第4話
「わぁ、頼子。ありがとう」
正宗がいた。
けれど、そこにいたのは小さな正宗ではなく、大人の正宗だった。
仕事が忙しくて、年中海外に行く。
背だって、見上げるほど高くなっていた大人の正宗が。
途端に、わたしは恥ずかしくなった。
この正宗の前であんな窓くぐりをしてみせたのかと思うと、自分だけがとても幼いような気になった。
正宗の前から逃げ出したくなった。
「うん、よかった、よかった。それでは、わたしは任務終了ってことで――」
棒読みのようなセリフを言い、家に帰ろうと玄関を見たら。
「あたりまえだけど、ないわ。わたしの靴が」
正宗のお母さんは几帳面なのか、玄関にはサンダル一つ置いていなかった。下駄箱から誰かの靴を出し、貸してもらう手があるといえばあるけれど、こっちからそんなお願いをするのは図々しいし、わたしも他人の靴を履くのは少し抵抗がある。
「頼子の靴かぁ。ごめん、そこまで頭が回らなかった」
正宗は、いかにも申し訳なさそうな顔をした。
「いやいや、こっちこそ、ちゃんと頼めばよかった。あのさ、面倒だけど持ってきてもらってもいいかなぁ?」
「うん、持っていってあげるよ」
そう言うと正宗は、あろうことかわたしのことを持った。
「ちょっと、なに? わぁ」
これはいわゆる、お姫さま抱っこというヤツでは?
「待って、正宗。正宗がわたしをこのまま家に連れて行ったら、その間正宗の家は鍵が開いているってことだよね? となりとはいえ、それって、危ないでしょう?」
「そうだね」
正宗は素直にわたしを下ろしてくれた。
木の床に、わたしの裸足の足がぴたんとつく。
「ここら辺の治安はいいとはいえ、やっぱり鍵はかけなくちゃ。施錠大事。予防あっての防犯対策。わたしはここで待っているから、正宗はわたしの靴を持ってきて。そうだ、その時には自分の荷物も忘れずにね。もう、うちに泊まらないで済むんだから、お風呂も自分の家で、ゆっくりはいってさ」
今の出来事に動揺して、わたしは早口でまくし立てる。
「頼子の言う通りだ。鍵はかけないとね」
正宗はそう言うと、自分が玄関に入ったまま背中で鍵を閉めた。
「は?」
「閉めたよ」
そう言うやいなや、彼は靴を履いたままでわたしの足下に腰を下ろした。
正宗、座っちゃっている。
「あのね。わたしたちがここにいるのに鍵を閉めることもないでしょう?」
なんだかわからないけれど、わたしもその場にしゃがんだ。
目線を正宗に合わせる。
「正宗、あのね。わたしの靴を取に行くのが面倒なら、正宗の靴を貸して。それを履いて家に戻るわ」
正宗はわたしを見たあと大きくため息をついて、そしてうなだれた。
「どうしてだろう。頼子以外の人にはぼくの気持ちがばれているのに。お土産だって頼子が好きそうなヘンテコなのを選んで買ってきているのに。どうしてそれが頼子には伝わらないんだろう」
「……ん?」
正宗のぼやきの内容に、わたしは動きが止まった。
お土産?
ヘンテコ?
どういう意味?
「あのさ。今から、口説いてもいい?」
「えっ? くどい?」
正宗がうなだれたまま顔をこっちに向けてきた。
「頼子を口説きたいんだ。だから、ぼくに隙をください」
正宗がやけになったように言う。
正宗がわたしを口説く?
この、聖人君主みたいな正宗くんが、わたしを?
「いやいや。突然、なにを言い出すかなぁ」
しゃがんでいた座り方を正座に直す。
「誰か好きな
「いません、けど」
「ぼくのことが、嫌い?」
「嫌いなわけ、ないでしょう」
嫌いというよりは、むしろ――。
「でもね、わたし、正宗のことよく知らないし」
正宗がなにを好んで、どんなことが嫌いかなんて。
わたしはなんにも知らないのだ。
正宗は、わたしの好みのお土産を買ってきたと言ったけれど、わたしは正宗がどんなお土産を喜ぶのかわからない。
すると正宗は、今のわたしの言葉で完全にノックアウトされたような顔になった。
そうか、こんなものの言い方が隙がないってことなのかもしれない。
「ぼくさ、海外の仕事が多くなって。なかなかこうして時間もとれなくて。毎回出張から帰ってくるたびに『今度こそ頼子に告白しよう』って思っていたんだ。けれどそれが上手くいかなくて、どんどん時が過ぎていって、焦って。そんなとき――って、つまり今晩なんだけれどさ、お土産持っていったらおばさんに夕飯に招かれて。頼子も家にいて。そうなるともう『今日しかない』みたいな切羽詰まった考えになっちゃってね。ごめんね。頼子を驚かせちゃったよね」
失敗したなぁ、と正宗が苦笑いを浮かべた。
そんな正宗を見ていたら、なんだか健気で。
わたしは正宗をいじめているような気になってしまった
と、同時に、今頃なんだけれど胸が苦しいというか、ぎゅっとしてきた。
どきどきしてきた。
「頼子の靴を取ってくるか」
正宗が立ち上がろうとした。
「あのさ!」
ぐいっと正宗の腕を掴む。
わぁ、と言いながら正宗がもう一度その場に座った。
「あのさ、正宗。今じゃなきゃダメ? 今、わたしを口説きたい?」
正宗の腕を掴んだまま聞く。彼の驚いた顔が目の前にある。
「正宗の気持ちはわかったけど。でもさ『まずは、友だちから』っていうのは、あり?」
「なしだよ。だって、友だちなんて、それは今の状態と同じじゃないか」
けれど、待てよと正宗がつぶやく。
正宗がわたしの瞳を探るように、じりじりと近づいてきた。
「頼子の中で、ぼくは友だちですらなかったとか?」
いつもはさわやかな正宗の目が怖い。
わたしは、すっと目を逸らす。
あぁ、はい。そうです。
ついさっきまで、わたしは正宗とは友だちという言葉よりは、幼馴染みとかご近所さんといった言い回しが合う、ぬるい関係だって思っていました。
正宗がすっと両手を伸ばし壁につき、わたしはその中に包囲された。
うわっ。これ。あれでしょう? 一時期流行った……。
そんな突っ込みさえできない、嫌な流れですよ。
「……正宗、怖いよ」
「ぼくは頼子が怖いよ。ほんとうに、もう。きみをどうしてくれようか」
正宗がわたしをじっと見ている。
わたしは二十七歳なんていい年になっているけれど、恋愛方面はからきしダメで。
こんなときどうしたらいいかってことさえ、わからなかった。
それでも、今、彼から目を逸らしてはいけないのだということはわかった。
わたしを見る正宗の瞳が揺れる。
正宗の目に、わたしはどう映っているのだろう。
「友だちから、ありにして」
ささやくように、わたしは言う。
「なしだよ」
そう言うと、正宗がかするようなキスをしてきた。
こんなことしても、まだ友だちだって言えるのって、わたしに問うかのように。
「……わたし、正宗のことを勢いとかじゃなくて、ちゃんと好きになりたい。ちゃんと、正宗に恋がしたい。だから、少し時間が欲しい。そのために、友だちっていう猶予期間をちょうだい」
「ずるいな、頼子は。そんなこと言われたら、YESしか言えないじゃないか」
正宗は腕を壁から外し、少しだけ不貞腐れたような顔でそう言った。
そんな彼の顔がかわいいと思ってしまった。
これは、確信ともいえる予感。
わたしは、すぐに正宗に恋をしてしまうのだろう。
もしかすると、もう恋をしているかもしれない。
そうだとしても、やっぱり、少し時間が欲しいのだ。
自分の心を見つめてみたい。
今までの、彼への感情を整理したい。
なんたって、わたしは「鈍感娘」なのだから。
恋を自覚する時間は必要なのだ。
「頼子」
正宗が、真面目な声でわたしの名まえを呼んだ。
「好きだから」
正宗のストレートすぎる言葉が脳天に響く。
「……ちょっと。まずは友だちからって言ったじゃない」
正宗に抗議する。
「ぼくは嘘つきだからね」
正宗はそう言うと、ズボンのポケットに手を入れて、じゃらじゃらしたものをわたしの目の前にぶら下げた。
「鍵?」
「うん。持っていたんだ」
「え?」
正宗は鍵を持っていた。
「ついでに言うと、小学生のころも」
「は?」
小学生のころ、とな。
「嘘っ」
「ほんと」
「……どーいうこと?」
「頼子にかまって欲しかったから」
おとなしい顔して、正宗はそんな告白までしてきた。
「嘘つきっ!」
嘘つき、嘘つき、と連呼するわたしに、正宗は動じることなくじゃらじゃらとした鍵の中の一つを取ってわたしに握らせた。
「となりの駅だから。駅からは徒歩七分。三LDK。オートロック。三階、角部屋」
「な、なによ」
正宗から離れようと、座ったままずりりと後ろに下がる。
「マンション。買ったからさ。窓から頼子が入らないですむように渡しておくね」
マンションを買った?
鍵を渡す?
さっきまでわたしの目の前にいた健気な青年は、どこ?
「なんか、ずるい。ずるいよ、正宗」
「うん。ぼくはずるくて、嘘つきだよ」
正宗があたりまえとばかりに言い放つ。
「でもそうでもしないと、頼子に近づけなかった。そばにいられなかった。頼子はお転婆だったけど、乱暴な男子は苦手だったし」
その顔を見て、そんな正宗を見て。
あぁ、これが正宗だったんだなぁ、と思った。
わたしの目の前に現れた、嘘つきで策略家の正宗。
「でもね、まずは友だちから、だからね」
正宗がそうくるのなら、わたしだって負けられない。
形だけ睨んでしつこくもそう言うわたしに「三か月だけだよ」と正宗は言うと。
その嘘つきのままの顔で、とっても嬉しそうに笑った。
(おしまい)
おとなりさん家(ち)の正宗くんは、嘘つき 仲町鹿乃子 @nakamachikanoko
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