漁火
南沼
漁火
また今日も夜が来た。
水平線の上に浮かぶ銀月の光が海面に揺蕩い、穏やかに寄せては返す波の輪郭を、朧げにとらえている。満月を幾日か過ぎほんの少し扁平になった月は雲のない夜の空に浮かんで、静かな月光で浜辺を蒼白く照らす。さざ波の打ち寄せる音、そして波打ち際の泡立ちが砂を運ぶ音、それだけが辺りに満ちている。
この入江は穴場だった。街からは遠く離れ、近くには鄙びた宿屋が一軒あるきり、立地の不便さからか夏の盛りにすら地元の人間以外は殆ど立ち寄らない。日が暮れてしまえば、ここを訪れる者は私だけだ。だから私は、連日のようにこの場所に足を運ぶ。
砂浜に腰を下ろし視線を遠く月の辺りに置いたまま、手探りで徳利を引き寄せる。宿の女将に無理を言って持ち出した大徳利の栓を開け、縁の欠けた盃に注ぐ。少しばかり手元が狂って酒の滴が指を濡らすが、構う事はない。誰もいない月下の砂浜で独り、私は盃を傾ける。
私は狂っている。狂人である私は、夜が来る度にそう確信する。
ぐいと杯を傾け、酒を喉に流し込む。味は殆ど分からないが、まあ大した事ではない。酒は味わうためではなく、酔うためだけに飲むものだからだ。しかし、もうかなりの量を飲んでいるというのに、一向に酔いの廻る気配はなかった。すっかり習慣づいた飲酒癖のせいだろう。
月光煌めく波間の奥の奥、ここからでは水平線と見間違うばかりのあたりにひとつ、ぽつんと灯りがともっている。あれは漁船だろうか。
「ああ、あれは漁火だ」と西瓜頭が言う。
「きっとそうに違いない。ああやって小魚をおびき寄せて、それにつられてやって来る烏賊を、疑似餌で釣り上げるのさ」
私はその言葉に応える事はない。この砂浜には私一人きりしかない。だから、これは幻聴なのだ。
私のすぐ傍にたたずみ私に声を掛ける男も、私の狂った脳が生み出した幻覚に他ならない。
「君は、今日も僕を無視するのだね。それとも僕がここに居ることを認めたくないだけなのかな」
僕はこんなにも確かに存在してるんだぜ、ほら。そういう彼の言葉に、私は聞こえていない振りでのみ応える。
私は知っている。西瓜頭はその鼻から上の頭部を大きく欠損している。耳や眼、それに大脳の大部分が、まるでもぎ取られたかのように無残に消え失せている。傷口は乱雑にぎざぎざと千切れたようになっていて、もう血は止まっているものの、蟹や巻貝の腸に似た質感の奇怪な残骸を露わにしている。書生のような格好の、その丸首の立て襟は酷く血に濡れていて、それと対を成すように彼の中身は血の気のない灰色だった。無論、生きている訳がない。故に西瓜頭は私が生み出した幻覚で、彼の発する言葉は幻聴に違いない。このグロテスクな幻覚はこうして毎夜私の傍に現れては、無視し続けるにも関わらず夜明けまで飽くことなく語り続ける。
私は狂っていて、自分でもそれを分かっている。だが、だからこそ私は認めたくない。死人と会話してしまえば、私はもう後戻りをすることが出来なくなる狂気の崖淵に向けて、最後の一歩を踏み出してしまう。そんな確信があった。ここまで明確に正気を逸していながら、私は浅ましくも最後に残された理性を諦めたくはないのだ。
「おや、こいつは傑作だ」
西瓜頭がせせら笑う。私ではない、他の何かを見ているようだった。これもまた夜毎のこと、死人たちは夜が更けるにつれ、その数を増やす。きっとその視線の先には、また別の死人がいるのだろう。
「お兄さん、遊ばない?」
いつの間にか近くまで来ていたそいつが言う。視界の端に映るのは、月明かりにぼんやりと浮かび上がる、酷く体の線が崩れた女だった。腐敗し崩壊半ばの肉は水を吸い、或いはガスで膨らみ、身体のあちこちがぶよぶよと弛んでいる。私達を誘っているつもりの声は油紙越しに呻くが如く濁ったそれで、聞く者の神経をざらりと逆撫でした。恐らく、声帯やその周りもあらかた腐り、爛れ落ちようとしているのだろう。同時に、吐き気を催す悪臭を辺りに振りまいていた。
女は所々蟹や蝦に喰われた身体をくねらせていたが、私は端から無視を決め込んでいるし西瓜頭もまるで相手にせずせせら笑うばかりなので、やがて舌打ちをして去って行った。不揃いな足音がゆっくりと遠ざかっていく。
「土左衛門だね、あれは」
西瓜頭は誰にともなく呟くが、しかしそれは決して独り言ではなく、私を正確に狂気の奈落へと誘う呪言だ。
「いやはや、あの臭いといったら、堪らない」
そうだろう君、と再び水を向けてくる。私は答えない。しかし西瓜頭は毫ほども気分を害した素振りを見せず、滑らかな声で喋り続ける。
「溺死だけは御免こうむりたいものだね。とは言っても、僕ももう死んでいるんだが」
何と悍ましく、笑えない諧謔だろうか。先ほどに倍する悪心に、私は思わず顔を顰めた。西瓜頭が黙る。緩んだ空気は、きっと彼が嗤っている証左だ。無視を決め込もうとしながらも、意図せず嫌悪感を露わにしてしまった私を。優しい声で、奈落の底から私を手招きする亡者。彼はどこまでも理知的でありながら、同時にこの上なく邪悪だ。
「ねえ、君」
喜色を滲ませた声で男は言う。
「君も今の臭いは気になったろう。蛋白質の腐った、胸の悪くなるような臭いさ」
うっとりと、囁くように。
「君にはあの女が見えている。足音が聞こえている。あの女が発する臭いを嗅いでいる。幻覚に、幻聴に、それから、幻臭とでも言えばいいのかい?」
ああ、全く良く出来た幻じゃあないか。そう西瓜頭は私を揶揄して笑う。
幻にしては余りに良く出来ている。だからこれは、私が認識するそれらは現実で、私は狂ってなどいない。彼はそう言いたいのだろう。言われるまでもなく、私だってそれを認めたくない訳ではない。どころか、それはいたく甘美な欲求として私の眼前にある。
だが、違う。死体は歩かない。死体は話さない。そして勿論、死体は自我を持たない。だから、その命題は真では有り得ない。誰が認めるよりも確かに、私は自分が狂人であると認めざるを得ないのだ。
ああ――西瓜頭は嘆息する。
「君も全く頑固だね。変えられない現実を目の当たりにしても、まだ自分の殻に閉じこもるのかい。まるで駄々っ子、死刑囚の方がまだ往生際がいいぜ、なあ二の字」
最後の言葉は、私の頭越しに、また別の誰かに掛けたものだ。振り返らずとも、その名には覚えがある。西瓜頭が二の字と呼ぶ彼もまた、死人で、つまりは幻だ。
さく、さく、とゆっくり砂を踏む音が、私の背後で止まった。ややあって、ぐるりと私の周りを一周、二周と回りながら、その男は珍しく何かを呟いていた。
両の目を繋ぐ線を顔の両端まで、そして喉を真一文字に掻き切られた男。骨ごと刻むような深い線が二本、だから『二の字』と呼ばれている。彼も常連の一人ではあるものの西瓜頭ほど饒舌ではなく、寧ろ感情表現や意思の表示を殆どしない。大抵は何をするでもなくしゃがんで一点を見つめたり、ただうろうろとその辺りを歩いては、いつの間にかどこかに消えている。それでいて、西瓜頭に次ぐ頻度で私の前に姿を現すのだった。ただ、不明瞭ながらも喋るのはこれが初めてだ。何かを言おうとしているのだろうが、口から発されるはずの音は殆どが喉の傷口から意味をなさない音の塊となって逃げていく。
私の目の前でぴたりと立ち止まった二の字は膝を曲げてしゃがみ、私の顔を覗き込んだ。切り裂かれて潰れた目や骨の覗く傷跡が嫌でも視界に入り思わず目を背けそうになったが、彼は間を置かず立ち上がると、また胡乱げな足取りで去って行った。
西瓜頭がまた笑う。
「今のを聞いたかい」
どうやら、彼には発言の意図を汲むことが出来たようだった。
「あいつ、さっきの女と遊んでくるんだとさ。全く物好きなもんだ」
何が可笑しいのかと私は思う。それは私にとって、嘲笑われるべき軽薄さではなく、唾棄されるべき悍ましさでしかない。
夜毎群れるように私を囲む幻覚たち。しかし、私は孤独だ。
孤独に耐え切れず、脳がこのような幻覚を生み出している訳ではない。仕事に励もうが、女を買おうが、夜になれば所かまわず彼らは現れる。そして私が人間と幻覚を区別する術はその見た目で、欠損した頭部であったり腐臭であったりまちまちなのだが、私が真に恐怖する点はそこにある。彼らと普通の人間の振る舞いは、何ら変わりないのだ。私はそれが本当に恐ろしい。現実と幻を隔てる境界が薄く曖昧なものになっていくような感覚を覚えてしまう。
だから私は人を遠ざける。そうすれば、私は私の周りに現れる全ての者を幻覚であると断じることが出来る。世界はそのあるべき境界をくっきりと明確にしてくれる。だが、その境界から遠ざかる事もまた、恐ろしくないと言えば嘘だ。なればこそ、酒量は増えていく一方だった。遠からず、酒も恐怖を紛らわせるには足りなくなり、私は取り返しが付かなくなるまで酒と狂気に蝕まれて全き廃人になるのだろう。それは殆ど確信に近く、避けようのない未来として私の目の前を塞ぎ、閉塞感が私を更なる酩酊へと逃避させる。
宿の人間は、私のことをさぞかし不審に思っていることだろう。妙に金払いは良いのに浮浪者のようななりで、夜になると酒瓶をもってどこかへふらりと出掛けてゆく中年男が、私だった。
気が付けば、月は既に中天を過ぎている。風向きが変わったのか、潮の臭いが強くなったようだった。波の音も、心なしか強くなっている。
何処かで子供の遊ぶ声がした。波打ち際を、裸の幼児の下半身だけが千切れた腸を引き摺りながら駆け抜けていく。きっと、声のする方に上半身があるのだろう。
それにしても、私の見る幻覚はどうしてこうもグロテスクなものばかりなのだろうか。五体満足なそれには、とんとお目にかかった事が無い。
「可能性はふたつある」
ああ、本当に忌々しい。私が彼を嫌い、幻覚であると断じる最たる理由はこれで、彼は私の考えている事が透けて見えるように振る舞い、そしてそれを嘲り笑う。
「ひとつは君が見ている普通の人間の中にも五体満足な死人――君の言う幻覚が混じっているということだね」
だが、その命題も偽だ。
「そう、それは有り得ない。何故なら、もしそうであるなら今この場にも五体満足な奴がいなければおかしいからだ」
君の考えている事なんてすぐ分かるよ、無視をしているつもりで、どうして君の表情は雄弁だからね、そう西瓜頭は嗤って、得意げに語りだす。
「なんてグロテスクな幻覚ばかりなんだ、と大方そう嘆いているのだろう。君は本当に想像力が足りない。君の思うグロテスクさが、こんな程度だって言うのはね」
「本当にグロテスクなものというのはね、いいかい、もっと無機質で、ともすれば滑稽ですらあるものなんだよ。不気味さや異様さからそれ以外の要素を徹底的に排除すれば、物事はどうしても無機質にならざるを得ないのさ。要するに日常からの乖離だね、超現実的と言い換えてもいい」
「それに引き換え、僕らを見てみると良い。どこにでもいる、ただ死んでいると言うだけの人間に過ぎない」
どこにでもいる。ただの人間。その言葉こそが欺瞞に他ならない。
私は杯に酒を注ぎ、一息に飲み干した。呼気で鼻の奥が熱くなるが、もうそれだけだった。
西瓜頭も言葉を断ち、潮騒だけが辺りを満たした。
随分と、そうしていたと思う。水平線の向こうから少しずつ空が明るくなり、その分だけ星々の灯りが薄れていく。沖の漁火は、まだ煌々と照っている。
ふと、私は訝しんだ。結局この男は、何が言いたいのだろうか。西瓜頭は悪意に満ちてはいるが、その論旨が常に明快である事は私の認めるところでもある。何故なら彼は私の生み出した幻覚で、だからこそ私が最も嫌う言葉を的確に投げ掛けることが出来る。だというのに、今日この日は違った。
「ねえ」とやおら西瓜頭は言った。その先に、どんな言葉の穂を継ごうというのか、私は初めて、彼の言葉に興味を持った。
僕が、僕たちが、幻か実存かは一旦置いておくとして――そうもったいぶった前置きをしながら西瓜頭は続ける。
「君が認める通り、僕たちは死体だ。でも、不思議には思わないのかい、喉を切られたり、大きく欠ける程に頭を殴られたり、そんな死体ばかり君の周囲に集まるなんて」
私は黙って杯を傾ける。
「君は幻覚の一言で済ませているようだけど、それはただの思考停止に過ぎない。本当は君も気付いているんじゃないのか? 可能性の、もうひとつに」
一体、彼は何を言っているのか。
「僕たちは皆、殺されてこんな無惨な死体になった。ねえ、君、僕たちは殺されたんだよ」
その言葉は、完全に私の意識の外から来た。彼の言う通り、幻覚であると断じたが故に出される事の無かった結論だからだ。
殺された。確かに、畳の上で安穏と息を引き取れば、こんな姿にはならないだろう。それは自明の理だ。だがそれが何だというのか。幻覚の姿形に理由を求めるなんて、それこそ徒労だというのに。
「僕たちは殺された。勿論、君以外の誰かに。僕たちはそれぞれ違う誰かに、違う動機、違うやり方で殺されたのさ。君は知っているかい? 殺された人間は、その人生を全うできなかった人間は、成仏できずに彷徨うという言い伝えだよ」
下らない迷信だと私は心の中で吐き捨てる。その話が真実なら、なぜ私だけに見えるのだろうか。
「迷信かもしれない。でも迷信がその内に真実を全く含んでいないというのもまた偏った見方だ。長い間言い伝えられているのだから、経験や歴史に基づく何らかの理由があると考えるのが自然だろう」
煙草を吸えば煙が残り、煙が消えても匂いが残るように、突拍子のない迷信にもそれらしい由来が伴うものだ、そう言いたいらしい。
私は、沖合に浮かぶ漁船の明かりを呆と見つめたままだ。もうじき帰港する頃合いだろう。彼は私の隣で、その灯を指で示す。
「君は、あの漁火のようなものだ」
そう彼は言う。
「僕たちは夜の世界を彷徨っている。生きている人間には、僕たちが見えない。でも君は違う。君には僕たちが見える。僕たちは真っ暗闇の海の中から君を見つけて、そのあえかな光に惹かれて漂って来たに過ぎない。望まない死に方をしたからって、僕たちは君に恨み言を言いたい訳じゃない。ただ君の傍にいるだけだ」
何かを言い淀むような気配を滲ませて、西瓜頭は黙り込んだ。再び、寄せては返す波の音だけが辺りを支配する。
そのまま長い時間が過ぎ、私はまた幾杯か注いでは飲んだ。この沈黙に、気まずさに似た何かを感じていた。
初めてだったのだ。西瓜頭が、この男が、私に何かを懇願するような、どこか言い訳じみた口調になったのは。
星々はもうどこにも見えず、沖合の灯も消えていた。水平線が暁に染まろうとしている。少しばかり吹いていた風も今や止み、薄く透き通るような空には雲ひとつ見えない。きっと今日は快晴だろう。
彼らももうじき消えて、浜辺には私一人が残される。そして生者の時間が戻った事に安堵し、同時に半日後に再び訪れる幻覚に恐怖する。それが日々繰り返される、私の儀式だ。
だが、今日は、この瞬間だけはいつもと違った。
全くの気まぐれから、私は彼の方を振り向いた。どのような心境の変化によるものか、私自身にも明らかではない。
初めて真っ直ぐに見た彼の顔は想像していたより色白く幼げで、私は新鮮な驚きを感じた。西瓜頭は少し驚いたような顔をして、それから、どこか照れたようにも見えた。
何かが、私の胸に去来した。とても複雑で、言葉にし難い何かが。だがそれは、嫌悪や恐怖ではなかった筈だ。その何かは、今私が迎えようとしている朝日のような清々しさを私の中に残した。
「ああ、もう夜も明ける。僕も退散するとしよう」
水平線の向こうから差す曙光が浜辺を照らす。死者の時間が終わる。
逸脱した儀式は、果たして破綻をのみ意味するだろうか。ずれてしまった視点から、何か別のものが見えはしないだろうか。悪意に満ちているとばかり思っていた男は、しかし悪意以外の何かを私に見せた。
私は狂っていて、幻覚を見て幻聴を聞いている。その考えは揺らがない。だが、夜な夜な私の前に現れる彼らが、私の見る幻覚でなかったとしても、この世界がそういう風にできていたとしても、それでいいのではないだろうか。世界の秘密を知っているのがたとえ私一人だったとしても、私はその在り方を許容できるのではないだろうか。私は不意にそう思う。
それは、呆れる程にあっさりと胸の裡に落ちた。
眼球のないはずの彼と、しばし見つめ合ったような気がした。
そして西瓜頭は夜毎そうであるように、音もたてずふいと姿を消した。朝日を迎えた浜辺に、実に彼らしからぬ言葉を残して。
余りにも彼に似つかわしくないその言葉は、だからやはり潮騒が私の耳に残した幻だったのかもしれない。
「きっと皆、君が好きなだけなんだぜ」
漁火 南沼 @Numa_ebi
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