牛乳と司書と一文字のなにか

林きつね

牛乳と司書と一文字のなにか

 妹から連絡が入ったのは、家を出てから15分後のことだった。


 件名:愚兄よ

 牛乳を買ってくるのだ



「愚妹め」


 呟いて、道に携帯電話を捨て去ると、通りがかりの親切な老婆がわざわざ拾って返してくれた。

 無言で受け取り再び去ろうとする僕を、老婆は僕の袖口をくいと引っ張って呼び止めた。


「お礼わいな?」

「愚妹の急なメールに苛立って忘れておりました。どうぞ」


 そして僕はお礼に親切な老婆に携帯電話を差し上げてようやく歩きだした。

 よし、用事を終わらせよう。


 ポトン


 終わった。

 たった三文字の擬音を立てた、ポストという赤い箱の中に手紙は落ちていった。

 手紙には当然、伝えたい内容と伝えたい内容を届けたい相手を記載している。

 こうしてあのポストという赤い箱に手紙を入れておけば、きっと伝えたい内容を届けたい相手は二週間後には僕の伝えたいことに目に通すだろう。

 さて、帰ろう。

 こうしてポストという赤い箱に背を向けると、そこには親切そうな顔をした老母が立っていた。


「もし、これはあんたのじゃあないかさえ?」

「ああ、この携帯電話は僕のだ。どうもありがとうおばあさん」

「ええんよ」


 返して貰った携帯電話を開く。すると画面には一通のメールが表示されていた。



 件名:愚兄よ

 牛乳を買ってくるのだ



「愚妹め」


 呟いて、思い出す。そうだ、そういえばこんなメールが先程届いていた。

 このまま携帯電話が手元に戻らず、記憶が抜けたまま牛乳を買ってかえらずに家に戻ったら、きっとあの愚妹は激怒するだろう。

 愚妹の激怒はかなり手に負えないのだ。以前、愚妹が激怒した時はそれはそれは酷い惨状で、たとえば――――………うむ、忘れている。

 つまりは、記憶を失うほどの惨状だったということだ。

 だが、今回は大丈夫だろう。なにせ僕は思い出したのだから。

 なぜ兄である僕が自分の用事のついでに妹の買い出しをせねばならないのか、それをいつかは問いたださねばならないが、今ではない。

 だから、今日のところはこのまま牛乳を買って帰るのだ。

 さて、図書館はどちらの方向にあったか――。


 しばらく歩くと細長い建物が見えてきた。どうやら、ここで合っていたらしい。

 まあこの街には細長い建物が大量にあって、僕にはどの細長い建物が図書館なのか皆目わからないが、入口扉の前の階段に、黄色いフード付きの服と黄色いリュックを背負った小さい女の子が黄色いフードを被って座っていたので、ここが図書館なのだとわかった。その子はここの司書だ。

 僕は彼女に声をかける。


「やあ、司書さん。ここは図書館であってるかい?」

「――はい。今日からここは図書館です」

「今日から?」

「移転しました」

「なるほど。昨日まではなんだったんだい?」

「刑務所」

「なるほど……」


 司書さんの脇の下に手を入れて、彼女を持ち上げて立たせる。「むふー」という声と共に、司書さんの背負っているリュックがガサゴソとうごめいた。嬉しいらしい。


「むふー。そろそろといらっしゃると思っていたので待っていました。ご要件は?」

「妹に牛乳を買ってくるように頼まれた。牛乳が欲しい」

「……牛乳ですかぁ」

「ないのかい?」

「あるかもしれませんし、ないのかもしれない」

「なぜ曖昧なんだ。きみは司書だろう」

「司書ですが、新装開店初日なのでまだゴタゴタとついております」

「あー、それならしょうがない」

「諦めないことをオススメします」

「では、諦めないでおこう」

「なら一緒に探しましょう」


 司書さんの小さな手が僕の手を握った。そして手を引かれるままに図書館の中へとはいっていく。

 ギシギシと音がする廊下を通り抜けると、驚きの光景があった。

 中には大小様々な書物が縦に横に斜めに積み上げられており、壁の全面に配置されている本棚も、空っぽのものもあればギッチリと詰まったものもある。


「なるほど、酷い有様だ。新装開店というのは大変らしい」

「お手伝いをお願いしようと、お客様にお手紙を出したのですが……いらっしゃいませんでした」

「……僕? 僕の家にはそんな手紙は来てないなあ。いつ出したんだい?」

「昨日です」

「じゃあ届くわけがない。二週間前に出さないと」

「なんと……私は失格です……」


 リュックから物音はしないが、色が水色になっている。きっと落ち込んでいるのだ。


「牛乳を家に届けたら、またここに戻ってきて手伝うよ」

「ほんとうですか?」

「僕が司書さんに嘘をついたことがあるかい?」

「700回ほど」

「本当のことを言った回数は?」

「……数え切れません」

「じゃあ大丈夫だ。きっと手伝いに戻ってくるよ」


 ガサゴソガサゴソガサゴソ。

 すごく嬉しいらしい。


「というか、なんで僕なんだい? もっと頼りになりそうな、しかるべきところがあるじゃないか。業者とか」

「それは………お客様がお客様だからです――ポッ」


 リュックの色がピンクになる。

 なんだか愛おしくなって、思わず司書さんの背で揺れているリュックを撫でてしまう。しまった――という声を僕が出すより前に司書さんは叫んだ。


「みゃああああああああぁぁぁ!!」

「ご、ごめん」

「……リュックには二度と触らない……その約束をあなたは300回ほど破っています」

「ほんとうに申し訳ない」


 ドン! ドン! と真っ赤なリュックが音を立てている。これは大変なご立腹だ。愚妹の激怒の足元にあるほこりにも及ばないが、司書さんはとてもなご立腹だ。

 僕は誠心誠意頭を下げる。だんだんと音が止んで、次第にリュックの色が薄くなっていく。

 オレンジ色のリュックを背負った司書さんが、僕の手を強く掴んでそれを司書さんの頭のフードへと持っていった。


「撫でるのなら、こちらにしてくださいお客様」

「う、うん……」

「むふー」


 ガサゴソガサゴソガサゴソ。

 慎重に撫でる。以前似たようなことがあった時、あやまってフードを外してしまったことがあった。その時の司書さんの怒りようといったら、愚妹の激怒の膝ぐらいはあったように思う。

 その後僕は、二週間の図書館への出入りが禁止された。

 騒動のちょうど二週間後


『はやくきてください』


 と書かれた手紙が届いたことでようやく僕は出入り禁止が解かれたのであった。いやはや、懐かしい。


「むふー、むふー、むふー」

 ガサゴソガサゴソガサゴソ


「司書さん、僕はいつまでこうしていれば?」

「むふー」

 ガサゴソガサゴソガサゴソ


 その時、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。図書館での携帯電話の使用というマナー違反を咎めようと、司書さんは罰しのポーズ(とても可愛らしい)を取っていた。 けれど前もってマナーモードにしていた僕にぬかりはなく、司書さんはなにも言わずに罰しのポーズ(とても可愛らしい)を解いた。

 携帯電話には、メールが一件。



 件名:

 イチャついとらんとはよ買ってこい



「司書さん、牛乳を探さないと」

「忘れていました」

「忘れるのは僕の役目で、司書さんは忘れちゃだめだよ」

「それも忘れていました。でも生活必需品は昨日全て棚にしまったような気がします」

「なら、棚を探そう」


 連れ立って、棚を見ていく。横にずっと続いた一つの棚につき、五弾もの高さがある。僕が上の方を、司書さんが下の方を見ていく。

 司書さんは僕にぺっとりとくっついて離れない。肌と肌、正確には服と服だが――合わさっている。

 なぜ? と聞くと「お客様はお客様で、私は司書だからです」と返ってきた。

 なるほどと呟いて僕は牛乳を探す。


「……歯科検診、泌尿器科、胃バイパス手術、鏡視下手術……司書さん、この棚ら違うんじゃないか?」

「もうこちらでいいのでは?」

「司書さんが投げやりになってはいけない」


 司書さんが持っているのは『ロボトミー』だった。確かに少しだけ牛乳に似ているかもしれないが、うちの妹は愚妹であれどそれで欺けるほど馬鹿ではない。

 引き続き棚を探していく。今度は手分けして、前後に別れた棚を見ていく。


「……出会い、恋、愛、ゼクシィ、結婚、融合……ここは絶対に違うな」


 振り向くと、プルプルと足を震わせながら司書さんが背伸びをしていた。

 しんどいらしく、灰色になったリュックから苦しそうに『アッタ……』と聞こえてきた。


「あったんだね、司書さん」

「ありました」『アッタ……』


 上を見る。


「車、冷蔵庫、掃除機、牛乳……あ、本当だ。僕がとるよ」

「ていっ」


 上に伸ばした手が、司書さんに払われた。


「僕がとるよ」

「ていっ」

「……僕がと」

「ていっ」

「ぼ」

「ていっ」

「……なにを」

「ていっ」


 上げてもいない手を無意味に払われた。

 ひとまず僕はこれ以上払えないように、司書さんの両手をしっかりと握りしめた


「ぴゃーー……」


 ポーッ! という音を立ててリュックから煙が吹いている。これははじめて見た。


「どうしたの、司書さん」

「司書が見つけたので司書が取るべきかと」

「でも取れないじゃないか」

「どうしましょう」

「……持ち上げよう」

「むふー」


 司書を持たあげた。棚の最上段は思ったよりも高く、腕が震える。司書さんは重い所かほぼ体重などないようなものだが、普段から運動をしなければ、腕を上げ続けるという行為が結構くるのだ。


「まだかい? 司書さん」

「……むぐぐぐぐぐぐ」


 なにやら格闘している。どうならギチギチに詰め込んだ棚らしく、牛乳一冊取るのに苦労しているようだ。


「司書さん、やっぱり僕がぁーーーーああ?!」


 交代を提案しようとした時だった、司書さんが思いっきり牛乳を引っこ抜いた反動で、司書さんを支えていた僕ごと後ろに大きく仰け反った。

 このままでは倒れる。そう確信した僕は、ともかく司書に怪我はさせまいと、後ろによろめいて倒れる最中、司書さんを胸の中で強く抱きしめた。

 ポーーーーーーーーーッ!! という音が響く。そして、後ろにあるさっきまで僕が調べていた棚に勢いよく体をぶつける音。

 そのまま弾かれて、司書さんを抱えたまま床に倒れこんだ。


「いっ〜〜〜〜…………」


 さすがに痛い。けれど司書さんには怪我も心配もさせてはいけないと、声を押し殺す。その反動が、少しだけ視界がぶれた。

 腕の中の感触はしっかりと感じる。司書さんは無事なようだ。

 視界が回復する。


「ぴゃー…………」


 これは僕の声だ。

 だって目の前、ほんと少し顔を前後に揺らせばそのままくっついてしまうほどの距離に司書さんの顔があった。


「ああ、なんてこと……倒れた衝撃でお客様が……わたしに……」

「な、なってないよ大丈夫だよ」


 間近から発せられたその声は、なんだかいつもの司書さんのものと違って聞こえた。

 目が合っている。そういえば、司書さんはいつも深くフードを被っているから、顔をこんなにしっかり見るのははじめてな気がする。

 宝石のつまったおまんじゅうみたいな顔をしていた。キラキラしてて可愛いかった。


「……僕のリュックって今なに色かな?」

「お客様はシラフでいらっしゃいました」

「そりゃお酒は飲んでないよ」

「間違えました。丸腰です」


 司書さんの手にはしっかりと牛乳が握られている。目が合い続けるいまの状況を、司書さんは恥ずかしそうにしていた。けれど後ろでガソゴソと音がなっている。嬉しいのだ。

 ならもう少しこのままでいいかもしれない。だって僕も――。

 その時、ぶつかった衝撃で棚からはみ出た一冊が、床に落ちていい音を鳴らした。

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