ムゲン

柊 彩蘭

ムゲン

 青く澄み切った空に高く高く、階段のような入道雲が立ち昇っている。一段、また一段、私の視線は今いる校舎の三階の何倍も何倍も高い所まで階段を上がっていく。 大きく開かれた窓の外には、夏を待ちわびていたセミたちが大喜びで合唱を始めて、じりじりと照り付ける太陽の暑さを何倍にも増しているように感じられる。

 でも、今日に限ってはその暑ささえも、夏休みの訪れに心を躍らせる私たちのわくわくとした気持ちと良い具合に混ざり合って心地よく感じる。

 終業式の校長先生や、生徒指導の先生の話は、空に浮かんでいるわた雲のようにふわふわと脳内を通り抜けて、空気に溶けこんでいく。おそらく内容としては、羽目を外しすぎるな、とか進路のことをよく考えておけよ、とかだろう。

 進路……か、結局私は何がしたいのだろう。小さいころから何度も聞かれていたけれど、いつも深く考えずに答えていた。幼稚園児の頃はパティシエ、小学校に上がってアナウンサーになるとか、先生になるとか……。だから、自分の中で明確に定まらないままになっていた。

 もうすっかり見慣れた窓の外の景色は、過ぎ去った約三か月の存在を無駄に強調して、目いっぱい遊べる最初で最後の夏の扉をとんとん、と優しくノックされたような気持ちになった。


 時が過ぎるのは早いな、と改めて思う。


 昨日、お母さんに聞いたんだ。

――もう七回忌なんだね、おじいちゃん。


 部活に課題とあわただしい日々を過ごしていたら、あっという間に七月は通り過ぎてしまった。

 数学や国語のワークは答えが決まっているから、少し面倒くさいけどやる気を出せば空欄は埋まっていく。でも、進路希望の紙はいまだ白紙のまま半分に折りたたんでファイルに挟まっている。「ちゃんと考えて真奈のやりたいことを書きなさい」とお母さんは言うけど、「やりたいこと」というのは、「現実的にできること」とイコールで、例えば私が、「イラストレーターになりたい」とか言った日には、「考え直しなさい」と言われるに決まっている。そんなことを考えると、二つ折りにされたプリントを開くことでさえ億劫になる。

 そろそろ休憩にしよう、そう思った。ふう、と息を吐いて、数学のノートをぱさりと閉じて窓の外をぼんやりと眺める。風に流されるまま雲が右から左へと流れていくなか、ゆらりゆらりと、一房の細い煙が空へ昇って行った。

「煙っ、火事!?」

大慌てで立ち上がり、窓から身を乗り出して庭を見る。すると、おばあちゃんが庭にしゃがみこんで、小さな木にちろりちろりと燃える炎を穏やかな表情で見つめていた。

「おばあちゃん、何やってるの?」

すると、おばあちゃんはゆっくりと顔を上げて、

「迎え火を焚いているのよ。真奈ちゃんも見るかい」

と、微笑んだ。うん、と私は頷いて階段を一段飛ばしで降り、一階の庭に面した掃き出しを開ける。炎のほのかなぬくもりは夏の暑さに紛れ込んで感じることができなかった。でも、庭から見ると一房の煙が空と地上をつなげるように、一生懸命に昇っていくのが二階の窓から見た時よりもはっきりとわかった。青空のスクリーンの向こうにはおじいちゃんがいるような気がして、ぼんやりとその姿を浮かべてみる。

「そっか、もうお盆だもんね」

私は、ぽつりと呟いた。

「そうよ。本当は、夕方に焚くものなんだけど薄暗いと少し危ないから。それに、おじいちゃんせっかちでしょ」

そう言って、くすり、と笑うおばあちゃんにつられて私もそうだね、とほほ笑んだ。


 おじいちゃんは、せっかちすぎてバドミントンが苦手だったってお母さんが言ってたな。なんでも、落ちてくるシャトルを待つことができないんだって。なんとなく、わかる気もする。私も、体育の授業でバドミントンをしたとき空振りを沢山した。もし、私がおじいちゃんとバドミントンしたら、二人とも空振りだらけだったかもな……。


 「さ、戻りましょうか。お夕飯の支度をしないとね」

そう言って、おばあちゃんは立ち上がった。そして、はっと思い出したように私に言った。

「あっ、そうだ。真奈ちゃん、お迎えのお馬さん作る?」

「え、あぁ……。作ろうかな」

おばあちゃんのキラキラした目を見て、なんだか断ることができなかった。おばあちゃんの言った「お迎えのお馬さん」というのは、お盆に作るキュウリの馬のことだ。「ご先祖様は、行きはキュウリでできた馬で、帰りはナスでできた牛で帰っていくんだよ」まだ私が幼稚園児の時、おじいちゃんが教えてくれた。確かあの時、仏間においてあるキュウリの馬に私がかじりつこうとしたんだっけ……。本当、何やってんだろ、私。

「じゃあ、準備しとくからね」

と、言っておばあちゃんが掃き出しから家の中へ上がり、キッチンのほうに歩いていく。私は、なんだかすぐ部屋に戻る気になれなくて、青空にすぅっと吸い込まれていく迎え火の煙を眺めていた。ぼぉっと空を見続けていると自分まで空に吸い込まれていくような気持になって、なんだか胸のあたりがふわふわとした。


 しばらくして、仕事から帰ってきたお母さんに虫が入るから戸を閉めろ、と注意されるまで私はそうしていた。気づいた時には、迎え火の煙は黒く焦げた小さな木を残して消えていた。真っ青だった空は、一面綺麗なみかん色になっていた。


 夕飯の後、私はキュウリの馬とナスの牛を作り始めた。作り方的には簡単なので、すぐに完成した。仏壇の前に置いておこうと、リビングを出て仏間まで歩いていく。仏間には電気がついていて、おばあちゃんが作業をしているところだった。

「馬と牛、できたよ」

おばあちゃんの背中に向かってそう言うと、おばあちゃんは振り向いた。

「真奈ちゃん、ありがとう。そういえば、今お掃除してたらアルバムが出てきたのよ。ちっちゃい頃の真奈ちゃんの写真が入ってたの」

そう言って、アルバムを手渡してくれた。

「二歳、三歳くらいの写真だと思うよ。見てごらんなさい」

「うん、見てみる」

 自分の写真を見るのは、少し恥ずかしい。でも、二歳とか三歳とかそういう頃の写真になってくるともう割り切って見れるというか、変に小中学生の頃の写真よりかは恥ずかしくないような気がする。どんな時に撮った写真なのかも覚えていないし。

 表紙をめくってぱたりぱたりとページをめくっていく。時々、小さい頃気に入っていたおもちゃが映り込んでいたりして懐かしい気持ちになる。でも、ある一枚を見た時、パチッと脳の中で何かが弾けたような感覚になって、その写真に目が釘付けになった。どこかの公園だろうか、真っ赤に染まった紅葉の前で、私がおじいちゃんに肩車をしてもらっている写真。やっぱり私の記憶には残っていなくて、懐かしいという気持ちは湧いてこない。でも、胸がぽかぽかと温かくなった気がした。


 おじいちゃんとの思い出はほとんど覚えていなくて、年長さんや小学校に上がってたった一、二年の時の事くらいだった。おじいちゃんの部屋には沢山の本があったことや、ボランティアで地域見守り隊に入って、登下校を見守ってくれたこと。私の自転車練習に付き合って、毎日近くのグラウンドまで付いてきてくれたこと。

 そして、私が小学校三年生の時に突然倒れて亡くなってしまったこと。

 お通夜やお葬式の時は私の小さな心は置いてきぼりになっていた。告別式の時になって、息を切らしながらやっと追いついた心は、もうこれ以上感情をためるスペースは残っていなくて、ありがとう。大好きだよってそれだけ言って、お母さんに抱きついて大泣きしちゃったんだった。

――それだけ、大好きだったんだな。


 「真奈ちゃん、大丈夫? ぼぉっとしちゃって」

気づくと、おばあちゃんがこちらを心配そうにのぞき込んでいた。

「うん、平気。ちょっと写真に見入っちゃってただけ」

そう言うとおばあちゃんは、ほっと息をついた。そして、一枚の写真を私に見せてくれた。

「若い頃のおじいちゃんの写真よ。おじいちゃんは弁護士さんを目指して一生懸命勉強していたのよ」

おばあちゃんが懐かしそうに目を細めて写真を見つめる。

「でも、おじいちゃんは不動産系の事務所で働いてたんじゃなかったっけ」

「そうよ。おばあちゃんと結婚することになって目指すのを諦めたの。私のために、と思うと申し訳なくて、でも嬉しかった」

「そっか……」

どんな言葉をかければ良いのか分からず、気まずそうにしている私に向かっておばあちゃんは、でもね……と続けた。

「たくさん本を読んで、勉強は続けていたのよ。おじいちゃんにとって大切だった事は弁護士になるってことだけじゃなくて、誰かの役に立ちたいって事だったのかもしれないね」

そう言うと、おばあちゃんは片付けのつづきをやらないと、と言って作業に戻った。私は、アルバムをぱたんと閉じて畳の上に静かに置いて自室へと戻った。

 

 開けっ放しになっていた窓から見える空は一面が深い紺色で、まるで空がどこまでも続いているように感じられる。

 いつも優しくて、面白い。でも、いけない言葉遣いをしたときや、危ないことをしたときには鬼みたいに私に怒って……叱ってくれてたんだよね。


 もっと、傍にいたかった。

 もっと、優しさに触れていたかった。

 もっと、たくさんの事を教えてほしかった。

 

 もし、昔に戻ることができるなら、写真じゃなくて、動いて、話して、笑っている姿を心に焼き付けたい。

 もし、また出会えたら、その時にはたくさんの思い出話を聞いてほしいな。


 明日、いや、今からでも進路希望の紙を開いてみよう。

 自分がやりたいこと、自分の目指したいもの、どんな大人になりたいか考えてみよう。

 

 自分の真っ白な空欄の部分を埋める「夢」を探しに行こう。







 

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