落ちる予知夢小宇宙

六畳庵

落ちる予知夢小宇宙

 

 空が落ちてくる、と昇人が言ったのは、人々が星や月のない生活に慣れ始めた頃だった。


「ほぉん。どうやって」


 口の中のハンバーガーをメロンソーダで飲み込んでから、俺は言った。半自動的に指がポテトをつまむ。三時のおやつにハンバーガーセットを余裕で食べきれてしまうのだ、高校生は。


「まんまの意味だよ。ドラマとかで、部屋の天井がぐっと下がってきて押しつぶされる、的なデスゲームあるだろ、あんな感じで空が落ちてくる……っつー夢を見た」

「そんなドラマは知らないけど、うん、想像できた」


 昇人は予知夢を見る。

 不安げに「嘘だと思ったらそれでいいから誰にも言わないで」と前置きして打ち明けてきたのは小学校三年生のときだっただろうか。それから俺は、昇人が夢で未来を見るのを幾度となく見守ってきた。いや、「こんな夢を見た」「へぇ」って聞いた内容がそのあと起こるのを目撃しただけだけど。とにかく俺たちにとって予知夢は、道脇に落ちているセミの死骸くらい当たり前の存在だった。それにしても、


「空が落ちるって史上最大規模じゃね?」

「それな」


 ごく軽い返事をして昇人は期間限定のやたら派手なバーガーを頬張る。美味しいんだろうか、それ。俺はいつも同じバーガーしか食べない、王道が一番だ。


「空が落ちて、そこで目が覚めたからそのあとどうなるのかはわかんねぇ」

「えーまあ、世界終わるんじゃね?」

「だろうなぁ。……覚めなきゃよかったな」


 昇人は口端にケチャップをつけたままふと笑った。世界が終わる様子を見れたら楽しいだろうなぁ、というような笑みだった。

 こいつが傍観者気取りで余裕ぶって世界の終わりを語る理由を、同年代なら容易く理解できるだろう。そこにあるのは余裕ではなく諦めだ。


 令和版末法思想。ここ最近出てきたスラング。目に見えて歪み始めた自然環境に地球の限界を悟って無気力になった若者たち。

 昼間はがんがんに晴れて日が沈んだ瞬間に雨が降り出し、夜通し降って、朝日とともにあがる。日中の平均気温はどこも四十度を上回る。こんな毎日が続けば、まあそんな言葉も流行る。どうせ今「可哀想に、これから生まれる子供達は七夕も十五夜も経験できない」「月は日本人の心に深く影響してきた、それが見えなくなった今この国の伝統が」「好き勝手やった人間の業だ、ついに神の怒りに触れたのだ」とかネットで騒いでる奴らも、そのうち居なくなるのだろうけど。いや、先に空が落ちて世界が滅ぶか。


 何せ、ずっと俺たちは無気力だった。二千年で世界が終わると思っていたかつての彼らの方がよほど楽だったに違いない。俺たちは近い終わりがいつかわからないのだから。人生の全てが地球の寿命とかいう時限爆弾との競争になる。だったらもう、それまで楽しんだもん勝ちじゃん。それで俺たちは高校三年生になってもだらだらと遊んでばかり過ごしている。


 今も向かいのカフェから同じクラスの永瀬が出てきた。化粧して友達と連れ立ち、片手には甘そうなドリンクのプラスチックカップを持っている。


「あ、あれ矢野と篠田じゃね?」

「ほんとだー、うわこんな時間にハンバーガー食べてる。やっばー」 


 いやガラス越しでも声聞こえてるし。あとそっちの方がカロリーやばいだろ絶対。

 賢い俺たちは気づいていないふりをして会話を続ける。


「だからさぁ、お前、やり残しのないようにしとけよ」


 やってんだよ今。毎日のように友達と会って遊んで、いつ死んでもいいようにしてる。諦めてるなりに強かなんだ。


「あとどれくらい残ってるんだ?」

「うーん、落ちるのはきっと夏だな。夢では半袖来てた」

「いや毎日夏だろ。今十二月だけど皆半袖じゃん」


 昇人は別に予知夢だけを見るわけじゃない、普通の夢も見る。昔、どうやってそれが予知夢だとわかるのか聞いたとき、彼は「視点」と答えた。普通の夢は自分の体の視点から見るが、予知夢は自分含め人々が動く様子を斜め上から見ているらしい。「あー、幽体離脱的な?」と俺が言うと少し言い淀んでから「神の視点、だと思う」と呟いた。そのときの昇人の眼は、どこか虚ろだった。


「じゃあ時期はわからない、けどこれまでは最低でも一ヶ月以内に起こったな」

「そうだったな」


 長くて一ヶ月。短くて明日、いや今日。頭の中で再生してみる終わりの様子は、なんだか個人が趣味で作ったCG動画みたいだ。想像は出来るが実感はない。

 でも核兵器が使われたり、ゾンビウィルスが蔓延するより、ずっと綺麗な世界の終わり方だ。夢から覚めたくなかった昇人の気持ちは少しわかる。

 ああ、どうせなら空が割れて落ちてきたらいい。でっかい空色の破片の隙間から、真っ黒な宇宙が見えるんだ。そこには月も土星も天の川もあって、見とれた瞬間に破片が頭にぶっ刺さる。視界が赤く染まる前に目を瞑ろう。最期に汚い物を見る必要はない。そうだ、


「星」

「あ?」

「……とか、月、とか」

「が、なんだよ」

「見てねえなって」

「……そうだな」

「見たくね? 最後に」

「ああーたしかに。見るか?」

「は?」


 そのまま連れて来られたのは、昇人の家だった。何度も上がった家、しかし通されたのは昇人の部屋ではなく、その向かい。


「あ……」 


 昇人の兄の部屋だった。物は酷く少なかった。静かだった。薄く積もった埃に記憶が齟齬を起こした。


「だいぶ片づけたんだ」

「……そっか」


 彼は小さい頃からよく遊んでくれた。招いてくれる彼の部屋は酷く散らかって、埃が舞って、秘密基地みたいだった。壁に貼られたポスターや飾られた模型の多くが、黒から青のグラデーションの中の色だった。国際宇宙ステーションごっこのあと、彼は俺たちに遠い星の話をした。夢みたいな現実の一端に、触れさせてくれた。


「明るいな……昼だから当たり前だけど」


 昇人がカーテンのついてない窓を開けると、風が吹き込んだ。生温い、湿気を帯びた風だった。そのまま昇人はガタガタと雨戸を閉め始める。 

 

「何をするんだよ」

「星を見んだよ」

「動画か何かだと思ったんだけど」

「もっとちゃちくて、もっといいやつ」


 日光が遮断される。風が消える。立ち尽くした俺を残して、昇人はどこかへ行ってしまう。


 《星を見に行ってきます》

 昇人の兄が居なくなったのは、この異常気象が異常じゃなくなりかけてすぐだった。大学生になった彼は、天文学を専攻していた。宇宙科学とかじゃないんだ、と意外に思ったのを覚えている。

 彼の行方は知れない。今のところ、この現象は日本周辺だけの話だ、他の国に行けば星なんて見放題だろう。

 だが俺も昇人も、多分二人の両親も、彼の置き手紙がそういう意味だとは思えなかった。

 令和版末法思想。

 そうして彼は姿を消し、俺たちは彼の語った夢を夢で片づけ、忘れた。


「これこれ。兄貴が作ったやつ」


 昇人が抱えていたのは、導線むき出しの黒い機械。一瞬爆弾みたいだと思った。でも表面に空いた細かい穴を見て、わかった。


「プラネタリウム?」

「そう」

「そんなの作ってたんだ、知らなかった」

「俺も知らなかったよ、兄貴がいなくなるまで。ほらそこ寝転がれ、埃だらけだけど」


 電気が消えれば、瞬間的にそこは夜。装置を挟んで昇人が寝転び、パチッと音がして部屋中に星が浮かび上がる。次いでゆっくりと回転しだす。配置は完璧なくせに星は自ら輝かない。完全で不完全な擬似宇宙。ちゃちい代物。


「馬鹿だよな兄貴。星ならこれで見れるのに」

「……満足できなかったんだろ」

「充分だろこれで」

「俺も、そう思う」

「ほんっと馬鹿だろ」


 昇人の声は水っぽくて聞き取りにくい。俺もかもしれない。ぐるぐる、星は回る。赤いのがアンタレス、で、これがサソリ座。オリオン座はサソリ座が怖くて逃げてるんだよ。星座早見表を見ながら教えてもらった、あの声が蘇る。


「でも隆人くんは、悪くない」


 星は回る。


「俺小さい頃、予知夢見るかもって怖くて、寝れなくて、それでも兄貴が星の話をしてくれるから、夜が嫌いじゃなかった、眠れない日は、星を見てたらよかった、でも星が見えなくなって。……多分、兄貴がいなくなったりしなかったら、いなくなってたのは俺だった」


 星が回る。


「そうか」

「だから心底安心したんだ、もうすぐ世界が終わるってわかって」


 星が消える。電池切れか、はたまた故障か。暗闇に不定な呼吸音だけが響く。


「星、見させてくれてありがとう」

「うん」


 今、世界が終わればいい。


 環境が変わる。適応できなかった奴は死ぬ。適応できた奴だけ生き残る。それでも最後は皆死ぬ。最高に平等。綺麗な話だ。綺麗な結末だ。

 二人、それを知る俺たちは、ただ待っている。

 偽物の小宇宙で、ただ待っている。

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