こんこんと、昏々と:1


        1


「——っだぁー! きんちょーしたのぉっ!」

 玄関の鍵を開けてやると、奇常は先程までの威厳やら尊厳やらを脱ぎ捨てるように、宙に浴衣を放り投げ、どうやらその下に着込んでいたらしいチェニック姿になった。

 それはもう、豪快に。

 草履を脱ぎ捨て、慌ただしくドタバタと居間の方へ走って行く。

「おー、帰ったか二人とも。飯、作ってあるから手洗って食べような」

 休みの日は自室で寝っぱなしの父が、流石にこの騒々しさには目を覚まさずにいられなかったらしい。襖を拳二つ分くらい開けて、その間から頭を出して言った。

 しかしながら、奇常はそれどころではない。

 うおぉぉぉっ!

 てやぁぁぁっ!

 裂帛の気合と共にテレビのリモコンを連打する大妖怪。《鞘山家に生涯仕える》とか、そんな大仰な台詞を威風堂々と言い切ってみせた強者としての表情は、すでに消え失せていた。あれの全てが演技だとは言わないが、まあ彼女の本性を知っている僕からすればペテンもいいところだ。

 三と書いてあるチャンネル変更ボタンを連打しまくるが、しかし一向に液晶画面に映像が表示される気配はない。「ふう……」と天井を仰いで息を吐いた奇常。浴衣を回収して散乱した靴を整えて、そうしてやっと追いついた僕の方にリモコンを投げて寄こした。

 おっと。

 左手で受け取る。

「つけてくれぇ、儂はブルーライトを浴びんと干乾びてしまうのじゃ」

「依存症って言うんだぜ、それ」

「黙れ小童が」

 悪態吐きながらも奇常の尾はリズミカルに畳を叩いている。

 ぽすぽんぽんぽん、ぽんぽすぽす、ぽんぽんぽんぽす。

 ……モールス信号じゃないか。

 友人と面白半分、残りは純粋な興味で覚えた知識が、まさかこんなところで役に立とうとは。いやはや、暗号も捨てたもんじゃないな。次はエニグマに挑戦しようか? いや、あれは凡人に扱えるモノじゃない気がする。

 とにかく明日、千鳥ちゃんに自慢してやろう。

 そんなことを考えつつ、うろ覚えの変換表をもとに暗号をカタカナに直していく。……ハ、ヤ、ク……早く?

 早くテレビをつけろってことか。

 何も暗号化してまで急かすことはないだろうに。未だ電源の入っていないテレビを凝視していた彼女は、不意にこちらを見るとニヤリと笑った。

 可愛げのない奴である。

「ほいよ」

「ひゃっほう! 堪らんの、この眼球が引き締まる感じ!」

 眼球が引き締まるって何だよ。

 こいつ、相当に疲れているらしい。

 もしかすると重症なのかもしれなかった。

 それも、奇常の場合はテレビ番組を楽しんでいるというよりも、テレビそのものを娯楽としている感じだ。テレビキャスターの台詞よりも、テレビキャスターが画面の中で動いている様を目で追ってニヤニヤしている。その様子は、正直言って異様だった。

 しかもそのニュースに笑える要素がないから、余計に。

『本日午前三時、近隣住民から「車がぶつかったような音がした」との通報を受け――』

 またこの類のニュースだ。

「おい、奇常。もう少し明るい番組はないのか?」

「しっ、黙っておれ。大事なとこを見そびれるだろうが」

 見そびれる、ねぇ……。

 その立派な双耳は何のために生えているんだか。

 腰に提げていた愛刀を抜き、切っ先を光らせる赤をティッシュで拭き取りつつ、ニュースに耳を傾ける。人死にだとか、そんな暗い話はあまり聞きたいものではないから、そうでないことを祈って。

『現場に到着した警察官によりますと、「電柱が半ばほどから折れており、相当な事故が起きたのは明確であるが、事件発生時に車の通行は確認されていない」とのことです。これに対し警察署は「ここ数週間で同様の事件が頻発している」と述べ、同一犯による犯行として捜査を進めています。なお、現場には爆発の跡のようなものがあり、爆発物が使用された可能性があるとのことです』

 爆発物が使われた『可能性』……衝突か爆発かなんて聞き分けられそうなものだけど。

 奇麗に汚れを落とし、ようやく本来の輝きを取り戻した刀に満足する。そうして、何となく回転納刀なんかすると、丁度見計らったように奇常が言った。

「犯人は素手じゃな」

 あん?

「素手って。握り拳で電柱を折ったって……そう言いたいのか?」

「いんや、もしかすると握ってすらいなかったのかもしれんぞ。ビンタとか。僅かじゃがあそこに血痕がある。それと、あっちの側溝に落ちとるのは服の切れ端じゃろう。大方、血の気の多い阿呆共が喧嘩でもしたのだろうな……ん?」

「どうした?」

「……ふむ、ううむ、うん? おうおうおう、おうっ」

 お前はオットセイか。

 ディスプレイに目が釘付けになった奇常。肩を強めに突くと、「おうっ!?」とか奇声を上げて飛び上がった。そして、僕を睨む。「加減を知れ、この脳筋が!」

「ごめんごめん。でも、急に考え込んでどうしたんだよ。お前らしくないな」

「おのれ、浅はかだとでも抜かすか……いや、な。そういえば、この道には見覚えがあると思ってな。よくよく見てみれば、ああ、そうか。なるほどなぁ」

 にちゃにちゃ。

 粘着質ないやらしい笑み。

 時の概念を実感することが少ないからだろう。千年を生きてきた大妖怪ということもあってか、奇常は一日の大半の時間を浪費している。昼寝をしたり、散歩や散策をしたり。そんな奇常の言葉だから、『見覚えがある』と言ってもこの近辺であるとは思えない。

 けど。

 嫌な予感のする表情だった。

 確認してみようとテレビに目線を移すも、僅かに間に合わず、場面が変わってしまった。今度のは銀座に新しくオープンした揚げ物専門店のインタビューらしく、その名前を裏切らず油揚げが好きな奇常は、ほとんど骨髄反射みたいに、再びテレビに目を向けて、そのままこちらを向くことはなかった。

 問い詰めてやろうかとも思ったが。

「見てるだけで、うま、じゃ。うまうまじゃ、アツいのぉ!」

 ハフハフと。

 揚げたてのメンチカツを口一杯に頬ばった演技をし、手をワキワキさせる奇常を見て、僕は開きかけた口を閉じる。いま声を掛けたら揚げ物を奢れと迫られそうだ。

 生憎と、高校生の懐は暖かいわけじゃあない。

 そっとしておくのが吉か。

 ――こそこそと居間から退場した僕は、後にこの決断を後悔することになろうとは、僅かにも思っていなかった。その可能性の断片だって、そんな曖昧だって、かすかにも感じられず。金銭的な理由だけで、僕は折角のチャンスを、みすみす逃してしまったのだ。

 まあ、その話はまた後で。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

こんこんと、昏々と 揺蕩う人形 @tayutauninngyou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ