203号室 しましまゼリーと大掃除
ビニール袋の口を力一杯縛っていると、窓の外からサーッと音がして夕立が来たことを知る。カーテンを揺らす風はたっぷりの湿度を孕んで、そのまま桃子の前髪を揺らした。まるで、雨の世界にとぷんと入り込んでしまったような気になる。
それでゼリーが食べたくなって、粉ゼラチンとジュースと缶詰のフルーツを買ってしまう辺り、そういう性格なんだなと思った。
失恋して、たくさん泣いて、泣きながら部屋を片付け始めて。それでお腹が空いて、何か食べようと思ってチョイスがゼリー。しかもわざわざ傘なんかさして買い物に行く辺り、自分でもどうかしてると思う。
私には痛覚が無いのかも知れない。そう思いながらお湯を沸かして、三種類のブリックパックのフルーツジュースを計量カップで量る。粉ゼラチンをお湯で溶く。何かを作る時間は好きだ。無心になれるし、心が穏やかになって、それで美味しいものが出来上がるなんて素敵なことだ。
上の階のベランダから人の気配がする。楽しそうな男女の声だと理解して、そうか、彼女が出来たんだなと思う。三階建てのマンションの狭いエレベーターで偶に顔を合わせる男は、よく手にスーパーの袋をぶら下げていたっけ。そう言えば自炊する男と恋に落ちたことはないなと思い返しながら、シャンパングラスに最初のオレンジ色のゼリー液を流し込んで、冷蔵庫に仕舞う。
三年間の恋は必死だった。なんなら壮亮と出逢ってから、ずっと必死だった。まさに惚れた弱みというやつで、どうしても好みの女になりたかったし、相手にも同じくらい自分に夢中になって欲しかった。
桃子なしでは生きる意味がないと言わせたくて、同時にそれは、桃子が壮亮に対して抱いていた感情でもあった。
髪型も服装も変えた。好きなメニューや味付けを覚えて、それらをローテーションで作った。自立した女がいいと言われれば仕事を頑張り、大らかな女がいいと言われれば他の女の影にも目を瞑った。その結果がこれだ、とベランダに投げ置いたゴミ袋を見やる。涙も枯れ果てるというものだ。
固く絞った雑巾で洗面所周りを拭く。水栓や洗濯乾燥機の蓋や、洗面所のスイッチ。風呂場の扉を拭いてから雑巾をバススポンジに持ち替えると、今度は風呂場を隅々まで擦る。
ふくふくにあわ立てたスポンジで水栓もシャワーホースも湯桶も擦る。また雑巾に持ち替えて壁と天井を拭き、出てきたらバスマットを脱衣籠に放り込んで、そうしてキッチンに立つ。今度はピンクグレープフルーツのゼリー液をシャンパングラスに流し込んで冷蔵庫に仕舞う。
床を掃き、ダイニングテーブルと椅子の脚を拭き、玄関ドアの取っ手を拭き、クローゼットの戸を拭く。壮亮の持ち物が出てくると機械的にゴミ袋に放り込み、掃除を続ける。合間にカラフルなゼリー液を順繰りにシャンパングラスに流していったから、深夜に大掃除が終わる頃には、見事なしましまのゼリーが出来上がった。
風呂上がりの桃子の頬を夜風が撫でる。塵ひとつないほどに掃除されたマンションの部屋は、桃子の心を平らかにさせた。ゼリーは甘く、スプーンを差し込むたびに鮮やかな色相が目を楽しませてくれる。ひとくち、またひとくちと食べるたび、新しい色が自分の中に取り込まれていくようだ。
朝になったらゴミを捨てよう。そしたらまた、新しい恋をしよう。
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