第3話

 わたしと正宗が食器を片付けたタイミングで、フローラルな香りをまきちらしながら父が風呂から出てきた。

 そして「サンキュー、サンキュー」と、なぜか英語で正宗に礼を言いながら、母とおそろいの大リーガーのTシャツを指し、ビールと柿ピーを持ってテレビのある和室へと行った。

  

 なんとなく、正宗と顔を見合わせて笑ってしまう。

「頼子のお父さんって、いつでも平和な感じでいいよね」

「威厳はないけどね」

「そこがいいんだよ。ほっとする」

 お世辞かもしれないけれど、父を褒められ照れてしまう。わたしも父のそんなところ、嫌じゃないのだ。

 正宗が洗面所を使ってもいいかと聞いてきた。疲れが顔に出ている。

「いっそ、お風呂に入る? うちに泊まることになるんだろうし」

「いやいや。とりあえず、顔だけ洗わせて」

 そんなのお安い御用なのだ。わたしは正宗と一緒に洗面所に行き、新しいタオルを彼に渡した。


 しばらくすると、正宗は生き返ったかのようなさっぱりとした顔で戻ってきた。

「ぼくの顔になにかついてる?」

「いえ、なにも」

 正宗の回復力、すごいな。

 すっかりピカピカの新品になっている。

 そして、新品になった正宗とわたしは、ようやくそろって我が家の二階にあがり、そのまま目的地であるベランダに出た。


 夏の夜のなまぬるい風が、わたしの髪を揺らす。

 顔にかかる髪を払いながら正宗を見上げ、視線をうちのベランダのすぐ前にある彼の家の窓へと向けた。

 うちと正宗の家は隣接していた。

 そして、正宗の家は換気のために、いつもその窓を少しだけ開けているのだ。


 はじまりはいつだったのだろう。

 小学三年生か、もしかすると四年生だったか。


 ある日、たまたま小学校の帰り道が一緒になった正宗が「実は、家の鍵を忘れたんだ」と言い出した。

 正宗のお母さんは働いてはいなかったけれど、それでも時折家を空けることがあり、そんなとき、正宗に鍵を持たせたのだ。

 正宗はその鍵を、自分の部屋の机に置いたまま学校に行ってしまったらしい。

「おばさんが帰ってくるまで、うちで待っていればいいよ」

 わたしは、自分よりも背の低かった正宗を見下ろしそう言った。

 

 ――しかし、待てよ。

 小学生のわたしは思った。

 ――それだと、正宗が家に鍵を忘れたってバレちゃうよね。鍵を忘れたぐらいで、おばさんに怒られるのはかわいそうだ。


 あとになって思うと、あのときのわたしの思考回路は、どうかしていたのだと思う。

 鍵を忘れたぐらいで正宗のお母さんは怒らない。

 なにかと小さなことで怒ってくるのは、わたしの母だ。

 眠る前に時間割を揃えろとか、鉛筆はいつも削っておけとか、布団でお菓子を食べるなとか。

 わたしは、年がら年中母の小言を聞いて育ったのだ。

 そんな風に育てられると、どうしても思考が「いかに怒られないか」にいってしまうもので。

 わたしはどうしたら正宗が怒られずにすむかを考えに考えたのだ。

 つまり、正宗が鍵がなくても家に入れれば問題ないんだよね。

 わたしの頭に、うちのベランダのすぐ前にある彼の家の窓が浮かんだ。

 いつも開いているあの窓をくぐって、家に入るのはどうだろう?

 お転婆だったわたしは、その考えに興奮した。


 ベランダからの侵入、やりたい。


 もはや、正宗の事情は吹っ飛んでいた。

 そして、わたしは正宗のうっかりを盾にして、ちょっとした冒険を楽しんだのだった。


 



 案の定、正宗の家の窓は少し開いていた。

 わたしは窓と彼を交互に見る。

「正宗、ここから家に入ったらいいんじゃない?」


 ほんとうは自分がやりたいっ。

 けれど、さすがにそうは言えない。

 だって、わたしは二十七歳の素敵な女性に成長しているわけであって。

 そんなわたしが、よそ様の家に窓から入るなんて、ねぇ。

 しかし、正宗からの返事はない。

 しびれを切らしたわたしは、正宗の家の窓を全開にした。

 全開とはいえ、引き違い窓なので窓の半分しかオープンにはならないのだけれど。

 半分の窓の向こうに、正宗の家の廊下が見る。

 その暗さに、わたしは少し怯んだ。


「……いやぁ、ぼく、この窓から入れるかなぁ」


 正宗がようやく動き、窓枠に手をかけた。

 実はこの窓は、かなり小さいサイズでありまして。


「正宗、窓より大きいかもしれないね」

「椅子を借りて、その上に乗って足から入れ――」

「だったら、わたしがやってもいい?」

 正宗の言葉を遮って言う。

「ほら、わたし、昔もよくやったじゃない? わたしにならできるよ、簡単に」

「……それは、助かるけれど」

「では、決まりね。正宗はさ、自分の家の玄関に行ってね」


 正宗からNOが出ないうちに、わたしは少し出っ張っている窓枠の上を手で掴んで、足を窓枠の下に乗せてぐいっと体を持ち上げ、そのまま体を正宗の家にすべりこませた。


「いたたた」

 背中と顔を擦りながらも、なんとか正宗の家の中へと入った。

 小学生のころより、わたしだって大きくなっていたか。

「頼子、大丈夫?」

 まだそこにいた正宗が声をかけてきた。

「大丈夫、大丈夫。ほら、玄関に行って」

 小さな窓の向こうに見える正宗にわたしはそう言うと、彼の家の玄関を目指した。


 とはいえ、真っ暗な家の中を歩くのは、ちょっと怖い。

 よその家だけれどかまわずに、わたしは目に付くスイッチを片っ端からぱちぱちとつけながら歩いた。


 廊下を進みながら、この家に入るのも久しぶりだなと思う。

 ずっととなりにあったのに、こんなにも知らなかったのかと不思議な気持ちになる。

 そして、ちょっぴりワクワクもした。


 階段を下りる。

 トントントンと、わたしの足音だけが響く。

 正宗の家で響く自分の足音にも、これまた不思議な感じがした。

 と、同時に懐かしさもあった。


 家じゅうピカピカの明かりのなかで、目の前に見えてきた正宗の家の玄関。

 ふっと、時が遡る。

 小学生のわたしも、今と同じようにワクワクしながら正宗の家の玄関に向かっていた。 


 この扉を開けると、正宗が立っているはず。


 心配そうな顔で、わたしを待っている小さな正宗が。




 そして、わたしは扉を開けた。



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