Glitch _ The Fatal Error

蓬萊 瑞貴

第1話 死者蘇生 / 黒石真倫 / 運命の日

 7年振りに帰ってきた故郷の港町は、苦しくなるほど懐かしい匂いがした。

 春の夜のなか、黒石真倫くろいしまひとは、密航してきた客船から影のように埠頭へと降り立った。20代半ば程の、細身の男だ。黒髪と、羽織った同色の外套コートが存在を闇に溶かしている。

 真倫は、心臓にうずくような痛みを感じた気がして、わずかに顔をしかめた。微かに吹く潮風とともに、少し離れた街から日常の気配が漂っていて、それがあまりにもこの数年の生き方とそぐわず、思いのほか居心地が悪かった。

 どうやらすっかり異物になってしまったのだな、と真倫は思う。早足に街を突っ切ることにする。


 ここは首都圏近郊の港湾都市で、海と山の間のわずかな平地に築かれた街ながら古くから発展を続けている場所だ。それは相変わらずのようで、中心部に差し掛かると少年期にはまだ少なかった高層建築がずらりと威容を見せ、さすがに随分と様変わりしている。

 生まれ育ったこの街から、逃げ出すように出たときは17歳だった。

 その後の血に濡れた長い旅路や、果てには死霊魔術師ネクロマンサーなどという現代社会の埒外の、闇稼業に身を堕とすことなど、当時の自分には想像もできないだろう。

 そして、とノコノコと戻ってくることなど。


 街の賑わいを抜けると、存外と山が近く、すぐに丘陵部に差し掛かる。とはいえ、徒歩で坂を登り、街の明かりが遠くに見えるようになる頃にはもう随分深い時間になっていた。

 辿り着いたのは丘の上の、半ば放棄され荒れ果てた外国人墓地だ。周りを囲む鬱蒼とした森が街の騒音を吸い、虫や鳥のさえずり、木々のざわめきが微かに聞こえるのみで、生きた人間の気配はない。

 真倫は古びたフェンスを容易に越え、西洋風の墓石の間を縫って奥に歩みを進めた。しばらく行くとわずかな空き地があり、中央に朽ちたモニュメントが立っている。風雨を経て削られ、苔むした石像。元々は片翼の天使をかたどっていたらしいが、今やその面影はほとんどない。その手前には人一人が横たわれるほどの大きさの台座があり、真倫はそれを目にしてようやく息をついた。日付が間もなく変わろうとしている。

 雲は晴れ、そらから月光が煌々と地表を照らし、真倫の足元に影を落とす。

 今夜は満月だ。きたるべき時が来た。


◇◇◇◇◇


 僕は懐から小瓶を取り出した。中に入っているのは一欠けらの乾いた骨片。

 星宮ほしみやななせ、という少女のものだ。

 それを、とうとう7年も未練たらしく持ち続けたことを自嘲しながら、崩れないよう、そっと台座の中央に置く。

 何のためか? 当然、

 未だかつて誰も成したことのない、。それを試みることは、人理を歪め、冒涜ぼうとくする行いに他ならない。霊魂の扱いに長ける死霊魔術師といえど、それは禁忌中の禁忌。死人を操る程度のことは出来ても、一度喪われた生命を元通りに復元できた例は長い歴史をみても存在しない。


 次いで、荷物の底を探り、布に包んだ球状の宝石を取り出した。ほのかに燐光を放つその物体は、透明に、銀色に、金色に、あるいは虹色に妖しくきらめいている。極北の氷のように冷やかなようで、煉獄の炎のように灼熱を帯びているようで、美しいようにも、禍々しいようにも見える。この世にあってこの世にあらざる、存在自体が許されない架空物質。

 を混合し撹拌し、その上澄みを抽出して凝縮させ洗練し、気が遠くなるほど磨き上げた霊魂結晶れいこんけっしょう

 掌に収まるほどの大きさだが、そうとは思えないほど異様な気配を放っている。

 これを、たった一人の魂を呼び戻すためだけに使うのだ。


 儀式を始めよう。すべては、この瞬間のためだった。


 瞼を閉じ、意識を集中する。霊力がくまなく肢体を循環し、感覚はかつてないほど研ぎ澄まされ、神経は冴え渡っている。目を閉じ、ゆっくりと深く深く息を吸う。心肺、血管、脳髄、奥の奥、隅々まで霊気が取り込まれていく。呼吸を繰り返すたび、僕の意識は粘性のある闇の中に少しずつ沈み込んでいく。漆黒、内なる宇宙。星々、神々、真理。僕は世界と接続し、溶け合い、混じり合い、一体となる。一は全、全は一。混沌、調和、秩序、力。世界の記憶。対象操作権限オブジェクト・コントロール。全てが意のままになる。


 僕の異能は今この時、間違いなく絶頂を迎えている。


 正面に片方の掌をかざす。台座に置いた骨から在りし日の彼女の姿を惹起じゃっきする。造作もない。目をつむっていても今なお鮮明に脳裏に浮かぶ。夢とうつつの輪郭は薄れ、生と死の境界が消失する。

 手中の霊魂結晶は燐光を帯び、次第に目が眩むほど輝きだす。大気を満たす霊気が激しく渦を巻いて共鳴し、力の奔流ほんりゅうが一点に過密する。押し留められないほどの霊気をたたえた空間は飽和し、ついに限界を迎える。

 均衡が破れ決壊した瞬間、轟音とともに閃光が走り、世界を白く染めた。空気は激しく震えびりびりと肌を叩き、閉じたまぶた越しに強い光が目を刺す。


 ―――数瞬、静寂がこの世を支配した。


 そして、再生が始まる。

 乾いた一片の骨のかけらに、突如瑞々みずみずしさが宿る。罅割ひびわれが埋まり伸長し、骨と筋繊維が編みあがり肉が芽吹き血管が複雑に張り巡らされ、皮膚が張られ粘膜が潤い、眼球や舌、爪や歯や毛髪が生えてくる。細胞が活性化し急速に人の形を成していく。砂時計を引っ繰り返したかの如く、局所的に世界が逆行する。

 常世とこよの河を渡り、人理を超越し、永遠に戻るはずのない霊魂が還ってくる。かつての姿を、取り戻していく。


 ほんの瞬きほどの間のあと。

 骨がひとかけあっただけの場所に、一糸纏わぬ姿の少女が横たわっている。

 

 十代後半、わずかに幼さが残るも、あまりに端正な顔立ち。滑らかで一点の曇りもない、透明感のある白い肌。華奢ですらりとした手足。瞼を縁取る長い睫毛。肩ほどの、潤いある艶やかな亜麻色の髪。瑞々しく華やかな花のように香り、存在自体が輝いているように感じられる。

 清らかな月光の下、澄んだ夜のとばりのなかで、美しい少女が穏やかに静かに眠っている。


 手中の霊魂結晶は役目を終え、湛えていた光を失った。石のように曇り、ぴしり、と亀裂が入る。やがてさらさらと崩れ、白い灰となって空気に溶けていく。


 少女は微睡みから覚めて瞼を開け、こちらの気配を感じてゆっくりと身を起こし、

 目が合った。

 彼女は僕をみて、ぼんやりと、少し安心したように柔らかく微笑んだ。

 なにもかもが生前のままだった。それだけで僕は泣きそうになる。

 吸い込まれるような鳶色とびいろの瞳の奥に、確かな生命が宿っているのが感じられる。呼吸があり、脈動があり、意識があり、知性があった。


 死者蘇生は、成された。


 瞬間、歓喜が爆発し、同時に途方もない寂しさのようなものが去来した。

 尽きぬ泉のように湧きいで僕の中を満たしていた神秘が、完全に、永久に、失われたことを理解した。決定的に全能は消え去った。今ここにいるのは、吹けば飛んでしまうような、あまりに脆弱で頼りない自分だけだった。

 代償は払った。ただ、確信はあった。やり遂げたのだ。間違いないはずだ。

 そう自分に言い聞かせ、疼くような胸の痛みと鼓動を落ち着かせようとする。


「―――真倫まひと君?」


 耳朶をうつのは当時となんら変わらない、透き通った声。

 僕が恋した、可憐で心を震わせる響き。聞きたがえようもない。

 星宮ほしみやななせの、声だった。


「僕は――――」

 この瞬間が訪れることを、夢にまでみたはずなのに。

 いざ本人を目の前にすると、言葉が出てこなかった。

 歩み寄り、息を吐き、吸う。

「僕を、覚えている?」

 星宮は少し顔を傾け、不思議そうな顔をした。なぜそんなことを聞くのか、理解できないという感じで。でも、ほとんど間をおかずこう言った。

「覚えてるも何も……当たり前でしょ?」


 今のこの一言で、これまでのすべてが報われた気がする。


 当たり前、と星宮は言った。当たり前。

 それが全くなんかではないことを、僕は痛いほど知っている。

 でも、星宮はごく普通に、あっさりそう言うのだ。これがどれだけ尊いことなのか、僕以外の誰にも、きっとわからないだろう。

 当たり前じゃないんだ。全然、そうじゃない。

 手が震えた。声も、震えていたかもしれない。


「君に―――。君に、ずっと会いたかった。叶ったら話したいことも、たくさんあったはずなのに―――」

 いざその瞬間が訪れると、どう話せばよいかわからない。言葉がつかえる。

 星宮はやはり不思議そうな、困ったような顔をしている。僕の頬に手を伸ばし、細く綺麗な指で優しく触れた。

「なんで泣くの……? どうしたの?」

 無意識のうちに、涙が零れていたようだった。隠すように少しうつむく。

「……なんでだろう。たぶん、また会えるなんて、……本当は、思っていなかったんだ」

 暗い隧道トンネルを、何も見えないまま、とにかく無理矢理走ってきただけのように感じる。     

 僕がこれまでに犯した罪の数々を思えば、君に合わせる顔なんてありはしないのに。おぞましいエゴ。全て身勝手な我儘わがままだったのだ。


 星宮ななせはそんな僕を少し見つめて、「いいよ」と言った。

 すっと、彼女は柔らかな掌で、僕の手を包む。

 思わず息をのんだ。血塗られたこの手を、あまりにも優しく。

「わからないけど……つらかったんだね。だから、いいよ」


 息が詰まり、胸が苦しくなる。

 つらいこと。あったさ。


 止まっていた刻が、7年を経て動き出した。褪せていた色彩が戻ってきた。

 でも、僕にはもう生きる資格がない。君が素晴らしさを教えてくれたこの世界を、君が愛したこの世界を、傷つけ、踏み躙り、汚してしまったのだから。


 ああ―――。もう十分だ。



 僕は、死ななければならない。


【続く】

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