もう愛していなかった

夏伐

全部嘘になる

 愛していたゆえだった。

 他の女のところへ行くという彼をどうしても許すことができず、咄嗟に包丁で刺してしまった。

 結婚する前は優しいところもあった。だから愛していたはずだった。

 彼の希望で仕事をやめたのに、今では私は彼にとっては召使いにしか見えないのだろう。


 あの頃の愛は既に憎しみに変わっていたのかもしれない。


 やめなくては、そう思うが彼を刺す手は止まってはくれなかった。


 彼が動かなくなり、声が聞こえなくなった頃、私は改めて周囲を見渡した。

 今が夢であってくれれば、そう願えど作りかけのスープの香りと血の入り混じった臭いが私を現実に引き戻す。


 愛がなくなっていることに気づけば、私は迅速に行動できた。


 彼をめった刺しにした玄関は血の海だった。肉片も飛び散り、とてもグロテスクだ。


「どうしよう……」


 私はまず彼を風呂場に運んだ。


 彼をひきずることにより、廊下に血の川が生まれてしまう。

 それから玄関と廊下の血を拭き取った。頑固な汚れを水分ごと吸い取るといううたい文句のクリーナーできれいさっぱり血を拭き取る。


 達成感……!


 この作業にもう6時間ほど費やしている。時間が経てば経つほど血も掃除しにくく、――そして遺体の処理もしにくくなる。


 私は風呂場に移動した。

 湯舟には死んだ夫が頭から刺さっている。


 変な恰好で死後硬直もはじまってしまっているらしい。

 ここまでしてしまったからには、腹を決めてやるしかない。


 もう後には引きかえせないのだ。


 翌日、怪しくない程度に変装してホームセンターで電動のこぎりを購入。もったいないが、ポイントカードは使わない。現金一括キャッシュ払いだ。

 警察にポイントカードのせいで身元を割られるなんて恥ずかしい。


 夫は無駄に丈夫な体を持っていたせいで、骨がバラバラに出来なかった。骨から削ぐようにして肉を削る。

 内臓と肉、そして骨に分ける。


 家事を効率的にするなら便利な家電はいくらでも買うことを許してくれた。夫の良い所を思い出し、少し涙が出そうになる。

 やっぱり少し愛してたのかな。


 いっそ警察に――。


『どうせ昼間は寝てるんだろ、俺が仕事してるときに。あーあ、いいご身分ですねぇ』


 そんな後悔の念は夫の過去の言葉に吹き飛ばされた。そう、そうなの。愛してたら刺した後に救急車を呼ぶはずよ。

 私、すぐに遺体処理をはじめちゃったじゃない? やっぱり愛してはいないのよ。


 作業が終わったのは明け方だった。


 夫の肉片の山と共に朝日を迎えた時は、結婚してはじめて共に涙を流した。夫の肉片も一緒に泣いてくれるはずだ。

 夫とこんなに長く喧嘩をせずに過ごすのは新婚以来だろう。

 彼には情が消えていくばかりだったが、彼の肉片は静かに隣にいてくれる。


「いつか二人で静かに暮らしたいねって話した事があったね……」


 私は夫の左手の小指の先を肉片に交らないように、洗面器の中に放り込んだ。


 細かく細かくして、私は小さなレジ袋に夫を詰めていった。

 骨は少しずつ生ごみとして燃えるごみの日に出そう。


 それから私は夫とよく海や川、山に出かけるようになった。夫が喜びそうな綺麗な景色の所に腐りかけた肉片を少しずつ撒いていく。山では埋めて。既に溶けて悪臭を放ってしまっている夫に「さよなら」を告げる。


「あなたが行方不明になって七年……。私は嘘を吐き続けてきたわ」


 ――夫は女のところに行くと言って出かけてしまった。


 そんな嘘は、今までの本当のことが積もり積もって真実になってしまった。夫は外面が良いタイプだったはずだが、仲の良い人間にはモラハラをするような人間だったらしい。


 おかげで私は可哀想だと慰められていた。夫婦関係が良くなかったことも近所の住民に知られていた。


 私は、救急車は呼ばなかったけれど、全ての処理が終わった頃すぐに警察に行った。物語のように名探偵が現れることをこの七年ずっと恐れていた。でも天は私に味方した。


 夫婦関係もよくない、女のところに行った男、そんな彼をまじめに捜索する人間なんていない。


 私は彼のおかげで、今日も嘘つきでいられる。

 あなたの嫌いなところが今では一番好きなところよ。そう言って私は赤黒く変色した夫の液体を浜辺のてテトラポッドの隙間に流し込んだ。

 その嘘も今日まで。


「ばいばい、名探偵がいなくて残念だったわね」


 私は夫の最後の欠片である小指の先をテトラポッドの隙間に放り込んだ。


 学生時代はあの指が私の幸せを約束してくれたのよね。


 全部嘘だった。全部嘘だった。これからの私の人生も全部嘘になる。それでも気分はとても晴れていた。

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