夏に焦がれた本の虫

花染 メイ

夏に焦がれた本の虫

(あ、また来てくれた。)

とある夏の日の昼下がり。ちょうど目線の先にある古い引き戸が、カラカラと軽やかな音を立てて開く。途端に大きくなる蝉の声と、短波放送の割れた音。読んでいた本から顔を上げると、微かな草と土の薫りと共に、店内に一人の女性が入ってくるのが見えた。

寂れた商店街の片隅で古本屋稼業を営む両親のもとに、僕が生まれて早十数年。暇な時間や両親不在の際に店番を任されるようになってからしばらくが経つ。常に閑古鳥の鳴くようなオンボロ古書店にも案外固定客はつくもので、最近になってから大体覚えてきた常連客の中に、先程の彼女も含まれていた。浅黒く焼けた肌にさっぱりとしたショートヘアの彼女は、多分僕と同年代。何処かで運動した帰りに寄っているのか、ここへ来る時の彼女の服装は大抵ジャージかスポーツウェアで、いつも日曜日の午後3時頃にこの店にやって来る。

「いらっしゃいませ、こんにちは。」

「こんにちは。今日も暑いですね。」

「そうですね。」

いつも通りの挨拶。彼女と僕の短い会話。これ以上続くことなど滅多にない。

しばらく経つと、本を選び終わったらしい彼女が、僕のいるカウンターへやって来る。

「これください。」

そう言った彼女から差し出されたのは、エーリッヒ・ケストナー作『飛ぶ教室』の文庫版。

その表紙を見た瞬間、胸が高鳴るのを感じた。

あぁ、また僕の好きな本。

思わず口元が緩みそうになるのを必死で抑え、僕は平静を装いつつ会計を済ませた。

どうも彼女とは趣味が合うらしく、彼女の買う本は毎回僕の好みのど真ん中を突いている。

そのせいか、最近の僕は彼女のことが気になって仕方ない。

彼女が退店していくのを見届けると、僕はそっと溜息を吐く。

「……本当、どうしたもんかな。」

まだ梅雨が明けたばかりのその日のこと。僕にはこの夏休みの間に、なんとかして彼女との会話を今よりも長続きさせるという、密かな目標が出来た。



きっかけは一年前。

部活帰りに通りかかった商店街の端っこで、小さな古書店を見つけた時。その玄関先を掃除していた彼を、偶然見かけたのが始まり。

その時の彼は、箒を動かしつつも片手に文庫本を持ち、何やら真剣な様子でそれを熟読していた。参考書か何かかな?なんて思ったら、タイトルは小説のようだった。

「あんたねぇ、掃除している時くらい本置きなさいよ。」

母親らしい女性がその手から本を取り上げると、あ……と小さく名残惜しそうな声を上げた彼は、若干不服そうな顔をしつつも渋々それを受け入れる。その素直な様子が妙に可愛らしくて、思わず少し笑ってしまった。

次に彼を見た時も、そのまた次の時も。彼は黙々と掃除をしていて、その間は掃除が終わったらすぐに読めるようにしてあるのか、店の前に設置されたベンチの上にはいつも本が置いてあった。時折、早めに掃除が終わったらしい日は、たいてい玄関先に箒を立てかけて、そこで本を読んでいる。ページを捲る手付きは丁寧で、元々柔らかい雰囲気を持つ彼が読書する姿は、なかなか様になっていた。

いつか彼と話がしてみたい。どんなジャンルの本が好きなのか。読書以外の趣味はあるのか。それだけじゃない。いつからか、彼自身の色々なことを知りたくてたまらなくなっていた。今まで読書とは無縁の生活を送っていた私が、はじめて古書店に通い始めた理由はそれ。本当に不純極まりない動機だった。

買っていく本だって、自分で選んだものも数冊はあるけれど、大体は彼が掃除中に読んでいたもののいくつかを覚えていたから、それを真似して買っただけ。

それでも、読んでみたらどれも凄く面白くて、はまってしまったのもまた事実。今ではすっかり読書の虜。しかし、未だに挨拶以上の会話に発展していないとはこれ如何に。

「なかなか上手くいかないなぁ。」

古書店から帰宅途中、私は呟いた。

それでも、気長に頑張っていこうと胸を張る。

後ろから吹いてきた夏の風が、励ますように私の背中を軽く押してきた。



とある商店街の片隅に佇む、小さな古書店の店先で。

その日、一人の少女が勇気を出して店の少年に話しかけた。それを受けた少年が嬉しそうに頷いて、ほっとした顔の彼女と共に店の中へ入っていく。二人の顔が少し赤らんで見えるのは、夏の暑さのせいなのか、はたまた別の理由があるのかはわからない。

大手ドリンクメーカーのロゴが入ったベンチの上には、すっかり置き忘れられた一冊の文庫本だけが残されたのだった。

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