三号室のはなし【三題噺の競作】「夕立」「涙」「塔」

野村絽麻子

303号室 夕立が降る前に

 洗面所で顔を洗っていたら居間のテレビが点いた音がして、それでミリが起きて来たのだと知る。ミリは、もちろん本名ではない。昔飼っていた猫に似ていたのでうっかりそう呼んだら返事をされてしまい、そのまま定着してしまった。


 顔を拭いて居間に戻ると、チャンネルをザッピングさせていた。教育番組で止め、野鳥の囀りをひとしきり放送し終えてお天気コーナーに入ったところで、たちまち電源を切るので笑う。

「天気予報、見せてよ」

「見なくてもわかるわ」

 ソファーに丸くなって座っていたミリは、そのままコロリと倒れ込んでからぐぐぐと伸びた。夕方、と大きな欠伸に紛れ込ませて言う。

「降るの?」

「少しだけ」

 それは「降る」にかかるのか、それとも再び寝始めた行動にかかるものなのか、謎のままにしてコーヒーメーカーをセットする。

 フライパンを温めている間に鯖の味噌煮の缶詰を開けて二枚の皿に少しずつ乗せて、フライパンにオリーブオイルを垂らしインゲンとブロッコリーを炒める。塩、胡椒をして少し考えて山椒など振ってみて、これも二枚の皿に半々に乗せる。ふむ、と独りごちてからプチトマトを乗せる。彩り良し。昨夜の味噌汁と炊飯器のお米を出せば、それっぽい朝食のできあがり。

 ソファーを見る。

「ミリ」

 声をかけるが微動だにしない。肩がゆっくりと上下しているのを認めて、リモコンを取り、ダイニングテーブルに就く。

 ボリュームを絞った天気予報を見ながら力作の朝ご飯を胃に収めていると、ソファーから、うう、と細い声がして、見れば再びの伸びをする姿がある。本当に猫みたいだなと思う。

「コーヒー、冷めたよ」

「うん」

 冷めるよ、ではなく、冷めたよと声をかけるのは、ミリが猫舌なせいだ。ミリに関して知っていることと言えば、猫舌な事と、朝が弱いこと、食べ物の好き嫌いはあまりないこと。ジンライムが好きで飲み過ぎると寝てしまうこと。あの晩、昔いた会社の先輩が連れてきたミリが、予定調和のようにジンライムを飲み過ぎて僕の部屋で眠ってしまい、丸くなって眠るミリに毛布をかけてから一週間が経とうとしている。迷い猫を保護した心待ちで過ごすのは、悪くない日々だ。


「夕立が降るんだね」

「そーね」

 投げやりな返事の後、食卓についてから両手を合わせて「いただきます」と呟くミリは、実のところなかなか律儀な性格なのだ。

 ブロッコリーを美味しそうに食べてから、ミリは小さな声で「あのさぁ」と言った。目線は皿の上。鯖の味噌煮に固定。言い出し難いことを言おうとしてるんだと解り、敢えて箸を置かず見守る。

「あの……帰らなくても、いいかなぁ」

 夏季休暇が今日で終わる。明日からは仕事に行くのだと言っていたが、そうか。ここへ、帰ってきたいと思ってるのか。

 僕はプチトマトをひとつ口に放り込んだ。ぷつりと噛み砕くと酸味と少しの青臭さが広がり、何故だかひどく夏を感じる。ベランダにプランターを置くのはどうだろう。プチトマトなど育てたら楽しいのかも知れない。収穫を見守るミリは、きっとまた怠そうにするだろけど、プチトマトを食べる時には嬉しそうに笑うはずだ。


「そしたら、取って来なくちゃね、荷物」

 顔をあげて静かに微笑んだミリの、口元に米粒がついている。手を伸ばしてそれを取ってやりながら、これは恋なのか、それとも親心みたいなものなのかと考えたりもする。それでも、こういう始まり方も悪くない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る