103号室 塔のひと

 乱立する塔は全てがハードカバーの本でできていた。六畳のフローリングには足の踏み場がない。壁一面の本棚にぎっしりと本が詰め込まれているうえに、床の上も、本と本以外のものたちで占拠されているが、本以外のものは飲みかけのペットボトルと座布団、簡素な机とノートパソコンだけなので、ほぼ本だ。あ、もうひとつあった。本を読んでいる高屋敷くん。

「来たよ、高屋敷くん」

「……うん」

 これだ。読み途中の本から目を離さず、心ここにあらず状態の高屋敷くんは、本の重みで床が抜けたら困るからという理由で、一階の部屋に住んでいる。不用心だから鍵を閉めるようにと再三言ったにもかかわらず、相変わらず開きっぱなしの玄関ドアを後ろ手に閉める。


 うちの学部は確かに本好きが多いと言うか、本好き以外は居ないだろう。けど、その中でも高屋敷くんは指折りの本好きで、本の虫から転じて紙魚と揶揄されることもあり、本人はそれを聞いても気にすることもなかった。

 簡素な作りの狭いキッチンを抜けて、六畳間に踏み込む。机に置かれたノートパソコンはスリープ画面になっている。意味のわからない抽象的な模様がぐるぐると元気よく画面の上で踊っていて、私はマウスを人差し指でつついてそれを中断させた。叩き慣れたパスワードをキーボードに打ち付ける。

 目の前に広がった猫ちゃんの壁紙は数ヶ月前に私が設定したものだ。ファイルをダブルクリック、ダブルクリック、書類をダブルクリック。開いた画面のカーソルを下へとドラッグ。

「増えてる!」

 この前見た時から数ページ分進んでいる。俄然嬉しくなって、手荷物をその辺に放り出すと椅子に座る。私は高屋敷くんの書く小説が好きで、こうして作り置きおかずなどを提供する代わりに、書き上がった分を一番乗りで読ませて貰う。


 弱い冷風が前髪を撫でるのをかまわずに、液晶モニタに齧り付いて、気になっていた物語の続きを読み耽る。面白い。すごく。持ってきたタッパーを冷蔵庫に入れなくてはいけない事実が頭を掠める。でも読みたい。

 高屋敷くんの人物描写は緻密で、その人物が本当に実在していても何も不自然ではない。だから話が飛んだ方向へ世界が広がるし、たまらなくカラフルに感じる。ハラハラするし、じわりと涙も滲む。


 とうとう今日の分の最終行を読み終えた時、ドアの開閉音が耳に入った。それと同時に、岩のように固まって本を読んでいた高屋敷くんが、跳ねるように立ち上がる。私をチラリとも見ることなく、小走りで玄関に行くが早いか、丸めて置かれていたゴミの袋を掴んで外に飛び出した。

「おはっ、おはようございます桃子さん!」

「あぁ、おはよう高屋敷くん。今日も暑いね」

「はい! とても暑いです!」

 閉じかけたドアから漏れ聞こえてきた恐ろしいほど陳腐な会話に耳が溶けそうになる。

 誰に聞かせるでもなく、ああああ、と唸り声をあげなから私も立ち上がる。のろのろと緩慢な動きで冷蔵庫を開け、保冷バッグから取り出したタッパーを次々と詰めていく。

 高屋敷くんは二階の住人に恋をしている。私は高屋敷くんの書く小説が好きなのでそれを読みに来ている。だからここには何も複雑な感情は生まれない。生まれないのだと反芻する。じゃないと、続きが読めなくなる。

 高屋敷くんは塔に住んでいる。私の手が届かない、本と、文字列と、恋心によって形造られた、高くて遠い塔に。


 ブロッコリーのおかか和え、きんぴら、骨取りサバの南蛮漬け、煮込みハンバーグ、ピリ辛きゅうり漬け。全部食べて、たくさん読んで、せっせと書きなさいよね。そんな事を呪文のように思いながら、冷蔵庫の扉を閉めた。

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三号室のはなし【三題噺の競作】「夕立」「涙」「塔」 野村絽麻子 @an_and_coffee

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