逃げる理由

黒白 黎

逃げる理由

 ペラペラとした紙が顔を隠すように覆いかぶさっていた。ふっと息を吹けば軽く舞い上がるが、すぐに元の位置へと戻る。顔にぺったりと張り付くため邪魔くさい。手で無理やり剥がそうとしたとき、誰かの手が掴んできた。

「やめろ」

 そいつは知っている声だった。だが、誰なのか明確に思い出せない。

「邪魔くさいんだよ!」

 無理にでも手を放し、紙を引きはがそうとした矢先、ビリっと嫌な音ともに血の気が引く悪寒が全身に走った。

「痛ッ!」

 俺は恐る恐るペラペラと揺れる紙に触れる。触った感触は紙であって紙じゃない。まるで――(人間の皮膚)口にする前にそいつは俺の手を塞いだ。

「やめておけ」

 俺は真っ青な顔をしていたのかもしれない。そいつは驚いた表情を見せず(見れない)、俺の口から手を放すなり「忘れろ」と言ってきた。

 その言葉の意味が理解する前に顔を地面に伏せる。同時にどこからともなく悲鳴が聞こえてきた。俺は耳を塞ぐようにしてガタガタと震えていた。見たんだ。見てしまったんだ、と。この紙の正体をきっと知ってしまったんだ。

 立ち上がる勇気も力もないなか、そいつは手を差し伸ばしてきた。

「さっさと逃げるぞ」

 なにから逃げるのか? そいつの手を掴むなり、一緒に走り出していた。

 後ろの方から悲鳴が何度も何度も聞こえてくる。ああ、多分。そいつが逃げようと言った意味がある出来事が起きたのだと思った。俺はそいつの後を追うことがせいっぱいだったが、そいつは俺に合わせるかのように一緒についてきていた。

 紙が顔に張り付く。走れば走るほど呼吸器に張り付いて息をするのもしんどくなる。だからといってこれを外してはいけない。もし、苦しいからといって外したりよそへよけたりしたら、きっとさっきよりも痛い思いをするのだろうと。

 しばらくして広場に出た。そこは中央に街灯があり、一か所だけ明るかった。

 周りには誰もおらず、俺らが先着だったことがわかった。

 全力で走ったせいか、息切れを起こし立ってもいられないほどひどく疲れていた。

「ハァ…ハァ…ようやく…逃げ切れた…」

「いったい……なにに……逃げて……んだ……」

 心臓が激しく鳴いている。その場にへたりこもうとしたが、そいつは俺の手を引っ張ってあの光の中まで逃げようというのだ。俺はそいつのことを信じて、光の中へヘロヘロになりながらも一歩一歩近づいた。

 進んでいるときふと違和感を覚えた。

 そいつは俺の手を引っ張ってあの光の中へと誘いだそうとしていた。けど、なぜあそこだけ光があって周りには光がないのだろうか。それよりもそいつはなぜ逃げるように言ったのだろうか。いつの前にか来た道の方から聞こえていたであろう声が聞こえなくなっていた。

「おかしい…おかしい…!!」

 そいつの手を放した。

 立ち止る俺に向かってそいつは心配そうにいった。

「疲れているのか? あと少しだ。あそこまでいけばもう安全だ」

 そいつが指さす方向はあの光だ。けど、嫌な予感がして前に進めない。

それよりももっと知らなくてはいけないことがある。

「お前は誰なんだ!?」

 そいつは一瞬固まった。

「オレはオレだよ。オレであってオレだよ」

 オレオレ詐欺かよ! ってツッコミたいが、そんなことは今はどうでもいい。そいつはなぜ自分の正体も名前も述べない。なぜ言わないんだ?

「お前は誰なんだよ! なんで逃げる!? そしてあの光があるところだけ安全? いま、この場ですべて説明してくれ!!」

「ムリだよ。いっぺんに説明なんてロボットでも無茶だよ」

 はぐらかされる。

「俺は一ノ瀬(いちのせ)。どうしてここにいるのかさっぱりだ」

「…はやく、あの光へ行かないと殺されるよ」

 まただ。どうじて名前を言わない。どうして何も答えてくれないんだ。

 俺はそいつのことが信じられなくて、いつのまにか来た道を引き返していた。

「ダメだ! 戻れ!!」

 無我夢中に走っていると、元居た場所に戻ってきていた。周りは殺風景でなにもない。声の主らしきものを探し回ったが見つけることはできなかった。

 その場にへたりこむと、そいつが走って戻ってきた。

 影が見えた途端、隠れなくてはいけないと周囲を見渡すが隠れるところはなにもない。

 俺はそいつに見つからないようにと端っこの方へ隠れ、手足を伸ばし俺は丸太だと思うことで丸太に演じようとした。

「なにしてんだよ」

 即効でバレた。

 そいつは前屈みで俺を見ていたが、ふとどこからか風が吹いた。そいつの紙がひらりと舞うと同時に俺は悲鳴を上げていた。顔がまるで丸太の表面を削ったかのように欠陥も目も鼻の孔も口もない。のっぺらぼうだった。どこから声を出しているのかそいつは「大丈夫かよ? 早く行こうよ」と再度手を伸ばしてくるが、俺はもうそいつが化け物としか認識できず、悲鳴を上げたまま再びあの光の方へと駆けだしていた。

「あはははは、また逃げるんだね」

 そう言って笑いながら走ってきた。俺は全力で走ったが、そいつの方が早いらしくすぐに追いつかれた。

「今度は、駆けっこか」

 俺の横に並ぶと、スピードを緩め俺と同じ速さで移動するようになった。そいつがこっちを見るなり風で紙が目くれる度にのっぺらぼうで俺に言うんだ。

「どうして逃げるんだい?」

 お前から逃げているんだよっと冷静に言えない。

「逃げている理由を知りたいのかい?」

 俺はそいつに目が合わせないように走った。

「だって―――」

 俺はハッと目が覚めた。体が汗びっしょりで窓の外も雨でびっしょりだった。ゴロゴロと雷が鳴っている。部屋の中は停電しているようで灯りがつかない。俺は机の上に置いてあった携帯をとり、ライトをつけて部屋の外に出た。

「え…なに、これ」

 自分の家であるはずなのにどこか知らない誰かの家にいた。自室は自分の部屋なのに、戸を開ける度に部屋が変わる。なんだんだ…まだ悪夢は続いているのか。

 戸を開けると、長い廊下に出た。先が見えないほど長い。窓の外は雷が鳴るたびにドドーンと地響きする。その度にここは現実なんだという奇妙な感覚に襲われる。長居はしたくない。

 戸を見つけ、開けるとそこにいたのは。

「逃げられないよ」

 そいつがいた。

 気を失っていたのだろうか。再度目を覚ますと、そこは長い廊下でもなければ自室でもない。広い空間でもない。トイレだ。

「おーい、トイレはすんだのかよ」

聞き覚えのある声がした。

『逃げられないよ』

 そいつの声と同じ声がした。そいつが近くまでやってきていることに気づき、急いで離れようとする前に見つかった。ライトに照らされながら、そいつはビビっていた。

「うわっ! お前、びしょ濡れじゃねえか」

 身体がびょしょびしょだ。どうやら水道管が壊れ、水が漏れてしまっていた。

「マジかー。車、よごすなよー」

 俺は自分の衣類を見た。半袖であることから夏服らしい。

「おーい一ノ瀬見つかったのか?」

「ああ、タオル持ってきてくれ。車の中にあったはずだ」

「なにかあったんか?」

「水道管が壊れていたみたいだ。びしょ濡れなんだよ」

「マジかよ」

 あれは夢だったのだろうか。

 あの出来事はすべて夢にしていいのだろうか。

 ふと、濡れた床にそいつの顔が浮かび上がったような気がしたが、気のせいだろうと友達の元へ駆け寄った。

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逃げる理由 黒白 黎 @KurosihiroRei

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