第2話

 一階のダイニングキッチンに入ると、ワイシャツ姿の正宗と目が合った。

 推定身長百八十センチ。

 大きく育った正宗が一人いるだけで、我が家のささやかなキッチンが余計に狭く感じられる。


「こんばんは」

「こんばんは、お邪魔しています」

 会話、終了。


 正宗を見たまま突っ立っているわたしの横を通り、母が彼の前にさっきわたしが食べた夕飯と同じおかずが盛られた皿を置いた。

 豚の生姜焼きにポテトサラダ。トマトにレタス。

 ただし、その量はわたしが食べたものの二倍はある。

 あれでは、父の分はないんじゃなかろうか?


「ほらほら、頼子。正宗君にお味噌汁をよそってあげて。わたし、お風呂に入っているお父さんに石鹸を出してあげないといけないから」


 おっと。父は既に帰宅していましたか。

 実の父が帰っても娘を呼ばずに、おとなりさんが来たからって呼びつけるのはどうなんだ、母よ。

 ふと母が着ているTシャツに目がいく。

 なんと、これは今をときめく日本人大リーガーのネーム入りTシャツではありませんか。

 あれが今回のお土産か。

 ……普通だな。

 ともかく、石鹸なしで風呂に入った父をレスキューするために、大リーガーTシャツを着た母は、わたしと正宗を残していなくなってしまった。


 しんと静まった部屋。


 わたしも立ったままでいるわけにもいかずに、母に言われた通りにお味噌汁をよそい正宗の前に置いた。

 律儀な正宗は、わたしがお味噌汁を置くのを待っていたかのように、勢いよく、しかしがっつくのではなくきれいな箸遣いで食べ始めた。


「おなか、すいていたんだね。お仕事も、お疲れさま」

 正宗が顔上げてわたしを見ると「うん」と言った。

 心なしか、いつもよりも正宗は疲れたというか、思いつめたような顔をしている。

 かわいそうに。

「あのさ、正宗」

 そう言いながらわたしは立ち上がり、冷蔵庫を開けてタッパーに入ったカレーを出した。

「よかったら昨日のなんだけれど、カレーを温めたら食べる? わたしが作ったから、味は今ひとつかもしれないけれど」

 そう言うと正宗は嬉しそうな顔で「いただきます」と言った。


「しかし、あれね。せっかく正宗が帰ってきたのに、おじさんたち留守なんて残念ね。たしか、群馬の温泉に行くって聞いたような」

「そう。うちの親は温泉好きなんだ」

「群馬ならそう遠くないんだし、息子の顔を見てから行ってもいいのにね」

「仕方ないよ。ぼくの飛行機が大幅に遅れて、帰って来るのが予定より遅くなったから」

 アメリカから日本への飛行機のあれやこれやで、十時間近くトランジットするはめになったそうだ。日本に着いたら着いたで、そのまま会社にも行き、ようやく帰ってこられたという。


「それは疲れて当然ね。ところで、十時間もなにしていたの?」

「夜だったから寝てた。目が覚めたら、空港内を散歩したり」

「危ない目にあわなかった?」

「大丈夫だったよ。変な人はいなかった」

 そうなのか。

「それは良かったね。ほっとしたよ」

 わたしがそう返すと、正宗は目を細めた。


「頼子は塾の講師をしているんだよね」

 正宗が珍しくわたしについて尋ねてくる。

「そうだよ。学習塾。小学生相手に講師をしているよ」

「楽しい?」

「楽しい。うちの塾は、学校の授業の補習のために通っている子が多いんだ。わたしも勉強って得意じゃなかったから彼らの気持ちがわかるし、引っ掛かるところもわかるから」

 経験は、今のわたしにとっては武器だった。

「いい先生なんだな」

「それはどうかな? わたしの態度が小学生男子並みだと、同僚の講師の方々には言われるけど」

「活発だからね」


 苦笑いしてしまう。

 ここで「お転婆」といった言葉を使わない正宗のジェントルさをたたえよう。


「今も、子どもたちのためにプリントを作っていたんだ」

「勉強熱心だな。塾の場所は、駅前だっけ?」

「よく覚えているね」

「駅の近くなら……いいね」

「そうなの。徒歩だけでなく、電車で通ってくる子どもたちもいるから、便利でいいよね」

 正宗が頷く。

 再び会話終了。


「お茶を飲む?」

「ありがとう」

 席を立ってガス台に向かう。

 やかんに二人分の量の水を入れた。


「ほうじ茶でもいい?」

「うん」


 お湯が沸くのを待って、急須に注いだ。

 あぁ、ほんと。いい香りだ。

 二つの湯のみにほうじ茶を注ぐ。

「頼子は昔からほうじ茶が好きだったよね」

 背中で正宗の声を聞く。

 たしかにわたしはほうじ茶が好きだけれど、正宗がそんなことを知っているというか、そんな情報が彼の頭の中にあるとは意外だった。

 湯のみを正宗の前に置いた。

「ありがとう」

 今日、何度目かの正宗からのありがとうを聞く。

 生姜焼きを食べ終えた正宗は、カレーを食べだす。

 わたしのカレーは、ルーの箱の裏を見ながら作るごくごく普通のカレーだ。

 そんなカレーなのに、正宗はとてもおいしそうな顔で食べてくれる。

 わたしはほうじ茶をちびちび飲みながら、正宗を観察していた。

 今の正宗っていうよりも、昔の彼を今の正宗から探そうと見ていた。


 ともかく正宗はでかくなった。


 小学五年生までは、わたしの方が体も背も大きかったはずだ。

 だから、わたしは正宗をかばってあげなくちゃいけないと思って――。


「ごちそうさま」

「あ、はいはい」


 正宗と目が合う。

 彼をじっと見ていたのが、ばれただろうか。


 でも、正宗がそれに気が付いたところで、彼はなんとも思わないだろうなぁとも思った。

 わたしが彼に対して、尊敬と劣等感が混じった感情を抱いているのと違って、彼がわたしに対して抱く感情は果てしなくフラットであるように思うからだ。

 

 ほんとうにそうだろうか。

 ふと、そんな考えが浮かぶ。


 果たして、正宗はわたしをどう見ているのだろう。


 できの悪い幼馴染み?

 図々しいご近所さん?

 はたまた、そこらへんに転がっている石ころ?

 いや、そもそもなにも感じてないかもしれない。


 無。


 つまり、いてもいなくてもいい存在。

 それは少し、悲しいぞ。




 食べ終えた食器を正宗が下げた。洗い場には父の食器も残っている。

「洗ってもいい?」

「いやいや、お客さまにそんなことは……あぁ、でも。だったらわたしが洗うから、正宗はそこの布巾で拭いて、食器をしまってもらっていい?」

 わたしは正宗に、食器の場所を教えた。

 そして、二人並んで流しの前に立つ。


「そういえばさ、正宗って家の鍵は持っているよね?」

 さりげなさを装い聞く。

「それが、持っていくのを忘れちゃったんだ」


 やっぱり!


「正宗ってさ、頭はいいのに鍵を忘れがちだよね」

「ついつい持たずに、家を出ちゃうんだ」

「昔からだよね」

 そう。これが、彼の唯一の欠点だった。

 正宗くんは、家の鍵を忘れがちなのだ。

 しかも、今日、ご両親は不在ときた。

「どうするの? 今晩」

「ホテルに泊まるよ」

「それは、うちの母が許さないだろうな。正宗、きみの今晩の宿泊先はうちの一階の和室だよ。ところで、おじさんとおばさんの帰宅って、いつだっけ?」

 明後日と正宗が言う。

 そうなると、我が家に二泊?

 別にそれはかまわないけれど、自宅に入れないと正宗が困るのではないだろうか。


「――あっ、もしかして。わたし正宗の家を開けられるかも」


 ほらほら、と正宗の顔を見る。

 正宗もそれに気が付いたのか、あぁ、って顔をした。

「食器を洗い終わったらさ、見に行くだけ見に行こうよ」


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