配だったが、彼女を見ていると私はつい同年代の娘のことを思い出してしまい、庇護欲を掻き立てられた。あの子が生きていれば、ちょうどあんなふうに初々しいOLとして働いていた今があったのかもしれないと。だがあの子はOLにはならないし、看護師にも教師にもパティシエにもならない。ウェディングドレスを着た新婦になることも、母親になって我が子を抱きしめることもない。


 ――元気にやってるならよかった。

 ――残念だけど、一緒に食事は行けそうにありません。


 何の気なしにメッセージをそこまで打ち込んで、送らずにすぐ消した。殺人犯の犯行当日のメッセージなんて、気味が悪いだけだろうから。


 中年と呼べる歳まで生きていれば、何人かは殺してやりたいと思う相手と出会うのが当たり前だろう。だが、絶対に殺すと決意したのはあのときが初めてだった。そして実際に殺しに行くのも、今日が最初で最後になるだろう。

 順調に事が運べば昼過ぎには全てが終わり、私は逮捕されて取り調べを受ける。十七年間暮らしたこの部屋ともお別れだ。もっとも思い出の品は既にすっかり整理していて、ほとんど食べて寝て、殺意を研ぎ澄ませるためだけの空間になっていたから、特別寂しさを感じることもない。

 警察はまず何を訊いてくるだろう。動機はわかりきっているから、いつから犯行を計画していたのかと質問してくるだろうか。正直に答えてしまえばいい。裁判で有利になるよう立ち回るような小細工は必要ない。どんな判決が出るにせよ、私の人生はもうとっくに終わっているのだから。

 私がいつ殺害を決意したのか、おそらく言い当てられる者はいない。判決が出て、鬼畜としか言いようのない所行に及んだ犯人が、未成年だからというだけの理由で数年もすれば社会に解き放たれることがはっきりしたときか? 違う。公判で初めて見た犯人の顔に罪悪感のかけらも見いだせなかったときか? それも違う。では霊安室で変わり果てた娘の遺体と対面したときか? いや、私が殺害を決意したのはもっと前。警察から連絡があり大雨の中急いで病院に車を走らせる途中、人生で一番の恐怖に襲われている間に一つの可能性が頭を過ぎったときだった。

 身元を確認してほしいと言われた遺体が、もしも本当にあの子だったら。あんないい子が若くして命を落とすような、そんな理不尽がこの世にあっていいわけはないし、だから遺体はきっと別人のもので、あの子はたまたま雨宿りでもしていて帰りが遅くなっただけで、今頃私と入れ違いに家に帰っているかもしれない。必死でそんなふうに考えようと努めながらも、心の奥底では別の可能性を確かに思い浮かべていた。

 遺体は川から引き上げられたと警察は言っていた。あの子は強い雨が降る日に増水した川に近づいて誤って転落するような愚かな娘ではない。それでももし遺体が娘のものであるというなら、それはきっと何かの事件に巻き込まれたということを意味するのではないか。そう、例えば何者かに殺害されて、川に遺棄されたといったような――

 必死で頭から振り払おうとしても最悪の想像は頭の奥に居座り続けた。そしてそのとき私は既に決意していたのだ。もしそんなことが起きたというなら、誰かがあの子を殺したというなら、必ず私の手でそいつを殺すと。

 このとき抱いた殺意を、一時たりとも鈍らせることなく生きてきた。その意志を支える最も強い土台になったのが、遺体安置所で対面した、光を失った眼を半開きにし、何かを呟こうとしている口元から歯を覗かせた娘の死に顔だった。右の頬が腫れ、左のまぶたの上に痛ましく開いた切り傷があるが、もうそこから血は流れていない。

 心臓が凍りついたようだった。いっそ本当に凍って死んでしまえたら楽だったろう。あんな悲しみには、絶望には、一分だって耐えられない。人の親なら誰しもそうだろう。最悪の想定が頭にあっても衝撃が和らぐわけではない。それに私は心のどこかで、この世界が、あの子と私にそんな残酷な仕打ちをするわけがないと信じていたのだ。

 しかし待ち受けていた現実は、私の想像など遙かに超えていた。

 刑事の説明を、私の心はシャットアウトしようとした。これは現実じゃない。これは現実じゃない。何度も何度も心の声が呟き続けた。

 ――遺体は全裸でシーツに包まれ、川に遺棄されていた。

 ――性交の跡が見られ、おそらく暴行されたものと思われる。

 ――血中から大量の薬物が検出されており、腕には付いたばかりの注射跡がある。

 ――直接の死因は溺死だが、意識がない状態で川に投げ込まれた可能性が高いとみている。

 その日から私の目に映る世界は変わった。

 何の罪もない少女が犯され、殺される。なぜこんなことが起こるのか。あれから何度も考えた。

 それはこの世界の本質が地獄だからだ。

 大勢の人間に混じって、人の形をした鬼が徘徊する世界。鬼は他者を苦しませることを躊躇わず、欲望のままに蹂躙する。

 あの子が出くわしてしまったそれは、あの子と二歳しか違わない十六歳の少年だった。

 札付きの不良として有名だった犯人は、すぐに逮捕された。捕まることなど恐れていないかのように、多くの証拠を残して。

 だが犯人はおとなしく罪を認めようとはしなかった。

 見え透いた嘘の供述で刑を逃れようとした。そのためなら被害者の名誉など簡単に踏みにじった。中学生の少女の純潔を鬼畜のように奪ったときと同じように。

 ――あの日初めて会った子だけど、誘ったら簡単について来た。

 ――親や教師が厳しくてうんざりしてるって。それで羽目を外したくなったって。

 ――初めてだって言うから、痛がらないようにクスリを打って、気持ちよくなってからしようと思った。あの子も乗り気だった。

 ――注射する量が多すぎたみたいで、しばらくしてから急に倒れた。息をしていなかったから、死んだと思って怖くなって川に捨てた。

 弁護士の入れ知恵ではない。私は直感的にわかった。犯人はこのふざけた作り話を自分で考えて、遺族の私の前で話している。あの子を殺してから尚も辱めている。

 私は公判中、刃物を忍ばせて奴に飛びかかるべきだったのだろう。どうせ十八歳未満の犯人が死刑になることはないとわかっていたのだから、その場で始末をつけてしまうべきだった。だが絶望は人の手足を動かなくさせる。どんなに憎しみが強く、自分がどうなっても必ず殺すという決意があっても、絶望に蝕まれ、虚無感に支配されてろくに食事も受け付けなくなった身体では、確実に息の根を止めることなどできるわけがない。

 私は待たなければならなかった。長い長い時間。その間、凍りついた心臓を流れる血液を温めてくれたのは、復讐の炎だけだった。

 裁判中、私は常に無気力な態度を通した。どうせ法律が犯人を葬ることはできないし、一生檻の中に入れることもできないと知っていた。そもそも私はどんな環境であれ、奴が生き続けることを許す気はなかった。だから奴には早く外の世界に出てきてほしいくらいだった。そうすれば自分の手で殺せる。だがそんな殺意は表に出すべきではない。警察に目を付けられるのも犯人を警戒させるのも、復讐を完遂するのにいい影響を及ぼさない。だから裁判中も終わった後も、憔悴して無気力になった遺族を演じた。

 職場に復帰した私は仕事に打ち込んだ。娘を奪われた悲しみを仕事で紛らわそうとしている――そう周囲から見られることには成功していたと思う。復讐の機会を伺っているなどとは誰にも気取られなかったはずだ。

 二年前には管理職に昇進までしてしまった。だが責任ある立場になった身で逮捕され、会社に迷惑をかけることになるのは心苦しかったので、三か月前に退職願を出した。それでも私が殺人者になることで悲しませる人間は大勢いることはもちろん承知している。だがそれも復讐に比べれば些末な問題だ。誰が何と言おうと、この復讐こそがあの子への愛を最も証明できる方法だと私は信じている。

 たとえば私が、どんな理由があっても人を殺してはいけないという思想の持ち主なら、犯人をできただろう。だが私は、奴を殺すことに毛ほどの罪悪感も見いだすことができない。無気力に支配され、身体を思いどおりに動かせなかったのも過去のことだ。それに両親が既に他界して兄弟もいない私には、殺人犯の家族と呼ばれて不幸になる人もいない。それでも実行に移さなかったとしたら、それは単に自分が逮捕されて刑務所に入りたくないからということになってしまう。逆に投獄されることも厭わず復讐を遂行できれば、娘への愛を証明できる。そのとき初めて私はあの子の墓前で笑うことができるような気がする。

 改めて殺意を反芻した私は、最後にもう一度鞄の中身を点検し、部屋を後にした。空っぽの部屋には鍵をかける必要もない。今日の内に警察がこの部屋を調べに来るはずだから、どうせそのときに開けられる。

 通りでタクシーを拾って目的の病院へ向かう。ここからはそれなりに距離があったが、もうタクシー代を節約する理由がない。

「あの病院、けっこう待ち時間が長いんですよねえ」

 若い運転手がそう話しかけてきた。見舞いではなく通院と思われたのも無理はない。私が座った位置からはルームミラーで自分の顔を見ることはできなかったが、それでも自分の顔色が普通でないことくらい想像がつく。

 私が曖昧に返事をすると、運転手も会話を続けようとはしなかった。平静を装っていたつもりだったが、会話が弾みそうな相手でないということは見透かされてしまったらしい。人のよさそうな顔をした運転手はもうこちらを振り返ることなく車を走らせた。

 病院に着いた私は、建物に入る前に立ち止まって空を見上げた。娘が殺された日とは対照的な、澄み渡った青空が広がる中に白い雲が浮かび、涼しい風がそれを流していく気持ちのよい日だった。

 院内に入ると、さもただの見舞客のような足取りを意識して三階の病室へ向かう。だが廊下を行く看護士に注意深く観察されたら、熱に浮かされたように震えているのがすぐにばれただろう。

 一瞬で事を終わらせる。何度も決めていたことを最後にもう一度確認する。娘の無念を思えば、楽には終わらせずに、たとえ一分かそこらの時間しかなかったとしてもその中で最大限の苦痛を与えて殺すべきだったが、最も重要なことは失敗しないことだ。私はこれまで暴力とは無縁の人生を送ってきた。どんなに憎い相手でも、人間の肉体を刺し貫く感触や、吹き出す血しぶきに精神が耐えられるとは限らない。痛めつけるための一撃で血の気が引いたり気が遠くなったり、そんなふうにして肝心要のとどめを差せなくなってしまっては元も子もない。だから速やかに、確実に死を与えるべきだ。

 娘を殺した犯人について調査を依頼していた探偵から、奴がこの病院に入院したことを聞いたとき、私は歓喜に震えた。その感情は事件以降ずっと封印されていたもので、自分がまだ喜びを感じられるのだということに私は驚いたくらいだ。出所後すぐに、相変わらず少しの反省の色も見せることなく遊び回っていた犯人が、バイクで事故を起こして片足を骨折したという報告を聞いている途中で、絶好の機会がやって来たことを理解した。

 階段を上がりきり、病室が並ぶ廊下に踏み出す。探偵の報告が正しければ、奴は複雑骨折した片足にギプスをしている。眠っていなくてもベッドに横になっていれば、素早く起き上がって抵抗することは難しいだろう。

 私はその病室の前で足を止めた。左右を見回し、誰もいないのを確認してからバッグの中に手を突っ込んで包丁を握りしめる。まだバッグの外には出さない。手の震えが止まらない。深呼吸をして静めようとする。あと少しで全てに決着をつけることができると自分を鼓舞する。

 生前の娘の笑顔を思い浮かべる。

 生まれたばかりのあの子を胸に抱いたときの感触を思い出す。

 この世の全ての残酷なことから、この子を守ってあげたい。そう強く願っていた。それができると思っていた。

 最後に今でもフラッシュバックする、あの子の死に顔を思い浮かべる。震えが止まった。もう大丈夫だ。私は必ずやり遂げられる。

 病室に足を踏み入れる。奴は窓際のベッドにいた。探偵の調査どおり骨折した足を吊るしている。足早に近づく私を見上げた顔は見間違えようがない。死んだ魚のようという月並みな比喩が正にぴたりと当てはまるような、生気に欠けた顔は入院生活のせいだけではあるまい。裁判のときにもこの男は常にこんな目をしていた。

 私がベッドのすぐ脇に立っても、奴は何も思い出さなかったらしい。怪訝な顔で何か言おうとしたが、その前に私はバッグから手を抜き出した。握りしめた包丁を、腹部に向けて突き出した。昔一度だけ同僚が釣り上げたという鮭をもらった際に捌いてみたことがあるが、そのとき腹に包丁を差し入れたときの感触と、それほど相違なく刃は人体に潜り込んだ。絶叫が上がるまで二、三秒の間があったように感じた。そのときには既に血が入院着に染み出して、赤い楕円が徐々に広がっていった。

 奴が振り回した腕が私の身体に当たり、思わず一歩下がったはずみに傷口から包丁が抜けた。赤い楕円が広がる速度を上げ、私は我に返る。素早くメッタ刺しにするつもりだったのに、人を刺した感触に思わず手を止めてしまっていた。気を引き締めて再度包丁を突き出す。奴は腕を突き出して阻もうとしたが、抵抗空しくあっさりと刃は腹に吸い込まれる。次は素早く引き抜いて、三度、四度、五度と刺すと、私の身体を叩く腕から力が失われていくのがわかる。

 その間、奴の口から漏れるのは言葉にならない絶叫と呻きだけだった。本当は殺す前に一言でも謝罪や悔恨の言葉を引き出したいと思っていたのだが、この様子だとそれは難しそうだ。廊下を駈ける足音が近づいてきた。病院の警備員が取り押さえようとしてくるかもしれないし、無関係な人を傷つけるようなことはしたくない。取り急ぎとどめをさすことに決めた。首を狙って思い切り包丁を突き出したが、狙いを大きく逸れて顎の骨に当たり、滑った刃が頬の肉をべろりと削いで布団に突き刺さった。開いた傷口から歯茎と、僅かに歯も覗いていた

 凄惨な光景にこみ上げる吐き気をこらえながら、次は慌てずに切っ先を首筋に当てがう。力ない手が私の腕を掴み、ふと私たちの視線が合う。その眼差しが訴えてくる全てを無視し――それは奴が私の娘の人格とか尊厳とか人生とか、加えて人間の倫理とかいったものをすべて無視したのと同じように――渾身の力で刺し貫いた。詰まった便器の水があふれるような音を立てて口から溢れ出た血が、顔の下半分を真っ赤に汚した。

 病室に飛び込んできた看護士が息を呑む気配が、まるで音を発したかのように伝わってきた。私はぼんやりと彼女を見つめた。熟練の看護士に見えたが、凍りついたように一言も発することができないようで、私と目が合うと一歩後ずさった。私は構わず右腕に力を込めたが思うようにいかなかったので、両手で包丁を引き抜いた。鮮血がほとばしり、看護士の悲鳴が響く。

「警察! 警察呼んで! 患者さんが刺された!」

 それを聞きながら、私は奴の見開かれた眼がそのまま動きを止めたことだけを確認した。安心して包丁を手放そうと思ったが、握りしめた右手が硬直して開かなかった。私は震える左手で一本一本指を引きはがし、人差し指を緩めたときにようやく包丁は床に落ちて鋭い音を立てた。いつの間に病室の前に集まっていた看護士や医師たちが飛びかかればそんな私を取り押さえることは難しくなかっただろうが、彼らは皆固唾を呑んで殺人犯を遠巻きにするだけだった。


 それからのことは詳しく覚えていない。警備員が来て、私は敵意がないことを示すように手を上げ、そして取り押さえられ、急行してきた警察に引き渡された。私は聞かれたことに全て答えたし、自白の裏付けもすぐに取れた。

 全てをやり遂げたことで虚脱感に支配されていたから、取り調べのやり取りは夢を見ているように曖昧模糊としていた。ただ、すぐにある程度の事情が分かると、刑事は高圧的な態度を取ることもなく、丁寧と言ってもいい物腰で接してくれたことが印象に残っている。

 警察署で眠りにつくとき、私は満ち足りた気分だった。更に続く取調べも、裁判も、刑務所暮らしも、恐れることはない。やるべきことはやり終えた。後の人生は余生のようなものだ。心残りも目標もない日々を、娘との思い出だけを糧にして、心穏やかに生きるだけだった。自殺を考えはしなかった。少なくとも今私の心は晴れやかだったし、これからの日々が死を願うほど辛いものになるとは到底思えない。娘を殺したあの男がのうのうと生きているという事実に耐え続けた日々に比べれば、囚人として何年も囚われることなど何ほどのこともない。

 地下の肌寒い空気の中で、長い一日の疲れは、とうに昂ぶりが収まった私をあっという間に眠りに導いていった。




 目覚めたとき、私の目に入ったのは見慣れたアパートの天井だった。

 それをはっきり認識して飛び起きた。眠気は一瞬で吹き飛んでいた。

 檻の中で一夜を明かしたはずの自分がなぜここに?

 周りを見回し、自分を見下ろす。やはりどう見ても自宅の寝室で、寝間着を着ている。

 呆然としたのも束の間、携帯端末の画面を見ると、今日の日付が表示されている。間違いなく、昨日――あの男を殺すと決めていた日付だった。

 テレビをつけて確認するが、やはり日付に間違いはない。

 常識的に考えれば、あれは全て夢だったということになる。決行前夜に昂ぶった精神が見せたリアルすぎる夢だと。何せ人を殺した――いや、これから殺そうとしているのだから、まともな精神状態でいられる方がおかしい。俄には信じがたいが、そんなときには目覚めてから振り返っても現実としか思えないような鬼気迫る夢を見ることもありえるかもしれない。

 釈然としないような気もしたが、とにかく今日これからやるべきことは決まっている。夢の中でリハーサルができたと思えば、むしろ本番の成功率を高めてくれる気がした。

 あまりにも真に迫った夢で、飛び散る血しぶきの熱さや、鼻を刺す臭い、そして何より人体を刃物で刺し貫く感触が鮮明に思い出されたが、怖気づいて今日の決行を取りやめる気など毛頭なかった。たとえ夢で見た以上の地獄絵図が待っていようとも、娘の無念は必ず晴らす。夢で凄惨な死を与えようとも、あの悪魔は現実に今呼吸をし、改悛の情など欠片も見せることなく、病院を出てから繰り返す悪事に想いを馳せている。

 包丁を鞄に入れて、部屋を出る。夢の中でしたように、鍵はかけない。時刻を確認すると、夢で見た時間より少し早かった。

 通りでタクシーを拾って、病院を目指す。頭の中で数百回は繰り返した迅速な流れと、夢の中の決して無駄がないとは言えない動作を比較する。私はあのリアルな夢よりも上手く奴を殺せるだろうか。

 だがそんな不安も、病院に着いた瞬間掻き消えた。奴のいる空間に近づいて殺意が増したからではない。眼前の異常な光景に気を取られたからだ。

 病院が、夢で見た病院とそっくり同じだった。しかも私はその病院を訪れたことがない。一度も見たことのない実在の建物が夢に出たというのはどういうことか。

 まるで予知夢だ。だが世の中にはデジャ・ヴというものがある。実際はあらゆる意味で初めて見るものなのに、どこかで見たように感じる。今日の夢で見たような気がする。それだけなのかもしれない。大体病院の建物などどれも似たようなものだろう。

 納得して落ち着きを取り戻すと、中へ足を踏み入れた。ロビーも夢に出てきたとおりのように思えたが、これもデジャ・ヴで説明がつく。

 そしていよいよ病室で奴と対面して、その顔があまりにも夢で見たとおりだったのも、そもそも私は裁判の間、絶対にこの顔を忘れないように脳裏に刻みつけていたのだから、たとえそのときの記憶と目の前の男の容姿に、髪形など若干の違いがあるとはいっても、ありえない不可思議な現象とは言えないだろう。

 だが混乱してこんなことを考えているうちに、奴は自分の方を凝視する私に警戒感を露わにした。

「何見てんだよ。誰?」

 私はベッドの脇に駆け寄り、バッグから取り出した包丁を突き出した。寝ている人間に振り下ろすのだから、刃が下を向くように握った方がよかったのではないかと夢の内容を振り返って反省していたのだが、混乱していた私は咄嗟に普通の握り方をしてしまっていた。しかしそのまま体当たりするようにベッドの上の胴体に刃を突き刺すと、夢で感じたのと全く同じ感触が伝わってきた。その符合のあまりの奇妙さに、私は一瞬動きを止めてしまった。

 我に返ったのは、奴の拳が私の頬を打ったからで、そのとき驚いて思わず包丁を離してしまった。奴はその隙に悲鳴を上げながら包丁を腹部から引き抜き、威嚇するように振り回した。私は一瞬たじろいだが、奴の傷が致命傷でなさそうだと考えたとき、覚悟を決めた。絶対にしくじるわけにはいかない。刺し違えてでも奴にとどめを差さなければ。

 包丁を握った右手に飛びついて、必死で奪い返そうとする。だが指がほどけない。そうしているうちに髪の毛を掴まれ、引っ張られる。私は思い切って片手を離し、奴の傷口の近くをまさぐる。悲鳴を上げながら奴が私の手首を掴んで止める。互いに両手を塞がれた状態でもがいてから、私は目の前で暴れている奴の右腕にかみついた。遂に包丁を取り落す。私は拾ったそれを、次こそ振り下ろしやすいように握り、身体ごと沈み込むように胸の辺りを狙った。だが奴が腕で防ごうとしたせいで、刃は四分の一程度しか刺さらなかった。

 そこで警備員が病室内に飛び込んできた。夢の中ではこの頃には既に助かりようのない傷を与えられていたのに! 私は焦って二度、三度と包丁を振り下ろしたが、奴が自分をかばうように突き出す腕に邪魔されて、急所に深く刃を突き刺せなかった。そして私は後ろから警備員に羽交い絞めにされ、他の警備員も駆けつけると、あっさり捕縛されてしまった。

 奴は腕や胴から血を流しながら、ほとんど動かなかった。


 現行犯で逮捕されてからの一連の流れも、やはり夢で見たとおりに進んでいったが、私にとってそれはもはやどうでもよかった。気がかりだったのはただ一つのことだけだった。

 だから取り調べの最中、刑事が放った一言に、私は声の限り絶叫したい衝動に駆られた。

 ――あいつが一命を取り留めた。

 最悪の結果だった。私は仕損じた。殺人未遂の罪で裁かれ、あいつは怪我が治り次第自由の身になり、のうのうと生き続ける。

 刑期を終えて自由の身になるか、或いは執行猶予がつくか、どちらにせよ奴が不自由且つ無防備なところを襲撃できる千載一遇の好機はもう二度と訪れないだろう。

 後悔が頭を支配し、みっともなく涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえる。感情がぐちゃぐちゃに掻き乱れ、しばらく集中してものを考えることができなかった。だが留置場に連行され肌寒さの中で長時間過ごすうち、意志の力が蘇ってきた。たとえ難易度が上がっても、次こそは必ず成功させる。

 自由を奪われた我が身を慰めるようにつらつらと思考を重ねた。また同じように刃物で襲いかかるのは確実性に欠ける。より強力な武器を使うべきだ。この国でどうにかして銃を手に入れるのと、自作の爆弾を作るのとどちらが早いだろう。ボウガンのようなものなら簡単に手に入るのだろうか。それより車で轢き殺す方が簡単だろうか。いや、そんなことより今は裁判で執行猶予を勝ち取れるよう、弁護士を雇って相談することが先決か。

 先行きは暗いが、決して諦めはしない。今はそれだけはっきりさせれば十分だった。

 決意を新たにした私は再び殺意で頭を満たしていて、薄い布団に横たわったときには、あの一連の奇妙なデジャ・ヴのことをすっかり忘れてしまっていた。




 そして翌朝、私が目覚めたのはまたしても見慣れた自室だった。

 ここに至ってようやく、自分が常識では説明がつかない状況にいることを悟った。

 飛び起きてしばらくはまだ半信半疑だったが、新聞の日付を確認したときに目に入った一面の見出しに覚えがあるのは、ただのデジャ・ヴではありえなかった。もはやあれが鮮明すぎる夢などという可能性は、自分へのごまかしでしかなかった。見ている最中ならともかく、起きてから振り返ってみて現実と全く区別がつかない夢など見たことがない。

 今日という一日が、繰り返されている――。

 そうとしか考えられなかった。だが一体何がどうしたら、そんな超常的な現象が起こり得るのか。

 しかも、よりによって私にとって重要な今日に限って――。

 そこまで考えて閃いたものは、娘が殺されてからはもちろんのこと、事件の前から信じてはいなかったもの――つまり、人々が神と呼ぶ存在だった。

 まさかそんなはずはと、ふと思い浮かんだ私らしくない想像を振り払おうとしたが、この「繰り返し」が何者かの意思により引き起こされているとしたら、そんなことができるのは人知を超えた存在だけではないか?

 そして何らかの目的があってこの「繰り返し」を起こしているのだとしたら?

 あの男や病院にいた人間、警察関係者の様子を考えれば、私だけがこの一日を二度繰り返したのは間違いない。私が娘の仇を殺すという大願を遂げた日に、人知を超えた現象が私だけに起こったという事実は、ただの偶然とは思えない。

 一つの仮説が浮かんだ。もしや私が奴を殺そうとしたことで、今日が繰り返されることになったのではないか。だとしたら、何者かが――それが所謂神と呼ばれるような存在かはともかく――私の復讐を止めたがっているということなのか。

 私が罪を犯すことのないように?

 神が殺人を踏みとどまるよう私を導いている。この想像は私に敬虔な気持ちを呼び起こさせたか。断じてそんなことはなかった。この世界では毎日、何の罪もない人々がたいした理由もなく惨たらしく殺され続けている。数えきれないそれらの殺戮を、神が止めたことが一度でもあったとは思えない。神などというものが存在するとしても、それは決して人間に救いの手を差し伸べてはくれない。あの子を守ってくれなかった神に、あの悪魔のような少年の蛮行を黙って見過ごした存在に、私の復讐を止める権利などない。いつも貴様がしてきたように、指を咥えて傍観しているがいい! 私が思いどおりになると思ったら大間違いだ。

 とはいえ、また病院へ行って奴を殺しても(前回の失敗も糧にして、次は確実に仕留められる自信があった)、また今日を繰り返すという事態が延々と繰り返されるのでは、それは果たして仇を討ったと言えるのだろうか。何度奴を地獄に送ったところで、その度生き返られ、しかも本人にも殺された記憶がないのだとすれば何の意味がある?

 いや、今はそんな葛藤をする前に、そもそも私が何もしなければこの「繰り返し」が終わるのかを試してみなければなるまい。奴は今日明日退院してしまうわけではない。とりあえず今日のところは決行を諦め、無事明日が来ることを確認してから改めて奴を殺しに行っても遅くはないはずだ。その結果、次は明日という一日が繰り返されることになったら――そのときはまたどうするべきか考えればいい。まずは自分の仮説が正しいのか確認できる部分を確認すべきだ。この現象の法則を――そんなものがあるのなら――明らかにしなくては。

 私は様々な憶測を重ねながら、一歩も外に出ることなくその日を過ごした。既に空にしていた冷蔵庫には食材も何もなかったが、得体の知れない恐怖に食欲は奪われ、神経がささくれ立って落ち着かない。じっとしていると悪い想像ばかりが浮かぶ。

 時刻が深夜に迫った頃、一つの疑問が湧いてきた。本当に一日が繰り返されるとして、もし夜通し眠らずに起きていた場合何が起きるのか。これまでの二回の「繰り返し」では、達成感や疲労によって深夜には眠っていたわけだが、必ずしも眠ることで「繰り返し」が始まるとは限らないのではないか。

 近くのコンビニまで眠気覚ましのガムを買いに出かけることにした。もしかした今夜は長い夜になるかもしれない。

 帰宅した時間は二十三時過ぎだったが、私はそれから四時間半もの間、ガムを噛みながら時計を睨み続けていた。

 零時。

 一時。

 二時。

 三時。

 三時半。三時三十一分。三時三十二分――




 時計を睨みながら部屋を歩き回っていた次の瞬間、私は目覚めたばかりの気怠さを抱えて横たわり、部屋の天井を眺めていた。部屋の照明は消え、カーテンを透かす朝日が部屋を仄明るくさせている。

 ――戻されている。「今日」の始まりに。歩きながら一瞬眠ってしまったとは考えにくい。この「繰り返し」は、眠りとは無関係なのか。

 そうなると、この「繰り返し」の始まる時間も私が目覚めた時間とは無関係と考えた方が自然ではないか。「繰り返し」の「終点」の時刻は、三時三十二分のはず。仮に繰り返されるのが二十四時間だとすると、「始点」の時刻は私がまだ熟睡している三時三十二分ということになる。だが繰り返されるのが二十四時間とは限らない。どちらにせよ「始点」の時間に私が眠っている以上、正確な時刻を知ることはできない。

 とにかく起きた後で一日をどう使うかは自由に選択できても、起きる時間はもう変えられないということだ。たとえば誰かに電話で起こしてもらいでもしない限り――

 そこまで考えてふと思いついた。この「繰り返し」は本当に私だけに起きている現象なのだろうか。世界の時間が巻き戻っているというより、私の感じる時間だけが繰り返されているような、いわば私の脳内だけで起きている主観的な現象なのだろうか。だが私は知るはずのない朝の新聞やニュースの内容を知っていたし、初めて見るはずの病院の様子も記憶していた。それら全てひっくるめて私の妄想であり思い込みであるという可能性はこの際考えても仕方ないだろう。やはり世界中が今日という日を繰り返していると考えた方がしっくり来る。だとすると、私以外に「繰り返し」に気付いている者はいないのだろうか?

 そして何より、この「繰り返し」に終わりはあるのか。次か、それとも十回目か百回目かに突然、何の前触れもなく今日が終わって明日が来るのか、或いは明日に進むためには何かの条件が必要なのか。私が病院に行かなくても「繰り返し」は終わらないことはわかった。次に試せる手は何か。

 私の人生にはもう復讐以外の希望はないし、未来など望んでもいない。永遠に今日が繰り返されるというのは恐ろしいことだろうが、しかし私はその恐怖を真に迫ったものとしては実感できなかった。元より屍同然に生きている身だから、恐怖の感情が鈍化しているのかもしれない。この「繰り返し」から逃げ出したいという切迫感はまだない。それでも、何としても謎を解き明かして明日を迎えなければならない。

 今日が繰り返される限り、本当の意味で娘の仇を取ることはできないからだ。明日が来ない限り、奴は何度でも生き返ってしまう。

 私は再度、この現象が起こった原因について思いを巡らせた。

 私などには仕組みは想像もできないが、これがもし何らかの自然現象(?)だとすると、あまりにも私にとって出来すぎたタイミングだ。復讐の決行日にたまたま超常的な現象に巻き込まれるなどという偶然があり得るだろうか? 仮に私以外にも今日この日が繰り返されていると気づいた人間がいたとしても、今日が私にとって特別な日であることは確かだ。

 やはり、何者かの意思が働いているのか。

 私は娘が天国にいて、いつかそこで再会できるなどと思ったことはない。生まれ変わりとやらも信じていない。毎朝仏壇に手を合わせはしても、それで娘の魂が慰められるとは思っていない。私は昔から霊的なものは一切信じていないし、神も仏もこの世にはいないと確信してきた。

 だがこの現象が錯覚などではないと確信したとき、真っ先に脳裏をよぎったのは神と呼ばれる存在だった。神が私に何かをさせようとして、この時間の牢獄に私を閉じ込めたのだと。では、神が私に望みそうなこととは何だろう?

 すぐに思いついたのは「ゆるし」だった。

 私が犯人を赦すことを、神は求めているのかもしれない。ひいてはそれが私の魂を救うことになると。

 ただその場合、具体的な行動を起こさず部屋にこもっていても「繰り返し」は起きたのだから、単に今日の決行を諦めるだけではなく、心の底からの赦しが必要なのかもしれない。

 私は自問した。赦すことができるかと。

 その問いは事件の後に散々繰り返され、もう結論が出ていた。

 私は三度目になる準備を終えると、繰り返しが始まった日――私の主観では三日前――と同じ時間に家を出た。

 通りでタクシーを拾うと、見覚えのある若い運転手が話しかけてきた。

「あの病院、けっこう待ち時間が長いんですよねえ」

 自分は見舞いに行くのだと言おうとして、思いとどまった。今日の私はもうそれほど顔色が悪くなかっただろうが、鞄しか持たずに手ぶらで見舞いに行くのは不自然だと思われるかもしれない。

「厄介な病気で、毎日のように通ってるんです」

 あながち嘘でもない。絶望とは死に至る病である、とは誰の言葉だったか。初めてこのタクシーに乗ったときには、私の心には希望があった。どす黒く、およそその言葉の持つ輝かしさとはかけ離れたものではあっても、それは確かに希望だった。私を生かし、明日へ運ぶ原動力だった。

「そうでしたか。すみません」

「気にしないでください。いちいち落ち込んでたら病気には勝てません」

 病院に到着し、病室へ直行する。私が誰だか思い出せない男の前に、三度立つ。無言で見下ろす私に奴が顔を向ける。

 私は時間を数える。一。二。三。

「何? 誰だよ」

 六。七。八。

「おい、何睨んでんだ。ふざけてんのか」

 私は何も言わず奴の背後を指さした。奴は首を捻って後ろに目をやる。顔を戻したときには、もう鞄から包丁を取り出していた。奴が咄嗟に手を上げる寸前、首筋に刃を走らせた。血飛沫が迸り、目を見開いた男の喉から声にならない悲鳴が絞り出される。くぐもった音と血の泡が、すぐに訪れる死の瞬間まで続く苦痛を想像させる。私はそれを見下ろし、赦しという選択肢を抹消した自分の正しさを噛みしめる。

 十秒も待った。憎きこの男と至近距離で目を合わせて十秒。それでも私が誰なのか気付きもしなかった。

 なぜ忘れられる? 自分が身勝手な理由で命を奪った何の罪もない少女の、その遺族の顔を。裁判で何度も見たはずの、自分に憎悪を向ける人間の顔を。

 罪悪感がないからだ。この男にとってあの子は、自分の獣欲を満たすためだけの存在だった。誰かの子供であり、誰かの友人であり、誰かを愛し愛される一人の人間であることなど考えもしない。肉食動物が草食動物を狩るように、人間を獲物としか見ていない。この男は人間ではないケダモノなのだ。

 人間界に生まれ落ちたのがそもそもの間違いだ。赦しなど一切不要。この男の命にも何かの意味があるとするなら、それは罰を受けるためだけに存在する。

 獣が覚えるのは、獲物と外敵の姿だけだ。裁判の間に睨みつけることしかできない非力な存在を、獣は警戒すべき敵とは見なさなかった。私が自分の命を脅かすことなど思いもしなかったに違いない。そういう意味では司法すらこの獣の天敵足り得ない。若さだけを理由に、どんな凶悪な罪を犯した者でも生存を許されるのがこの国の法律だ。自分が無敵のように錯覚しただろう。だが私は許さない。法が許そうと神が許そうと、私はこいつを徹底的に追い詰める。

 放っておいても苦しんで死ぬだろうが、「二周目」の失敗のこともある。逆手に包丁を持ち直して、腹部と太腿を数回刺しておいた。最初に看護士が異変に気付いたときにはもうケダモノは動かなくなっていた。

 その後の取り調べでは、進んで協力的に訊かれたことに答えた。黙秘するよりその方が順調に事が運んで楽だと思ったからだ。留置場で横になれた時刻は、「一周目」や「二周目」よりも早かった。

 眠っている間に、また戻されるだろう。赦すという選択肢を捨てた以上、そのことは覚悟していた。黙って絶望に殺されるくらいなら、奴を延々殺し続ける道を選ぶ。神が諦めて時計の針を再び進めるまで、私と神との根比べだ。




 目を覚まして自分が見慣れた部屋にいて「五周目」が始まったのだと悟っても、もう絶望はしなかった。

 今回は鞄に包丁と一緒に金槌も忍ばせて、手早く朝のうちから病院に向かった。これから何度も何度も奴を殺すことになるなら、得物も殺し方も豊富な種類を用意しておいた方がよさそうだ。




 変化が訪れたのは「十三周目」だった。

 病院の駐車場を出て正面玄関に向かうと、そこに立っていた男がこちらに声をかけてきた。

「あの、ちょっといいですか」

「何ですか」

 随分緊張した面持ちの男だったが、私は彼に見覚えがあるような気がした。

「いつ、殺す決意をしたんですか」

 私が質問の意味を理解するまで――正確には質問される理由を理解するまでかかった時間はどのくらいだったろう。十秒はかからなかったと思う。さすがにそれだけの時間無言で目を見開いていたら、相手の方から続けて何か言っただろうから。

「――これから私がすることを知ってる? あなたは……」

 私がその先を言う前に、彼は怯えたように一歩後ずさった。

「もしかしてとは思ったけど、やっぱりあなたも?」

 この「繰り返し」の日々の中では、私が行動を変えない限り何も変化するものはなかった。そこに突如現れた、この先起こることを知っている様子の男。彼が今どういう状況に置かれているのかは想像に難くなかった。

「あなたも、繰り返してる? いつから……」

 そこではたと気付いた。目の前の彼は、私が「一周目」と「四周目」に乗り込んだタクシーの若い運転手だった。

「……今日が『九周目』です」

 ということは彼の繰り返しが始まってから既に八回、私は娘の仇を殺していることになる。そのうち一度はガソリンをかけて焼き殺しているから、もし彼が毎回ニュースに目を通していれば、同じ一日を繰り返す世界で違う殺害方法を使っている私に疑問を感じることも可能ではある。

「詳しい話を聞かせてもらえますか?」

 私は院内にあるカフェに男を誘った。時間には余裕があった。獲物は逃げられないし、自分が狙われていることを知らないのだから。時間がずれれば誰かが奴のベッドの近くにいる可能性もあるが、たとえ邪魔が入ろうと、すっかり人殺しに慣れた今の私ならしくじることはなさそうだった。

「僕の『ループ』が始まったのは、あなたをこの病院まで乗せてきた日でした」

 男は単刀直入に切り出した。事前に話の内容を整理してくるのは当然として、いかに殺人者を刺激せずに話を進めるかということにも頭を悩ませたのではないか。

「なるほど。ニュースを見て驚いたでしょう。これから人を殺す人間を犯行現場に送っていたなんて」

「僕のこと、覚えてましたか」

「あれは私にとっての『四周目』でした。実は『繰り返し』が始まる前の『一周目』に乗ったタクシーもあなたのだったんですよ」

「そうなんですか。ってことはやっぱり、言いにくいんですが僕がループするようになった原因は、あなたにあるんじゃないかと……」

 意外な話の方向に困惑した。この「繰り返し」が私に何かを求める神の意志によるものという仮説を立てたことはあったが、それにしても彼は私の復讐とは無関係な人間だ。彼はただ客の私をタクシーで運んだだけの関わりしかない。

「それは……私と接触したせいで、あなたも今日を繰り返すようになったと?」

「自分でも無茶な理屈だとは思ってます。でも他に思い当たることがなくて……」

 しかし馬鹿げたことをと一笑に付すことはできなかった。現に超常的な状況に陥っている以上、その原因が常識の範囲内に収まると考えるのは早計だ。私自身、神などという信じたこともない存在の仕業だと思ったくらいなのだ。

「病気じゃあるまいし。この『繰り返し』――あなたの言うループがウイルスのように人から人へ感染するとでも?」

 或いは彼がタクシーで私を病院へ送ったことで、私の復讐に加担したと神に見なされ、天罰を下されたというのはどうだろう? だがこんな荒唐無稽な説を披露して彼を余計混乱させても仕方ない。

「やっぱりありえないと思いますか? でも他にもループしてるっぽい人間がいるみたいだし――」

「えっ、どういうこと?」

 思わず身を乗り出した私に、男は身を強張らせた。私は彼が洗いざらい話してしまいたくなるよう、殺人者らしい目つきを意識しながら睨みつけた。

「その話を詳しく」

「ニュースとか見てないんですか?」

「娘の仇を討ちに行く前にテレビなんて見ないし、車でラジオも聞かない。どんなニュースが、どんな新しい事件が流れてるんですか?」

 私たち以外にもループしている可能性のある人間。その存在に気付くことができるのは、第一に彼らが何か大きなことをやらかして、それが報道された場合だ。

「僕が『一周目』には聞かなかったニュースだけでも、放火殺人が一件と、暴行殺人事件――発覚したのは深夜で、ループする一時間前にニュース速報が流れたんです。」

「まさか二件ともこの近くで?」

「はい。だから僕はあなたが『感染源』じゃないかと思ったんです。他にも飛び降り自殺が一件。そのどれもが、『二周目』から『八周目』の中で二度は起きませんでした。他の地域でもこういう、元々起きていなかったはずの事件のニュースがあるのかまでは、チェックしてませんが」

「少なくともその三人がループしてる? いや、事件が起きても、その日のうちに発覚して報道されるかは――」

 誰にも知られず事件にならなければ、第三者にはその日のうちに知りようがない。

「そもそも誰もが大それたことをやるわけじゃありません。僕だってニュースになるようなことは何も」

 今度は私が目の前の男に怯えた目を向ける番だった。眉間に皺を寄せた彼が頷く。もし私とタクシードライバーの想像どおりなら、現時点で数十人、数百人、もしかするとそれ以上の人間がループに巻き込まれている可能性がある。

「だとしたら大変なことに……」

 自分が同じ一日を何度も繰り返すと知ったとき、人はどう行動するか。事件の裁判を通して、私は人間がいかに醜悪で汚らわしい生き物になれるか思い知った。人間の悪徳に関して、世間の人々が知っていると思い込んでいる以上のことを知ることになった。平和に生きている人々が触れることのない人間の暗部。それと向き合った私にはわかる。想像できるのではなく、確信がある。

 同じ一日を繰り返すということは、もはやどんな法にも縛られることがないということだ。そして鎖がなくなれば、人に紛れ込んでいた獣は嬉々として飛び出し、欲望の赴くままに行動する。

「ループしてる人間は何をやっても、一日経てばなかったことにできる。そりゃあ好き放題やる奴が出てきますよ」

「しかもループする人間は増えていくかもしれない。もし大勢の人がループするようになったら……?」

 少なくとも既存の秩序は崩壊するだろう。だが私はその恐ろしい想像について考えると同時に、私にとって希望となるある可能性について思い至った。

「そういえば、さっき飛び降り自殺した人がいて、その人もループしてるんじゃないかって」

「ええ、たぶん。このループを悪い夢か何かと思い込んで、死ねば夢から覚めると考えたんじゃないでしょうか」

「でも抜け出すことはできないでしょうね。このループは個人の、脳内とか精神で起きている現象とは思えない。世界全体がループしていて、それに気づける人が現れ始めていると考えた方がいいでしょう。自殺しようが何をしようがループを抜けることはできなくて、また新しい今日が始まる。或いは死によって、またループに気づく前の状態に戻ることもありえるのか……? どうもよくわかりませんね」

「飛び降りた人がループから抜け出せなかったとして、すぐにもう一度チャレンジするとは限りませんからね。ニュースで一度だけ飛び降り自殺が報じられただけじゃ、その人がまだループし続けてるか判断できませんね」

「そもそも繰り返す一日に起きる出来事が、ループを認識した人の干渉がなければ必ず同じになるっていう保証もないか……たとえばある人間が自殺しようとビルの屋上のフェンスを乗り越えた後、一歩を踏み出せるかどうか。もしかしたらその人が『踏み出せる日』と『踏み出せない日』があるのかも。そうなると自殺した人が必ずしもループに気づいた人間とは限らなくなる」

 そこで疑問が湧いた。このタクシードライバーはわざわざ殺人犯に会いに来て、一体何をさせようというのだろう。ただ同じ身の上同士相談するためとは思えなかった。

「もし自殺すればループに気づく前に戻れるとして、あなたは実行するんですか? おそらくあなたの記憶が一日ごとにリセットされるようになるだけで、世界は依然としてループし続けるんでしょうが」

「いや、その可能性を考えるととても死んでみる気にはなれません」

 記憶が次の周に持ち越されないようになれば、主観的にはループから抜け出たと考えることもできる。だが他にループを認識している、そしてこれから認識するであろう人間が大勢いる可能性を考慮すれば、それは無秩序な世界に対して無防備になるも同然だ。どんなひどい目に遭っても記憶には残らないとはいえ。

「そうでしょうね。他に何か試せることはあるかな……」

 私が呟くと、彼は目を伏せて口ごもった。何かあるなと思った。そもそも私に会いに来たのはそれを話すためではないだろうか。彼はしばらくして下を向いたまま話し出した。

「実は一つ考えてみたんです。ループが終わる可能性のあることを」

「どんな方法ですか」

「さっきも言ったんですが、僕はこの現象のきっかけはあなただと思ってます。だからその、あなたがいなくなれば……」

 ようやく彼が何を言うために私に会いに来たのかがわかり、彼の勇気に敬意を表したくなった。

「私に、世界のために死んでくれと、そう言いたいんですね」

 人殺しにそれを頼みに来るのは、さぞ恐ろしかっただろう。

「それは……はい、そういうことです」

 改めて観察するまでもなく、彼は手ぶらで凶器の類を隠し持っているわけでもなさそうだ。自分の手で私を殺しに来たわけではないらしい。そのつもりがあるなら何も言わずに背後から刺すだろう。

「奴を殺した後、自殺しろと?」

「……はい」

 世界のために死ぬ。あの子を失った世界は、私にとってそれほどの価値がある、守りたいものだろうか。原因が自分にあるとはっきりすればもう少し罪悪感や責任感も湧いてくるかもしれないが、所詮ここまでの話は全てたいした根拠のない仮説に過ぎない。

 だがそれでも――

「……さっき訊いてきましたよね。いつ殺そうと決めたのかって」

 あれは単に私の反応を見るための質問だったのだろう。けれど全ての始まりは結局そこに行き着く。

「最初からですよ。娘が殺されたとき、いやそもそも殺されたのかどうかもはっきりしてないうちから、私は犯人を殺すと決めてました。それだけが今日までの生きる理由だった」

 だが今日を繰り返す限り、本当の意味で奴を殺すことはできない。

「世界のために死んであげたいとは思わないけど、この今日を終わらせて、奴のいない明日が来るなら、自分の命なんて惜しくない」

 生きる理由がなく、死ぬ理由ができた。ならばやることは決まっている。


 病室に入ると、もう奴は起きて携帯端末をいじっていた。「六周目」からは奴がまだ寝ている午前九時辺りに来るようにしていたのだが、タクシードライバーと話し込んでいたせいで遅くなった。幸いこの時間も周囲には誰もいなかった。奴が携帯端末から顔を上げると同時に、鞄から取り出して背中に隠していた包丁を下腹部に振り下ろす。くぐもった呻き声と共に携帯端末を取り落とすと、それが邪魔になって狙いにくかった首筋を切り裂く。声にならない悲鳴を聞きながら、包丁を順手に持ち替えて肋骨の隙間に差し入れる。

 完全に息の根を止めたわけではなかったが、両方の肺に穴を開けた感触があり、奴の腕からもすっかり力が失われて口から血の泡を吹き出すだけになったので、私はさっさと病室を後にした。すれ違う人々が悲鳴を上げたが、包丁を持った血まみれの私を止めようとする者はいない。特に慌てるでもなく最上階まで行くと、廊下の窓を大きく開け放った。七階から見える眼下の風景は確実な死を予感させた。

 窓枠に足をかけて、深呼吸した。躊躇する理由はないはずだった。上手く行けばこの不毛なループから解放される。もしまた自分の部屋で目覚めることになっても、状況が悪化するわけではない。少なくとも逃げられないということははっきりする。だがもし、三番目の可能性が正しかったら? ループは続いているのに自分がそれを認識できなくなるだけだとしたら? それでも構わない。ループの記憶を失くした私も、必ず娘の仇を討ちに行き続けてくれるはずだから。

 だが風になびく前髪を払いながら、私はもう片方の手がしっかりと窓枠を掴んで離す気配がないのを意識する。足が震えているのは窓枠の上にしゃがんでいるのが疲れたからではないことも認めざるを得ない。私は単に、飛ぶことを怖がっている。ここから身を投げるのが恐ろしくて仕方ない。

 なんという体たらくだろう。これだけ何度も殺人を犯しておきながら、今更自分が死ぬのは怖いなんて。思えば私は、奴を殺した後は刑務所での暮らしを淡々と受け入れる気でいたが、やりとげたら自殺するという道を真剣に検討したことはなかった。私にはもう何も残っていないというのに、それでも尚自らの死を恐れるとは。或いはそれは、娘の死を目の当たりにしたあのとき、死というものの本質――残酷で無慈悲で無意味なもの――を知ってしまったからかもしれない。

 逡巡しているうちに辺りに人だかりが出来ていた。誰かが強引に飛び降りを止めようと跳びかかってくることがないよう、私は包丁を向けて彼らを威嚇した。早く飛ばなければ。

 自分を奮い立たせるため、全てを終わりにできる可能性を改めて信じようとする。私はこの不毛な日々から解放され、タクシードライバーや他の「周回者」たちには明日が来る。

 そして何より、あのケダモノももう蘇ることはない。殺しても殺しても蘇る奴の死を確定させろ。娘の仇に真のとどめを差せ!

 私の身体が墜落するのは、刃を奴の心臓に振り下ろすのと同じことなのだ。

 私は窓枠から手を離し、空中に身を躍らせた。




 ――そして目を覚まし、全てが徒労だったと悟った。

「十四周目」の始まりだった。私は覚悟を新たにした。

 病院へ向かうと、「十三周目」と同じようにタクシードライバーが待っていた。私が近づいていくと神妙な顔で頭を下げる。

「思い切って飛んでみたんですが、何も変わらなかったみたいですね」

「すいません。大変な思いをしてもらって」

「いえ、いつかは試さざるをえなかったでしょう。けどこれで手詰まりですね。まあ色々な死に方を試してみることもできますが、たぶん……」

「ええ、この現象は終わらないんでしょうね……」

 ひどく落ち込んだ様子の彼を見て、私は初めて自分がそれほど落胆していないことを自覚した。時間の牢獄に囚われ、永遠に脱出できないかもしれないのに、私は恐慌を来たすこともなく、淡々と用意をしてまたここへ足を運んだ。

 まだこの状況の恐ろしさをしっかり実感できていないのだろうか。いや、私が平静でいられるのは、これ以上の絶望を知っているからだ。親が我が子をあんな形で奪われること以上の悲嘆がこの世にあるだろうか? 一日の繰り返しなど、それに比べればちょっとした喜劇のようなものだ。取り分け自分がすべきことがはっきりしていれば、そこには恐怖も絶望もない。




 そして「二十七周目」、待ちに待ったその時が訪れた。

 病室に踏み込んだ瞬間、いつもと様子が違うのがわかった。この時間ちょうど目覚めたばかりのはずの奴が上体を起こしている。近づいていくと驚いたようにこちらを素早く見て、絶叫した。

「うわああああ! 来んなババア! 来んじゃねえ!」

 ついにこの日が来た。私は汚い言葉を吐かれたことは気にもせず、自然と笑顔になった。

 奴の記憶が残っている。奴にとっての「二周目」が始まったのだ。

 近頃は病院で見かける患者や職員の数が減っていた。テレビでは連日、が報道される。何人かのニュースキャスターやアナウンサーを見かけなくなった。既に多くの人がループに気づき始めているようだ。奴がループを認識するのも時間の問題だと思っていた。

 私は足を止め、両手を突き出して喚く男を見下ろす。すぐに終わらせてしまってはつまらない。まずはを存分に味わってもらおう。「二周目」というのは大方そんなふうに感じられるはずだ。

「やめろ! こんなことしてただで済むと思ってんのか! すぐに仲間が来ててめえを――」

 今まで私がいる間に、男の言う仲間が見舞いに来たことは一度もなかった。この男の得意な出まかせだ。

 必死の形相の奴に、鉈を突きつける。冷静さが少しでも残っていれば、悪夢で見たのとは凶器が違うことを思い出せるはずだ。包丁で数回刺されて抵抗できなくなった後、腹を開かれて自分の内臓を顔に塗りたくられた記憶が残っているはずだから。

 怯えた顔から目を逸らさずに、私は武器を振り上げる。きっとこの男は夢にも思わなかっただろう。自分が殺した少女の母親が、ただの非力な中年女が、いつか直接自分を殺しにやって来るなどと。

 振り下ろした鉈は、頭をかばった掌を小指側から断ち、真ん中辺りまで食い込む。耳をつんざく悲鳴を無視して、容赦なくその手を掴んで引き寄せる。

 奴が起き出す時間を把握するため、私は毎日十五分ここに来る時間をずらしていた。その結果、奴が起きるのは午前十時過ぎだということがわかった。見舞客を装って看護師から聞き出した情報によると、入院患者の規則として決まっている起床時間にも起きてこないそうだ。

 これからは毎日起きる度に、自分を殺すために訪れた私と対面することになる。眠気も吹き飛ぶことだろう。

 だが或いは、ループの「始点」の時刻――私が眠っている深夜に、この男が目を覚ましている可能性もある。そうなれば私が来る前にここから逃げ出そうと足掻くだろう。片脚が折れた状態でも、数時間あれば病院を抜け出て遠くまで逃げることは不可能ではないはずだ。或いは片脚で反撃するための方法を考えるのかもしれない。

 鬼ごっこに付き合わされるか、待ち構えられて必死の抵抗を受けるか。どちらにせよ殺すのは格段に難しくなる。だがそれもいいだろう。これは私が自分に与えた試練であり、罰なのだから。

 私は、あの子に対して許されない罪を犯した。

 裁判中に心証を良くするためにか途中で撤回された犯人の供述――被害者との性行為は同意のものであり、薬物の使用も被害者の意志によるもの――

 私はあるとき、ほんの一瞬だけ、こう考えてしまった。

 百万に一つの可能性でも、それが本当であるということはあり得ないだろうか?

 あまりにも馬鹿げた疑問だ。クズのような男に身を任せることも、麻薬に手を出すことも、あの子に限ってはありえないとわかっていたのに。

 あの子が母親を裏切るような子ではないと知っていたのに。

 あの子の純粋さ、善良さ、尊い人間性を、ほんの数秒に満たない時間とはいえ、疑ってしまった。あの子の尊厳を汚した嘘の供述に、惑わされてしまった。

 あんなにいい子を、たった一秒であっても信じてあげられなかったのは、親として恥ずべき罪だ。

 だが償う時間はたっぷりある。

「すいません! 許してください! お願いします!」

「あの子はやめてと言わなかった?」

 半分切断した掌を引っ張って、二の腕に切り付ける。骨に食い込む刃を絶叫と同時に素早く引き抜く。

 明日が訪れない世界は地獄そのものになるだろう。だが私にとっては、とうに世界は地獄だった。永遠に苦痛に苛まれる地獄の囚人。しかしそこに娘の仇が堕ちてきた。これからの私は地獄の囚人であると同時に獄吏でもある。終わりの見えない地獄でいつまでもやるべきことがある私は、この新世界においては幸福な人間とさえ言えるかもしれない。

「覚悟しなさい。この償いからは逃がさない」

 あの子の直接の死因は溺死だった。川に捨てられたときまだ息があったあの子の苦しみを、いつかこの男に思い知らせる。ちょうど最近、アメリカ政府がテロリスト相手に用いていたという水責めのやり方を知ったので、それを試すつもりだ。

 しばらくすれば、この病院に勤める人間もほとんどループするようになるだろう。そうすれば私がゆっくりこの男を拷問しても、誰も止める者はいなくなるだろう。世界が混乱に包まれている最中に、こんなクズを救いに現れる者がいるとは思えない。

 今にして思えば、確実に殺すことを優先したとはいえ、刃物による刺殺などという手段を選ぶべきではなかった。あんな程度の苦痛では、私があの子を産んだときの、出産の痛みにすら及ばない。あの子の無念を晴らすには、あんな楽な死を与えてはいけなかった。奴の罪に相応しいだけの死はどんなものか、これからじっくり試していくことにしよう。

 償うことも、罰することも気の済むまで――これは私の望んだ地獄だ。

 そんなことを考えながら鉈で適当に切り付けていると、既に奴は虫の息になっていた。先はどれだけ長いかわからない。今日のところはもう終わりにしよう。

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