腕が豆腐になった男

eLe(エル)

豆腐

 彼の腕は豆腐になっていた。


 今朝方、ゴミを出そうと思った。

 休みに九時に起きるのなんて、しんどい。


 でも、今日出さなければここから次のゴミの日までの三日間、生ゴミから発される臭気がこの部屋の新鮮な空気を浸食すると分かっているのだから、起きざるを得ない。


 が、腕が豆腐になっていて、ゴミが出せない。


「おかしいな」


 ぼとり、ぼとり。指に力を込めるたび、豆腐が潰れて床に寝そべる時の気持ち悪い音。この感触は、絹か。いや、木綿か。どっちでもいいが。


 ゴミ袋をゴミ箱から持ち上げようとして、ずるりと滑る。


「どうすればいいんだ」


 力加減によっては、ギリギリ豆腐が、いや指が変形する程度にとどまってくれる。その力加減を早々にマスターした彼は、ゴミ箱に入ったままのゴミ袋を片結びすることに成功した。


「で、問題はここからだな」


 時刻は八時三十二分。まだ余裕はある。それに、九時までとは言いながら、ゴミ収集車が来るのは大抵九時十五分を過ぎてから。ゴミ置き場は廊下を抜けてから玄関を出て十メートルほど先にある。


 これを持ち上げるには、それなりの強度がなければいけない。あ、待てよ、と彼は考える。


「指とか腕を使わなきゃいいんだよ」


 と、手近にあった箒の先の部分を持って、柄の部分をゴミ袋の結び目に差し込んだ。そのままフィッシングの要領で釣り上げようとしたが、またも腕はぼとりと落ちた。箒を持つ手は結局豆腐なんだから、考えれば当たり前の結果だ。


「あぁもう、床が汚れる」


 苛々しながら肘から先を拾い集める。この豆腐はうまいことくっ付いてくれるから、まだマシだ。拾いきれない分はキッチンペーパーで拭き取る。だんだん腕が細くなっていく。


 と、そのキッチンペーパーが湿っていることに気がついた。そうだ、豆腐は水気があるから強度が低いんじゃないか。それに、だからこんな鳥肌が立つような音で潰れる。


「何か重しはないかな」


 彼はキッチンのまな板の上に両手を広げて、その上にキッチンペーパーを引くと、その上に鍋を乗っけた。なるほど、これはいいかもしれない。両腕の水分が抜けて硬くなっていく感覚。これなら煮崩れしにくくなるのも納得だ。


「……が、終わりが見えない」


 キッチンでハンドマッサージを受けるみたいな格好のまま、十五分くらい粘っただろうか。既に九時前だ。意を決して鍋を外し、再チャレンジする。だが、あっけなく腕は気持ち悪い音を立てて床に落ちる。


「もう無理かな」


 諦めて片腕だけ戻して、もう片腕で朝食に麻婆豆腐でも作ろうか。

 自棄になってそんなことを思いながら、小指がないことに気がついてあたりを探す。だが、どこにも見当たらなくて流石に焦りながら、時計をみると九時を超えていた。


「なんなんだ、一体」


 ムシャクシャして、思わずゴミ箱を蹴っ飛ばした。すると、ゴミ箱が倒れて中のゴミ袋が転がり出てきたのだ。


「そうか、足は豆腐じゃなかったな」


 気分は一転、これならまだ間に合うかもしれない。急いでゴミ袋を持って外に出ようとするが、ここは焦らずに。


 だが、細い部分はどうしても強度が低い。家から外に出るまでの間、指は何本か落ちてしまう。かろうじて手首に引っ掛けていけばなんとかなる。ただ、右腕は途中で折れてしまって、残るは左腕だけ。振り返ればヘンゼルとグレーテルみたいに、豆腐が点々としている。


「……もう蹴っ飛ばしていくか」


 ゴミ袋を蹴飛ばすのは心苦しかった。だが、背に腹は変えられない。勢いをつけてゴミ袋をサッカーボールのように左脚で蹴飛ばしてみた。


「あ」


 瞬間、膝からがくんと崩れ落ちた。強く蹴り過ぎた。あぁもうなんだよ、脚はプリンになってるってことか。


 先はつま先で蹴飛ばした程度だったからゴミ箱が倒れたけれど、勢いよく蹴ろうとすると、足が飛び散ってダメだった。しかもゴミ袋の結びも解け気味で、辺りにはカラメルとカスタードと生ゴミの良い匂いがぷんと広がっている。


「ここまで来て諦められるか」


 ゴミ置き場まであと数メートル。なんとか片足で這っていこうとするが、膝下がなくなった左足がコンクリートに擦れて黄色い軌跡を作り、どんどん短くなっている。この調子だと、股関節までプリンだろう。


 かと言って腕で強引に行こうにも両手は既に無いし、残った左腕も豆腐なんだから、心許ない。


 彼は仕方なく、全身で転がって行くことにした。ゴミ袋を頭で器用に押しながら、足と腕を庇って少しずつ進んでいく。


 そうしてなんとか、肩で息をしながらゴールまでたどり着いた。ゴミの一部は散乱していたが、仕方がない。ゴミ袋に網を被せて任務は完了。


 満足げに四肢を回収しながら自宅へと戻る。すると、ちょうど携帯が鳴り響く。


「はい。あぁ、その件は無理です。7月末までとお願いした件、8月1日に頂いても、承諾出来ませんので。え、7月末に送ってある? いや、ダメですね。私は定時に上がっているので、数分でも遅れた場合は承認しません。では」


 と、早々に電話を切る。ふうとため息をついて。


「仕事ができない癖に、自分に優しく緩い奴が増えたもんだ」


 そんな独り言を言いながらも、焦っていた。このままでは明日から仕事が出来ない。パソコンも打てなければカバンだって持てない。


 そこで、先のことを思い出した。


「明日まで全身水切りをしていればいいんじゃないか」


 そうだ。何事も完璧にこなさなければいけない。明日から腕が豆腐で仕事が出来ないなど、自分だけ特別な理由で休むわけにはいかなかった。


 ともなれば、明日完璧に動けるようになっておく必要がある。自宅にある重たいものを探した。色々と吟味した結果、冷蔵庫が最も適当だと考えた。


 ベッドの下に寝ることも考えたが、持ち上げられない。他のものでは軽過ぎて、確実に水切りされるかどうか分からない。


 その点、冷蔵庫は重心が上にあるので、てこの原理を使って傾けて、あとは重力に任せるだけだ。彼はタオルを敷いてその上に寝転ぶ。そして、冷蔵庫の上にフックをかけて、そこにつなげた紐を寝そべったまま引っ張っていく。


「これで良い。ちょうど良いから、今日は早めに休むとしよう」


 そして冷蔵庫が傾き、やがて大きな音が響く。


 それはいつにも増して、気持ち悪い音だった。




 了






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