なく

荒走栞

第1話

 肌をじりじりと焼いた正午の酷暑を詫びるような、涼やかな夜風が柔らかく肌を撫でる。

 夜風がさすり、しなる葉がさわさわ、石畳に落ちる靴音がこつり、こつりと会話する。

 靴音は、とうとうと流れる井戸水の前で止まった。

 日に焼けた腕が街灯を浴び、鉄棒のように青く闇に浮かぶ。

 井戸水の流れが厭に大きく聞こえ出す。コオロギの声も尖って聞こえ出す。


 女はしゃがみ、肩を抱いた。


 女が俯く先に、一匹のセミが落ちてきた。セミはひっくり返り、羽根を、腹を、脚を、震わせている。

 女はセミを見た。セミは、ヂヂヂヂ……と鳴いていたが、女と目が合うと鳴き止んだ。

 

 女は、セミと見つめ合ったまま、セミの隣に横たわった。石畳の硬さと起伏が女の背に響いた。

 女は、深く息を吸った。蚊取り線香や手持ち花火の香煙が、青臭さと共に運ばれてくる。

 見上げた街灯には、ガが四匹飛び交い、鱗粉を散らしていた。


 「花火みたいだね……」


 女はガを見、うっとりと言った。

 セミも、脚を組み、ガを見た。


 女の頬を、涙が伝った。


 「もうさ……いやになっちゃった。何もかも」


 セミは、クック……と呟くように鳴いた。

 女は、耳の横でぽとぽとと石畳を打つ雫を聞いているうちに、ますます、情けなくなってきた。

 

 遠くから、ほぉーほぉーとフクロウの鳴き声がした。その、素っ頓狂な鳴き声に、女は思わず吹き出した。


 「気楽なもんだよ」


 セミは、女のぼやきを聞くと、不満そうに、ジーッと鳴いた。


 「ごめんごめん。そうだよね、あのフクロウ、悩んでるのかもしれない」


 女は空を見上げた。雲の霞む月が、逞しく見えた。


 女は、清々しく目を閉じた。

 セミは、月を拝むように、強張る脚を閉じた。

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